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[公開日映画レビュー] 『ラビング 愛という名前のふたり』

2017年3月3日(金)公開。TOHOシネマズシャンテにて18:25の回に行ってきました。※ネットや一般的に確認できるような情報はなるべく省きます。

まずこれは1958年のアメリカバージニア州で起こった実話であるという事。このエピソードを知り感激した『恋におちたシェイクスピア』『ブリジット・ジョーンズの日記』『英国王のスピーチ』などで成功した俳優、コリン・ファースが制作に名乗りを上げ映画化が実現しました。

時代背景としては1955年に起こったローザ・パークス逮捕事件から端を発し、後にキング牧師らによる公民権運動といった、人種差別への人権運動が展開される時代です。

しかし今回のラビング夫妻はそんな政治とは全く無関係に、幼馴染であるリチャードとミルドレッドは自然にお互いを求め合い、ごく自然に愛を育くもうとしたに過ぎません。

やや特殊なのは今回の舞台であるバージニア州の街は生活環境として、黒人と白人が日常では一緒に暮らしておりそれほど、激しい差別が横たわってはいません。リチャードの父親も黒人に雇われていたと劇中で語られています。

――しかし婚姻は許されていません。

劇中でリチャードがもっとも多くつぶやく言葉は「おかしいよ」。

朴訥で寡黙、愚直なまで真摯にミルドレッドへ愛を捧げる彼はごく普通に暮らしたいだけなのです。

結局、公民権運動など人権運動の機運が高まる中、国家もこれを注視し、弁護士もまたこれらの機会に名をあげようと、マスコミも巻き込みつつ張り切ります。バーナード・コーエン役のニック・クロールがこのあたりの「動機が不純でややいかがわしい佇まいの弁護士」を好演しています。

ラビング(ラヴィング)夫妻の願いもこの背景に結局は助けられた事になります。

リチャードは素朴に「最愛の人と仲間や家族に囲まれながら故郷で暮らしたい」とただそれだけで姿勢が一貫しています。そのため急に周囲に現れだした弁護士やマスコミにはやや非協力的でもあります。

ミルドレッドは最初こそ判決後に転居したワシントンD.C.での環境の故郷との違いにひたすら嘆くばかりでしたが、子供を育てる中で自覚が出たのか政府に手紙を書き、社会背景が自分たち夫婦の問題を解決出来る可能性を見出してからは全体感が見えたようで、積極的に彼らを(あざとく言えば)利用し、また利用される事を厭わない姿勢に逞しく変わりました。

この夫婦がどこまでも澄んで美しいのはけっして「英雄」になりたい訳でも法律を変えたい訳でもないということ。それは「手法」であって、あくまで一庶民として「普通に暮らしたい」だけ。

この作品の本質として私が感じたのは、わずか50年ほど前の常識を今なら何とでも言えますが、聖書から論理を組み立て州の法律にしてしまえばそれが普遍的に「おかしい」としても、多くの民衆はそれを盲目的に「遵守」しようとします。

これは結局「“神”を利用した人種差別行為」であるとしても。

神が人間を差別するはずがありませんから、それは人間自身がそうしているのです。

今回の二人へ向けられる「非難」も「法を犯した」ということで、州内での人種差別行為は一部の権力者にしか見られません。

劇中でリチャードが一番堪えた場面は、産婆である母親が、幼少時から気に入ってくれていると信じ込んでいたミルドレッドとの結婚を実は反対で、その理由を「法を犯すなんてお前はバカだよ」と非難するところだと思います。

これらの意味で私はこの映画に「法律と人間の関係を見直そう」と言われているような気がしました。

さて、最後にこのラビング夫妻、私も今回の映画ではじめてこの物語を知ったのですが、アメリカでは有名だったようで、現在でも夥しいほどご夫婦の写真が残されています。一面「自由の国アメリカを象徴する最高の愛のストーリー」と受け止められているのでしょうか。そして今回の劇中では意図的にこの実際の写真のポーズを織り交ぜています。

これから観る方は画像を確認してから行ってもよいかも知れません。



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