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パートナーとの話


 愛について相当長い間考えていたし、相当長い間悩んだ、と思う。Aはアロマンティック/アセクシュアルで、つまり恋愛感情も性的欲求も持たない人だ。私の周りにはクィアの友人が数人いて、ゲイセクシュアルやバイセクシュアルの友人と恋バナをして生きてきた。が、恋愛自体に感情が向かないというのはAが初めてだ。そんなAを一目惚れで好きになってしまった私は一体どうするのが正解だったのだろうか。今でも答えはわからない。ただ、初対面の時の衝撃だけが私の心に残っている。

 便宜上Aと呼ぶが、彼は5年の交際の末に今年に入ってから結婚した私のパートナーである。同じ大学の先輩で、バイト先が同じだった。そこで出会った。初夏で、蒸し暑いキッチンで名前と学部を名乗って挨拶してくれたのに声が小さすぎて聞こえず、私は愛想笑いをしていた。バイトリーダーだったAはみんなと違う青いシャツを着ていて、夏なのに東北生まれゆえの色白さも相まって爽やかに見えた。
 陳腐な言葉だが、抗いがたい引力がAにはあった。「いつかこの人のことを好きになる」と思った。当時大学1年生の19歳で、高校の頃の同級生と付き合っていた私には、初対面の人にそんな感情を抱いたことが衝撃だった。寡黙なタイプのAはあまりお喋りをしなかったけれど、バイト中に目が合うとはにかむように笑ってくれた。「いつか」はすぐに訪れた。出会ってすぐに惹かれて、あっという間に好きになった。恋は落ちるものだなと腑に落ちたし、どちらかというと引き摺り込まれたような気もする。

 付き合うまでのことを振り返ると、Aに対してひどいことをしたと思うので赤裸々に書くのは自分でも憚られるのだが、実際に私は4回告白した。引く。4回告白したということは3回は振られているわけで、ちゃんとAは「同じような好きにはなれないと思う」と言って私を振っている。なのに再三告白されて、当時のAはすごく困っただろう。この人話が通じないな……と思ったかもしれない。私はその頃アロマンティックにもアセクシュアルにも詳しくなく、そういう人たちがいることすら知らなかった。おそらくA自身も自分の恋愛志向や性的指向についてちゃんと掘り下げたことがなかったんだと思う。(そもそも彼はもともと自分の恋愛への興味の薄さについて悩んだこともないそうなので。常に自然体で自分を受け入れているその姿勢は尊敬している)
 それにしても私の行動は自分勝手すぎる。今の私なら踏み出す前に考えるところだとこれを書いていて呆れる。告白ハラスメントという言葉に当てはまるだろう。もしこれを当事者が読んだら不快に感じるだろうとも思う。しかし無知だった当時の私は真剣で、これを逃したら他に好きな人ができるんだろうか?とも思っていた。かくしてAは卒業するほんの数週間前に「わかった」と言った。私が一生片想いの恋愛をすることになった瞬間だった。



 女の子は愛された方が幸せだよという巷に溢れる言説が私は大嫌いだ。反対に、愛は与えるものだ、と言う人もいる。愛は与えるものだろうか?本当に?
 この5年間、恋愛感情を持たないAと生きてきて私が見つけたのは、私よりもAのほうが相手の心を満たすのが上手いということだ。恋愛は至上ではない。恋愛の愛が他のどの愛よりも素晴らしいなんてことはない。私は自分の恋愛の愛が至上だと思いたくなかった。私の好きとAの好きは別物だ、私たちの間に体の関係はほとんどなく、それでも私はAのことだけが特別で、少女漫画のように一途に好きだった。花に水をやってやがて根腐れするのではないかというほどに私の愛は与える愛だった。でもそれは私の勝手な自己満足でしかない。世の中の、愛された方が幸せ言説は相手の自己満足の愛でも愛を欲していれば満たされる、という意味だろうか。
 Aは別に私の与える愛なんてなくても生きていけるのだし、もっと言えば不要だ。でもAはいつだって自分に向けられる恋愛の愛を拒否したりはしなかった。「俺にはその感情がちょっとわからない」と言ったってよかった。もしくは、私が傷つくことを避けて嘘の「俺も好きだよ」を重ねる選択もあった。しかしAは誠実な人なので、私が喜ぶための嘘をつかない。「会いたい」と言っても、A自身が会いたいと思っていなければ「俺も」とは返ってこないし、私の「好き」にさえ「俺も」と返してきたことは一度もない。
 しかし拒絶されないことによって私は満たされていた。私の重苦しい恋愛感情を彼自身はわからないはずなのに、気持ち悪いとも重すぎるとも言わず、いつも「うん」とだけ言って受け止めてくれた。それも愛だと思う。受け止めることも難しいだろう、他人の自己満足の感情を受け止めるには心の一部を使うだろう。Aに聞いたことはないので憶測ではあるが。私がAに同じ恋愛感情を求めないように、Aも私に恋愛感情の好きを伝えることを自由にさせてくれた。私はAのその接し方に押し付けの愛なんかとは違うもっと寛容なものを発見し、それをとてもかけがえのないものに感じている。

 自分の感情が溢れてどうしようもない時、私はよく「好きだよ」とAに言う。私の好きは胸が苦しくなり、いつまでもどきどきし続け、そばにいて触れていたいそういう好きだったが、Aは一度だけ「うん」以外の言葉を返してくれたことがある。「好きだよ」ではなく、彼は「大事だよ」と言った。二人で手を繋いでいた。Aは私の手の甲を撫でながら、「大事大事」と繰り返した。他人の怪我の跡を撫でるような手つきだった。おまじないのように時々思い出す、あの手つきと言葉。


 恋愛感情のある私が恋愛感情のない相手とパートナーである時、クィアでない集まりの場では居心地が悪い。クィアの場にいても居心地が悪いことが増えた(私は自分の愛が押し付けであることに自覚的なのでAに対して申し訳なさを抱えることもあり、それを第三者に指摘されるのが苦手だ)。
 恋愛感情のわからないAと、一目惚れの私は相性が悪いと思っている。わかりあうのは難しい。Aは私の重さに我慢をすることもあるだろうし、私は虚しさを持て余すことがある。アロマンティック/アセクシュアルとそうじゃない人の関係は、主に好きの重さの違いや体の関係の有無により双方に負荷がかかり破綻することが多いと知った。私もおそらくAもこれまで悩んだ。相談先などわからない。Aの恋愛志向や性的指向を第三者に話すことは滅多にないが(許可をとることにしているので今回書いていることは彼は知っている)話したところで「性欲がないのは変」「浮気しているのでは?」「生物として、男には必ずあるでしょ」「恋愛感情がわからないって、何かトラウマでもあったの?」という反応が返ってきたことは何回もあり、その度に地味に傷ついてきた。

 「大事だよ」と言われたあの日を思い出す。何度も、何度も。Aのそれは、おそらく私と誠実に向き合うための努力で、そしてその結果で、何年にもわたる関係の構築の上で出てきた言葉だったように思う。「大事だよ」はだから「好きだよ」にも「愛しているよ」にもならないが、愛ってなんなんだよと悩んでいた私のモヤモヤを晴らした。「好きだよ」ではないその言葉を、おそらく私は今後も忘れずにいるだろう。

 アロマンティック/アセクシュアルの人と親密な関係にある人、または自分がアロマンティック/アセクシュアルだけどパートナーは欲しいと考えている人などがきっといるはずで、でも同じような人を見つけるのは難しいのではないかと思う。私はAと一緒にいるようになって5年経ったが、同じような立場の人に会ったこともなければ、Twitterなどのコミュニティで見たこともない。
 私はマイノリティではなくひたすらその周辺にいるだけのヘテロセクシュアルで、世の中の恋愛に対してはマジョリティ側だ。でも私とAの関係は、マジョリティが想像するものとは違う形をしている。私にも輪がほしいと思ったことは幾度となくある。そんな人たちの一例として、自分の記録を残しておこうと思った。人と人の関係の数だけストーリーがあるはずだ。私とAもその中の一つでしかない。その中の一つでいられたら十分だ。

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