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神の時間軸

私がイエスを信じた1980年代後半のアメリカの教会では、終末論が盛んに語られていました。それは、20世紀の終わりを目前にしての、コンピューター2000年問題があり、激動の20世紀から未知の21世紀の移行という大きなイベントを控えていたからです。その時、私が学んだのは、ディスペンセーション神学でした。

ディスペンセーション神学の特徴は、聖書の時代を7つの契約の時代に分けて、今は恵みの時代であり、終末の大患難の直前に本物の教会は「携挙」されると教えるものです。ゆえに、大患難はこの世と、信仰のない教会しか通過しないという選別主義でもあります。

私の通っていた、米国ワシントン州の教会も、牧師以下、それを固く信じており、時代が切迫することは、すなわち「携挙」への序曲の高まりであると理解していました。そして、ついに20世紀は終わり、21世紀に突入したのですが、その直後にアメリカを揺さぶったのが「911」という自作自演事件でした。それから、20年余が経過した今、全世界は未知の「はやりやまい?」に揺さぶられています。

歴史を振り返れば、第一次、第二次世界大戦という、辛苦を極める悲劇を体験した世界が、常に次の世界大戦に怯えるというのは、あたりまえの反応でしょう。ゆえに、時代の分岐点であった西暦2000年を前にして、「携挙はいつでも起こりうる」と浮足立った教会があったことも理解できることです。そして、今また、全世界的な「はやりやまい?」ムーブメントの中で、「携挙」を待望するクリスチャンが多くいることも理解できます。

しかし、私は、そのようなセンチメントを否定しませんが、いわゆるディスペンセーション神学史観は、誤りであると考えるに至りました。私個人の信仰の土俵は、アメリカのカリスマティック・リニューアル(カリスマ刷新)という範疇にありますが、その教えにある霊的な深さや良き恵みに感謝しつつも、その中に色濃く存在する「ディスペンセーション神学」とは決別しました。

それは、神にとっての時間とは何か?ということを考えたからです。

ディスペンセーション神学が主張するように、天地創造から再臨までの時間を、時系列に7つに区分するというのは、なるほど合理的であり、整合性が高いように見えます。時間が右から左へ動き、それが不可逆であると定義するなら、人間が普通に認識するように、「覆水盆に返らず」であり、つまり、時間は一切逆行できないし、また、将来へも移行しないというものです。つまり、タイムマシーンは絶対に存在できないという考えです。万一、タイムマシーンがあって、過去の事象に触れるなら、その後のタイムラインは変わってしまうのだから、絶対に、過去は変わらないし、変えられない。同様に、未来もそうであると考えます。

しかしながら、時間が「神の創造物」であるという観点で、歴史を俯瞰的に見るならどうなるのか?私の新たな論点なのです。

聖書はイエス・キリストの時間的存在について、次のように記しています。

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。

へブル書13章8節

生ける神の御子キリストである、イエスが現在過去未来において、不変の存在であるというのは、その属性からして当然なことです。神が神であるのだから、時間の経過で、神が変質、劣化することもないし、様変わりすることもありません。ゆえに、私たちは、神が絶対的な存在である、天地の創造主であると確信をもって信じることができるのです。

さらに、時間上の神について、つまり、イエスが時間軸をどのように動いておられるのかを考察すると、ディスペンセーション神学のような、時間軸を7区分するということだけで、神の御計画を理解するべきではないと私は考えます。

つまり、イエス・キリストの2000年前の十字架上の犠牲が、今の私たちの罪深さを帳消しにしているように、イエスの過去の業績は、現在に有効であり、また、未来のイエスの姿もまた現在的であると言えるのです。未来のイエスとは、再臨のイエスであり、また、新天新地に、すべてのビリーバーたちが住まうという未来においてもイエスは、まことの救い主であるということです。

しかし、この21世紀を20年を経た世界は、きわめて終末的様相を見せています。ヨハネの黙示録が、後半の13章で描写している「666」という刻印を受けなければ、物を売ることも買うこともできないという社会。そこには、偽預言者や反キリストが跋扈し、偽りの礼拝が背教の教会でなされる世界。戦争、疫病、魔術が横行する世界。多くの命が失われる時代。これは、今の私たちの社会の描写とほとんど同じともいえるのです。

もし、時代区分をその教えの要諦としている、ディスペンセーション神学ならば、絶対に起きてはならないのが、「OOOOパスポート」がなければ、就職もできず、公共機関、交通機関も利用できないという監視社会の実現なのです。つまり、今の時代は、まだヨハネの黙示録の必要十分条件を満たしていない、だから、「ooooパスポート」も、これは、まだ666の印とは言えないという時代認識へと落とし込まれてゆくのです。また、今の段階では、だれが偽預言者で、だれが反キリストであるのかということを、名前をあげて規定することはできません。だから、携挙という、教会の天への離脱が起きなければ、全世界的「666社会」は実現しないというのが、ディスペンセーション主義の立場です。

しかし、現代の社会のシステムを俯瞰的に、また、客観的に見るなら、すでに、この社会は実質的に反キリストのものであり、その中でしか、国家も企業も社会も機能していないという現実があります。このインターネットというコミュニケーション手段にしても、彼らの完全に監視下におかれていることは、明々白々の事実です。もし、だれかが、だれかの言論封殺をしようと思うなら、それはいとも簡単に達成できるのが今の社会なのです。

しかし、聖書は言います。私たちは決してあわててはならないと。

それゆえ、主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしはシオンに
一つの石をすえて基とした。
これは試みを経た石、
堅くすえた尊い隅の石である。
『信ずる者はあわてることはない』。

イザヤ書28章16節

私は、今がすでに、人間的な時間軸の認識を超えて、ヨハネの黙示録が実現していると理解しています。つまり、2000年前にパトモス島に幽閉されていたヨハネが見たのは、21世紀の社会であったということです。つまり、彼はまさに「未来を見て記録した」のだから、ある意味、まるでタイムマシーンに乗って未来に来たような現実が彼にはありました。2000年前のヨハネの「現実」においても、イエスは主であり、彼が垣間見た2000年後の世界においても、イエスは「変わらず」主であったのです。

時代を区分して聖書と人類史を理解するというのは、正統的で科学的でありまた常識的であるように見えます。しかし、神の現実は、人間の「常識」をはるかに超えて、私たちの知りうる科学的発見など足元にも及ばないほどの、ダイナミズムに満ちているものです。

これをごく簡単に言うならば、神は、ご自分が想像された「時間」の上を、自由に飛び交い、必要な御わざを常に成し遂げる存在と言えるでしょう。

私たちの時間の認識は、常に不可逆的であり、同一速度の進展であり、あらゆる物理法則に縛られたものです。だから、人間にできないことはできないし、人間に観測できないこと、人間が予測した方法や出来事に100%囚われた世界観しか持ちえません。

しかし、神の創造したこの天地とそこに満ちるもの、それを取り巻く時間軸もすべて、神の主権によって、その御愛によって、保たれていると認識できるならば、過去にできなかったこと、今できないことに、私たちは規定や制限されることはありません。まだ、教会の携挙は起きてはいませんが、また、今、目の前に行われている、反キリストによるあらゆる行為に対して、私たちは「否」という判断を突き付けることが必要なのです。ゆえに、聖書が言うように、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカの福音書 1章37節)ということが現実化します。これが、イエスの名によって、どんなことでもできるということの、霊的メカニズムなのです。

この文章の結論は、次のようになります。

(1)ヨハネの黙示録の記述は神の時間軸で理解するべき。
(2)神は、将来の出来事を今の私たちに啓示し、その実現に対して確信を与える。
(3)目前の現象が、反キリスト由来であるならば、それは、主イエスの名のおいて退ける必要がある。
(4)神の言葉は、神の主権によって、完全に実現し、また実行されることに、私たちは全幅の信頼を置くべきであり、神の御心と調和して歩むときに、あらゆる困難を乗り越えることができる。
(5)来るべき携挙の時が、また、再臨の時がいつであれ、目を覚まして、すでに、イエスにある者として、主イエスと共に歩みつづける。そして、天からの使命を果たす人生を送る。

主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。(第二歴代誌16章9節)

2020年1月15日


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