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パンがないならケーキを食べればええんやで


ゲシュタルト療法というものを体験してきました。

言語化をするという事において、あまりにも相性が合わない体験だったのでnoteにするのを非常に迷ったのですが、体験記として残しておきたい&必要な人に届けばそれは良き事という事でチャレンジしてみます。
おそらく第三者にはほぼほぼ伝わらない内容になるかもしれませんが、言語化を生業としている以上やってやんよ。という気持ちでもあります。

心理学を学び始めたのは2019年のことですので、かれこれ5年目に突入するわけですが、
私が一番最初に開けた扉はNLP(神経言語プログラミング)という領域です。
(NLPの源流にゲシュタルト療法もあります)

そこからコーチングやカウンセリングなどの対人支援、各種アセスメントや認知行動療法などを学びつつ、体験しつつ、ほーん。へーん。ふーん。と学びを深めていき、こと心理学においてはペーパーテストに勝る人生経験というものもあるため、自分の心身の移ろいや揺らぎを観察しつつ、対人関係においては、コミュニケーションの工夫や創意、頼まれた際には支援をしながら5年間を過ごしてたわけです。 


わたくしの本業は、デザインの企画やディレクションであるため心理道一本を極めたり!という境地には至らずでしたが、
知ってしまってからは後に引けず、そこに人間として生きていく上での本質的な価値や必要性と奥行き、
そして本業のデザイン領域とのなにかしらのシナジーを爆誕させられる可能性を無視できずに今も虎視眈々とどうしてやろうかな〜と思いながら学びを続けています。

心の世界、これは沼。


お、おぉ!?わかった!のようなアハ体験や気づきを体験する日もあれば、
いや全然わかんねぇよ、あれなんだったんだよという3歩進んで2歩下がるを地でいくようなダンジョン学です。

これが対人となれば、なにが起きているかはある程度学べば理解でき、評価判断をせずとも寄り添いや導きができるようになってくるものの、
こと自身に適応しようとすると自我の思考に制限されて途端に分からなくなるというループでございました。

もちろん自身のみでなく、自我に大きな影響を及ぼす家族やパートナーにおいても評価や判断をせずにただ在るものを在るがままに気付いておいておく。以上。という事を実践する事は難儀でした。

心理学を学び、感情を学び、仕組み、理論を学び、頭ではわかっているのにも関わらず、茶番や制御を繰り返してしまう。

これをこう、あれをどうにか、こやつをなんとか、
そして自分をどうにかと不都合なRPGを生きていたわけです。
というかそれが「生きること」とすら思っていました。

ゲシュタルト療法


ゲシュタルト療法については、昨日の体験会を主催してくれたしょーちゃんが説明してくれているのでしょーちゃんnoteを貼っておきます。

私なりの解釈で簡易的に言語化をすると、

・自分の中に在るものに気づこう
・気づいたらどうするかは自分で選択できるよ


というシンプルを極めた療法です。

シンプルを極めているからこそ、セラピストの知見やテクニックによって提供される療法の質にはかなり差が出てきそうだな。これやってんのまじすごすぎん…?となったのが個人的感想です。

私も準備ができたら学ぼうと思っています。

体験会には私を含め、20名弱の3〜40代の方々が参加されていました。
勿論、それぞれの職業や出身性別もバラバラ。

セラピストの方は、日本のゲシュタルト療法学会を創立された百武正嗣さん(通称ももちゃん)でした。


ももちゃんの佇まいは、
まるでジブリ映画から飛び出てきたような愛らしさと深海のように深い優しさを感じるような方でした。レジェンドきたり…というのが私の第一印象です。

ゲシュタルト療法の説明から始まり、ワークを中心としてあらゆる現象を目前にしました。

どんな現象を目にしたかについては、
プライバシーの事もあるためあえてここでは語りませんが、自身の体験と体感については少し触れます。

ワークはももちゃん対個人の1on1で行われますが、その1on1の周りを輪で囲み、他の参加者全員がワークを通して起こる現象を目にします。

目にしますと書きましたが、実際のところは目にしますどころではなく流れ弾をくらい普通に号泣します。すごい場でした。

パンがないならケーキを食べればいいじゃない


これは昨日のワーク体験して気付いたことを一日寝かして言語化したものです。
(マリーアントアネットは天然ではなく、悟っていたのかもしれません)

いやいや、パンがないならケーキを食べればよかったんじゃない?え、なんで気づかなかった?
しかもケーキの方が美味しいじゃんと、私はなったわけです。

さて、この辺りから難解になって参りますが、
どうか私の文章をクリストファーノーランの作品だと思って読み進めて下さい。

もう少し説明します。

私には不都合な設定がありました。

「私は大切な一人として選ばれる人間ではない」
「最後にはひとりぼっちになってしまう」


これに関しては、5年の自己探究の上で自ら発見した「設定」でした。

発見まではいけた。でも解除ができなかった。

不都合な現実が起こると、この設定を度々思い出しました。
何故、いつから、どうしてを探究すればそれは沼。
解除をしようとしていたことすらも忘れ、設定の解像度は色濃くなり、不都合な現実は量産されるばかりでした。

当たり前ですが、心理学を学んでいても嫌なもんは嫌です。辛いし苦しいし痛いし悲しいし。べつにMでもないし。

なので心理学という免罪符を提げて色々と「手法先行」で手を出したような気がします。それはそれで大きな学びになったのでよかったです。

便宜上私の設定の背景を一つのカテゴリーでまとめますが、私の場合は「家族連鎖」というカテゴリーに当てはまるものでした。

実際にはもっと複雑な様々な要因が絡みあって出来上がった設定だったかもしれませんが、それはもう今の私には知る由もありません。
(これから回収していくかもしれませんが)

マリアネ以外の例えをすると、
私はニンテンドー64(毎度例えがちょい古でごめんな)が大好きなのですが、64の本体が私です。

私は、本体にマリオのゲームソフトを挿しておきながら、

「なんで毎回ドカンが出てくるわけ?邪魔なんだけど」
「おいキノピオ!仕事しろ、役立たず」
「たまに出てくるコインあげ
⤴︎

をやりながらずっと心の底では、
私はマリオしかできない。本当はドンキーコングのゲームをしたいのに。まじ無理。つらすぎ。
となっていたわけです。

となりの人は楽しそうにドンキーコングのゲームをしているのを見て、ますます私はマリオしかできない…と思っていたわけです。

こうして文字にしてみるとちょっと滑稽というか、
シンプルすぎて少し笑っちゃうんですけど…

マリオのソフトを外して、ドンキーコングのソフトを選択して本体に設置すればよかっただけです。
それが「選択をする」ということだったのです。

選択をする、選択ができるという事を私は忘れてしまっていたのです。

意味わかんないよね?
でもこれが全てでした。

そしてその選択は「気づき」から生まれていました。気づかないと選択ができなかった。

そしてそれに気づくと、
すべての事象や出来事に「良い」も「悪い」も無く、ただそれが自分のRPGにとって不都合なものであればそれらは「悪い」側面を私に影響させ、私は悪いと認知する。逆も然りな訳でした。

課題がなくてもおけ


ゲシュタルト療法を体験して思ったのは、直面している課題や悩みが無くとも大きな変容があるということです。

実際に私は、今悩みがあるかと言われたら、
ほうれい線気になってきた。
ペットのニオイ対策ってなにがいいの程度のものしかありません。

それでも長年の心に澱のようなものはあり、昨日はせっかくだしぃ!?という勢いでふと口をついた長年の設定を皮切りに大きな気づきと変容がありました。

興味がある方は、ぜひ体験してみてください。

この体験記はあくまでも個人的な体験でおそらく体験者やセラピストによって感じ方はかなり変わってくると思います。

この体験記noteを書き起こす前に、パートナーにぶわぁぁぁって話したら普通に理解してた。
え、ノーラン?

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