夏海と拓海

夏海と拓海 9

 不貞寝。
 きっとその言葉が一番正しい。
 朝、部活を休むというとお袋の小言が続いた。いつもなら叱ったとしてもあっさりとしているはずなのに、今朝は長く続いた。
 夏海のことが引っかかっているのかもしれない。
 そうじゃないと何度いってもだめだった。
 サーフィンが楽しくて、そしてちょっと無理をした。ボードから飛び降りたとき、思いの外浅くて左膝を捻ってしまった。
 ただ、それだけだった。
 昨日はなんともなかったのだ。
 だからそのあとも波に乗り続けた。きっとそれがいけなかったんだろう。
 捻った膝を知らず知らずのうちに庇って乗り続けた。それでついバランスを崩して何度も巻かれた。そうやってまた膝を捻ってしまった。
 歩く分にはなんともない。でも、サッカーは走る。そしてボールを蹴る。膝は命といってもいいぐらい大切な場所だ。踏ん張るにしても、蹴るにしても、また瞬間的に動かすにしても要の部分。
──無理をするのが一番いけない。
 学校に電話して先生に伝えたとき、そういって今日はゆっくり休むようにいってくれた。
 なのにお袋は文句しかいわなかった。
 昼食も夕食も差し向かいで食べた。お互いに無言だった。冷めた料理を食べるよりも無言の方が不味いことがよくわかった。そもそも味がしなかった。
 部屋に戻るとそのままベッドに寝っ転がった。
 宿題に手をつける気にもなれなかった。
──どうして解ってくれないんだろう?
 それとも解れという方が無理なんだろうか?
 親父が帰ってきた気配がした。
 親父にも文句をいわれるのかと気が重かった。しばらくの間じっとしたまま待っていたが、誰も部屋のドアをノックしなかった。
 明日はいつもどおり部活に出よう。
 そう思ったとき、iPhoneが鳴った。メッセージが届いていた。
 ビキニ姿の夏海の写真と『大丈夫?』というメッセージ。
 ベッドの上で寝っ転がってそれを見たぼくはびっくりして飛び起きてしまった。
 何度も見返す。
 レインボーカラーのビキニを纏った夏海。笑顔が眩しかった。
 でも、どうして?
 自撮りした写真を、しかもぼくに?
 嬉しいのと不思議なのと、なにをどう考えていいのか混乱してしまった。
──あっ! 違う、違う。そうじゃない。
 メッセージの送り主を確認した。
 カジだった……。
──あの野郎。
 マジでびっくりしたじゃないか。
『なにやってるんだよ』
 ぼくは返信した。
『夏海ちゃん、心配してたよ』
 すぐに返事が来た。
『どうしてこんな写真?』
『今日、一緒に撮ったのさ』
 カジからの返事にまた写真が付いていた。
 ビキニ姿の夏海と制服姿のカジ。なんだかとても不釣り合いなツーショットだった。
『その写真、りり子に見られてもいいのか?』
 綺麗に日焼けした夏海の笑顔がとても眩しかった。しかも、ビキニ姿。Cカップ。
『だってお前の叔母さんだろ、大丈夫』
『理屈になってないって』
 夏海の横で笑っているカジが癪に思える。できたらこのままゴミ箱に放り込んでしまいたいぐらいだ。
『今日、メアドも電番も教えてもらったし』
 カジの嬉しそうな顔が想像できて悔しかった。
『なんだよ、それ』
『今夜はこの写真見ながら寝るわ』
 ぼくはふて腐れてベッドに転がった。右手にはiPhoneがあった。もう一度、メッセージに添付されていた写真を見た。
 ツーショットは見ていておもしろくないから二度と見返したくなかったが、最初に届いた写真は別だ。
 夏海の顔が輝いて見えた。
──夏海……。
 夏海のことを頭の中で思い描くと股間が気になってきた。
──そうじゃないんだよ。
 でも身体はなかなかいうことを聞かない。
 右手をパンツの中に突っ込む。硬くなったものを握ると上下させた。
 夏海からもぼくを気遣うメッセージが届いていたことに気がついたのは、そのあとだった。
『拓海、大丈夫?』
 なんだかとてもいけないことをしたような気がして、ぼくは落ち込んで返信することもできなかった。

 翌朝、いつもより早く家を出た。
 学校がある日はぼくの方が親父より早かったが、夏休みの間は親父の方が早く出かけることになる。どうしても話がしたくて、ぼくは親父を追いかけた。
「とうさん」
 駅へ向かう親父に追いつくと声をかけた。
「拓海、どうした?」
 親父はちょっと驚いたようだった。こうやってふたりで駅へ向かうことはいままでに一度もなかった。
「足の具合はどうだ?」
 親父が訊いてきた。
「うん、もう大丈夫」
 ぼくは頷いた。
「あまりかあさんに心配かけるな」
 そういって親父はすこしだけ笑った。
「でも、文句ばっかり」
 ぼくは俯いて答えた。
「心配なんだよ。それがそのまま言葉になっていないだけでさ」
 親父は微笑んだ。
「そうなのかな……」
 ぼくはちょっと首を傾げた。
「今日で夏休みも終わりか?」
「うん」
 ぼくはただ頷いた。
「明日から、また学校か」
「いままでも学校だけどね、部活」
 ぼくは笑って答えた。
「今日はどうした?」
 親父が尋ねてきた。
「ちょっと訊きたいことがあって、それで」
 ぼくはいい淀んだ。
「なんだ?」
「うん、じいちゃんの写真集……」
 ぼくは言葉を句切りながらいった。
「写真集、ちょっと見たいけど、家にないよね?」
「また、どうしたんだ、唐突に」
 親父は不思議そうに首を傾げた。
「海の写真って、どんなのを撮ってたのかなって。ちょっと興味があって」
 ぼくは言葉を続けた。
「いま、じいちゃんが使っていたのと同じメーカーの同じタイプのボードに乗ってて、それでどんな景色を見ていたんだろうって、ちょっと気になって」
 ぼくはそこまでいうと親父の顔を見た。
 親父はしばらくの間黙って歩き続けたが、やがて口を開いた。
「最初の写真集は送ってくれたんだよ。でも」
「でも?」
「かあさんがね、見たくないって」
 親父は頷きながらいった。
「彼女の写真が載ってたんだ」
「彼女って?」
 ぼくはよくわからなくて尋ねた。
「再婚する前の亜弓さんがね。それもとても綺麗に」
 親父はそういいながら下を向いた。
「亜弓さんが……」
「ああ。それで、かあさんがね、おばあちゃんのことを考えると、こんな写真集は持っていたくないって……」
 親父はそういってぼくの顔を見た。
「わかる気がする」
 ぼくは下を向いたまま頷いた。

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