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文学としてのマリオ――ゲームは「死」をどう描いたか


1.穴に落ちたマリオ

 マリオが穴に落ちて軽快に1ミスの音楽が流れ、暗転した画面に「WORLD 1-1」と再表示され、次のマリオが再びスタートラインに立った時、穴に落ちたマリオはどうなったのか考えたことはないでしょうか。

 人生は一回限りであり、死者は甦りません。しかし一回死んだらすべて終わりでは、ゲームにならないのも確かです。

 ゲームの主役が無機質なマークに過ぎない場合、その死と再生に思いを寄せることはほぼありません。
 ボールを落としてしまった「アルカノイド(ブロック崩し)のバーにはどんな罰が待っているだろうとか、消えてしまった「テトリス」のブロックはどこへ行ってしまったのだろうとかいうことは、あまり(全然、ではありませんが)考えないものです。

 ですがマリオには顔があり、声があり、ヒゲがある。彼に命を見てしまうのは、自然な共感作用です。
 そして共感した相手が死を超越し、奈落の底から何事もなかったかのように甦って来たとき、その現象を解釈するために人はしばしば正当化を試みるのです。

 穴に落ちたマリオの問題は、ゲームにおける普遍的なテーマとして受け継がれています。
 マリオが穴から舞い戻ることを正当化する考え方には、どのようなものがあったでしょうか。いくつかの例を見ていきます。

2.死ななかったマリオ

 もっとも穏当な解釈は、マリオは死んでいないというものです。

 穴に落ちたマリオは負傷しながらも生還し、一度安全な砦まで撤退して治療を受け、回復した後に再び「WORLD 1-1」に立ったのだと考えるのです。
 この解釈を広げれば、たとえすべての復活可能回数(残機、といいます)を失ってゲームオーバーになったとしても、マリオが死を迎えることはありません。
 ゲームオーバーは終焉ではなく、いつもよりも治療に時間がかかる大怪我に過ぎないのだと考えられるからです。

 死を否定することは、死者は甦らないという事実に対して有効なアプローチです。
 実際にも多くの怪我は時間と共に治るものですから、強靱な肉体を持つマリオがどんな痛撃からも立ち直ってくるのは不自然ではありません。

 ゲーム上のミスは死ではないのだ、とする考え方は、表現方法を変えながら多くのゲームで採用されてきました。

 アクションゲーム「天地を喰らう」で残機がゼロになると、プレイヤーキャラクターが敵兵に囲まれた一枚絵が表示され、コンティニューを促します。つまり、体力と残機がゼロになったことは、死ではないとされているのです。

「アクトレイザー」の主人公は神であり、プレイヤーが操作するのは神の魂が宿った石像です。
 石像なので、たとえ破壊されても神そのものが消えてなくなるわけではない。このゲームにおいてミスは、石像を失った神がいったん撤退することを意味するに過ぎません。

「HITMAN WoW」のフリーランサーモードでは、致命傷を負うと任務はただちに失敗となり、地下道や公衆トイレで傷口を押さえる主人公がロード画面で表示されます。
 その画面は、彼は深い傷を負ったものの、かろうじてその場を脱出したのだという想像をかき立てます。

 しかし、やがてゲームが物語を語るようになると、ゲーム上のミスは死ではないという解釈では、うまく行かない場合が多くなってきました。
 ゲームの中では剣で切られ、棍棒で殴られ、銃で撃たれ、核の炎に焼かれてさえも死なないキャラクターが、物語の中では小さなナイフで刺されただけで死んでしまうというようなことが起きはじめたのです。

 これでは、人はいかなる理由によっても死ぬことはなく、唯一の例外として物語の都合によってのみ死ぬのだと言わんばかり。
 そこまで舞台裏を見透かされては、どんなお話も茶番に堕してしまいます。

「プリンス・オブ・ペルシャ(2008)」では、主人公のプリンスは決して死にません。
 本来ならば死ぬような場面――魔物の大剣に斬られたり、深い穴に落ちたり――に至ると、同行者の魔法によって、何のリスクも負うことなく命を救われます。

 この死なない仕様は、一見すると合理的です。
「ゲームオーバー」と表示してタイトル画面に戻しても、プレイヤーはどうせリスタートを選んで、一分もしないうちに同じ場面に戻ってくる。
 それぐらいなら「死にそうだったが助けられた」ということにすれば、死者は甦らないという現実にも合致するし、プレイヤーのストレスも軽減できる……。

 ところが実際にプレイしてみると、これは問題があると感じざるを得ません。
 世界を破滅に追いやるような大敵を相手に一騎打ちをしている最中、たとえプレイヤーが手洗いに立とうが風呂に入ろうが、何百回となく切られたプリンスは悲鳴を上げるばかりで、絶対に死にはしないのです。

「プリンス・オブ・ペルシャ(2008)」は、死者は甦らないという現実をゲーム上で表現することに、確かに成功しました。
 しかしそれは、死を表現するのではなく、死の存在を無視することで達成されたものだったのです。死者は甦らないという現実を表現するため人は死ぬものだという別の現実から目を背けたと言うこともできるでしょう。

 一方、キャラクターがゲーム上で死ぬことはないという悪条件の中でなお、死を物語に取り込むことに成功したゲームもいくつかは挙げられます。

 もっとも有名なのは「ファイナルファンタジーⅤ」でしょう。
 このゲームでは、体力が尽きたキャラクターは「せんとうふのう」になったと表示されます。つまり、どんなに恐るべき攻撃を受けても、彼らは死なない。戦闘からは脱落しても紙一重で命を繋ぎ、手当を待つことになります。
 ところが物語の中盤、全面的な破滅の瀬戸際にあって、ある老戦士は体力が尽きてもなお「せんとうふのう」に陥ることなく命の限り戦い続けました。そしてかりそめの勝利を得たのちは、どんな妙薬も魔法も、本物の死に追いつくことはなかったのです。

 この場面は、ふだんゲーム上で死が否定されているからこそ描くことが出来るものでした。悪条件を逆手にとって、死を表現したわけです。

3.生き返ったマリオ

 穴に落ちたマリオは死んだのだ、という考え方もあります。

 死んだマリオは、おそらくキノピオ(マリオが救うべきキノコ王国の民です)に回収され、砦へと運ばれた。そこでなんらかの魔法の儀式を受け、死から甦って、再び冒険に赴くのだとする考え方です。雲の上を歩ける世界ですから、そんなことがあっても不思議ではない――。

 この考え方は、死の存在を認めた上で、この世界では死は超えられない壁ではないのだと設定することで成り立っています。蘇生という奇蹟の導入と引き換えに、人は焼かれれば死ぬ、爆発に巻き込まれれば死ぬ、深い穴に落ちれば死ぬという現実がゲームの中に再現されるのです。

 一方で、甦りを導入することの代償は決して小さくありません。

 マリオが甦るのであれば、合理的に考えて、マリオの宿敵クッパ大魔王も甦るはずです。繰り返される冒険の中で、マリオはクッパを幾たびも殺し、クッパもまたマリオを幾たびも殺し、お互いに死に続け生き返り続けながら、果てしもなく戦う……。

 穴に落ちたマリオは死を経て蘇生したと考えるとき、マリオのゲームはこのように、地獄のような様相を呈することになります。
 高所から落ち、五体がばらばらになって頭蓋も砕けたマリオをキノピオが拾い集めて蘇生させ、「さあ、生き返ったなら姫様を助けに再出発してください」と送り出す……。
 マリオのゲームを、本当にそんな風に解釈していいものでしょうか。

 また、死者蘇生が存在する世界では、物語の中で死を描くことは困難になります。死を物語ろうとすれば、プレイヤーは必然的にこう考えるからです。「彼の死は悲劇的だ。なんてかなしい物語なんだ。……ところで、なぜ蘇生魔法を使わないんだ?」と。
 死者蘇生がある世界で物語を語るにはどうしたらいいのか。多くのゲームが、この問題に挑んできました。

 方法の一つは、死者蘇生は限られた条件の下でしか行使できないとすることです。
「伝説のオウガバトル」では、死者蘇生は現在プレイ中のステージでしか行えません。
 死亡したばかりのいわば新鮮な死体でなければ、蘇生は成功しないのだと考えるのが妥当でしょう。

 一方「タクティクスオウガ」では、蘇生魔法の使い手も同席しているはずの場所で暗殺が実行されます。
 ここから遡って考えると、このゲームでの蘇生は、死に至るであろう重傷でも命を繋ぎ止められる一種の救急救命であると考えられます。――つまり、当たり所が悪く即死してしまえば、助けられないのです。

「ドラゴンクエストⅤ」の死者は比較的たやすく甦りますが、主人公の父親が死亡した際は、その死体が高熱で焼却され、現場にいた主人公も連れ去られてしまうという展開になります。
 同じ場所に戻ってこられるのは十年後ですから、明言はされなくとも、蘇生は時間切れなのだろうと察せられます。
「ドラゴンクエストXI」でも、事情はおおよそ同じです。

「ファイヤーエムブレム」での蘇生の条件は、相当に厳しいものです。特別な人物が特別な場所で特別な道具を所持していれば、一人だけ蘇生させられる。ここまで厳しければ、ストーリー上の死を救えないことも、不自然ではありません。

 死者蘇生の存在する世界で物語を語る方法として、より大胆なアプローチも考えられます――その世界では蘇生はごく普通のことであるとして、死者蘇生を前提に物語を組み立てるのです。
 たとえば「ドラゴンズクラウン」では、蘇生は珍しいことではありません。行方不明の魔術師を探すという冒険で、見つかったのは彼の骨だけでしたが、骨は寺院に運び込まれ、つつがなく蘇生が行われました。この世界では、死はさほど重要な問題ではないのです。

 あるいは、もっとも誠実な解決法は、ゲームの中に蘇生手段を用意した場合、物語には死を持ち込まないことかもしれません……。

 いずれにしても、死者が甦るというのは大きな嘘です。その嘘をつき通すことはここまで見てきたように不可能ではないですし、一つの大きな嘘から世界の変容を語るのはSFの常套手段でもあります。
 ここにおいて、ゲームの作り手は選択を迫られます。自分がこれから作る世界では、死者が甦ることもあるのだと設定するか?

「いや」と、首を横に振る作者もいたことでしょう。
 人間は生き返らない。そこでは嘘をつかない。
 そう決めた作者は、ではどのようにすれば穴に落ちたマリオを再び「WORLD1-1」に立たせられるか、想像力を駆使しなければならないのです。

4.多数のマリオ

 マリオはひとりではなかった、という考え方はどうでしょうか。

 穴に落ちたマリオは死に、生き返ることもなかった。再び「WORLD 1-1」に立ったマリオは穴に落ちたマリオとは別の存在であり、両者が同じようなヒゲの男なのは単なる偶然か、キノコ王国ではヒゲにオーバーオールが正装であるのか、あるいは単に機械の描画性能の限界に過ぎないと考えるのです。
 これは、ゲームのキャラクターを性格を備えた個人だと考えることをやめ、one of themに過ぎないと考えることでもあります。

 共感した存在に個性がなく、いくらでも替えの効く存在であったと考えることは、一般的に言ってあまり愉快ではありません。
 マリオとはマリオと名づけられた集団の一員に過ぎず、穴に落ちたマリオは任務のためやむを得ず犠牲になったのであり、また次のマリオが出発するだけだと割り切るのは、控えめに言っても残酷でしょう。
 ――しかしその残酷さは、かなしいかな現代的でもあるのです。

「コールオブデューティー」シリーズや「バトルフィールド」シリーズなど、ファーストパーソンシューティングと呼ばれる一連のゲームでは、たいていオンライン回線を通じて見知らぬ他人とゲームを楽しむことができます。
 二度の大戦や現代戦、果ては近未来を舞台に戦う中で、プレイヤーは幾度となく自分の操作キャラクターの死を目にすることになります。ライフル弾を撃ち込まれれば人は倒れ、医療措置を受けなければ死に、そして死んだ人間は生き返らない。
 プレイヤーはキャラクターが死ぬたびに、新しいキャラクターとなって出撃します。個性とは持っている銃器(と、いくつかの能力強化)のことであり、一つの死は「1D(デス)」に過ぎない。現実的と言うなら、これほど現実的なことはないでしょう。
 一人のマリオの死を特権的に扱わないことは、死を表現する有効な手段だと言えます。

 しかし……ゲームという新しい表現手段の中で、個人を否定することによってようやく生と死を描き得たという結論は、あまりにむなしいではないですか。この考え方を採る限り、物語に主人公は存在し得ません。
 無名のマリオたちに死は順番に訪れ、たまたま最後の栄冠を掴んだマリオだけが英雄としてエンディングに名を残すというのは、ポストモダンにも程がある……ほかの手段はないのでしょうか。

5.複製されたマリオ

 少々SF的な設定を持ち込めば、穴に落ちて死んだ第一のマリオと、再び旅立つ第二のマリオが同じ存在だと考えることは可能です。
 キノコ王国ではマリオの複製が作られており、無数のマリオがクッパ大魔王に挑んでいるのだと考えるのです。

 人間の複製というと戸惑いを生じるかもしれませんが、主人公が機械であるゲームでは、さほど突飛な考え方でもありません。たとえば「ロックマン」はどうでしょうか。ロックマンは大きな損害を受けると青い光の弾になって八方に飛び散りますが、これは爆散でしょう。
 ロックマンが復活することを、散らばった部品を回収して修理したのだと解釈するよりは、新しい機体を生産したのだと考える方が理に適ってはいます。あらかじめバックアップしておいたロックマンの「心」を新しい機体にインストールして、ふたたび戦いの場に送り込むわけです。

「タイタンフォール2」で主人公の相棒は巨大なロボットですが、このロボットはたとえ破壊されたとしても、新しい機体にこれまでの学習――心――をインストールして甦ってきます。

「Fallout3」では、ある地下施設で人間の複製装置が暴走し、同じ人物を大量に生み出しています。
 悪夢的な光景ですが、主人公が何度死を迎えてもセーブポイントからリトライできる事実と重ね合わせると、少し、うすら寒さを感じないこともありません……。

 プレイヤーが戦闘機を操作するシューティングゲームでは、第一の戦闘機と第二の戦闘機が同じものだと考える方が難しいぐらいです。一機目が撃墜されたなら二機目を発進させようという、それだけのことです。
「レイストーム」のPS版には、ストーリー上の設定に基づき、13機でゲームに挑むモードが用意されています。最後の1機が撃墜されるまでにミッションを完遂できれば、ゲームはクリアです。
 生と死の問題よりも、複数の機体があるなら一斉に攻撃した方がよかったのではという戦術上の疑問の方が、大きく感じられるでしょう。

 とはいえ、マリオがone of themだと考えることと、マリオはクローンであると考えることのあいだに、どれほどの違いがあるのか。いずれにしても、どこかもの悲しさが漂います……そして、ゲーム上のキャラクターの死と生が人にもの悲しさを感じさせるのだとしたら、それは一つの表現として成功していることを意味するでしょう。

6.回帰するマリオ

 穴に落ちたマリオは、なぜ再び「WORLD 1-1」に立つことが出来るのか。
 死を否定することなく、蘇生を肯定することもせずに、かつマリオを消耗品でもクローンでもなく一個の個人として扱う方法はないものでしょうか?

 こんな考え方はどうでしょう。マリオは穴に落ち、そして死亡する――しかし彼がふと気づくと、彼はまた砦の前に立ち、キノピオの激励を受けている。時間が戻ったのだ、というのは。

 実は、ビデオゲームにおいてループというのは普遍的な現象です。マリオが艱難辛苦を乗り越えてようやくピーチ姫を救出しても、リセットを押せばまた最初から冒険が始まってしまう。
 リセットボタンというのは、すべてなかったことにする便利ボタンという側面もないではありませんが、ゲームのプレイヤーにとっては、もういちど初めからゲームを、困難を楽しむためのボタンでもあるのです。

 マリオはこうして何度でも、機械が壊れ果ててしまうまではいつまでも、クッパ大魔王に挑みます。途中で死んでしまっても、ただ時間が少し巻き戻るだけ。プレイヤーが諦めない限り、あるいは飽きてすっかりゲームをやめてしまうまで、ループは終わりません。

 ゲームが発達するにつれ、キャラクターの死が残機の消費と復活ではなく、そのまま死とゲームオーバーを意味する作品が多くなりました。
 マリオはカメに一噛みされただけで死にますが、昨今のゲームのキャラクターは豊富な体力を備えていて、ちょっとやそっとでは死にません。その代わり……死んでも残機を消費して復活することはなく、そのまま死亡するという演出が多くを占めます。

「バイオハザード」シリーズで操作キャラクターが死亡した時の「YOU DIED」の文字は、すべてが終わり、彼もしくは彼女が甦ることは決してないことを表わしています。
「SEKIRO」の主人公は二度、三度と死ぬことが出来ますが、限界を越えれば「死」と表示され、立ち上がることはできません。
 実に多くのゲームがキャラクターの死をもってゲームオーバーとなります――しかしもちろん、それで二度と同じゲームを出来なくなるようなことはありません。
 はじめから、あるいは記録を取った時点からゲームを再開することができるのですから、キャラクターの視点に立てば、これはまさに時の遡航であるといえるでしょう。

 ループは、ゲームに特異的な現象です。同じ映画を百回見ることも、同じ小説を百回読むこともできますが、それで内容が変わるようなことはありません(理解の深さは変わるでしょうが)。しかし同じゲームを百回遊べば、一回目のマリオと百回目のマリオは見違えるように変わっているはずです。  
 最初は下手だったプレイヤーも少しずつ上達していきますので、最初は穴に落ちていたマリオも二度目はおそるおそるそれを飛び越え、百回目には、鼻歌交じりに軽々と飛んでいくことでしょう。

 多くのゲーム作家が、このゲームの特異さを、自覚的に物語へ織り込んでいきました。1988年発売の「スナッチャー」の時点で既に、やや熟練を要する操作をやり遂げたプレイヤーに対して、初めてじゃないでしょうと話しかけるセリフが書かれています。
「ガンパレードマーチ」「地球防衛軍6」は、繰り返すループそのものが物語の根幹を成していました。

 また、一回目のプレイではけっして選び得なかった選択肢が二回目以降のプレイで出てくる――「周回」を前提としているというのは、選択肢型のアドベンチャーゲームでは、むしろ普遍的な手法です。

「Dead by daylight」では、殺人鬼に襲われた人々が必死に脱出口を見つけ出し、ようやく悪夢の森を抜け出しても、いつの間にか再び森に戻ってしまいます。何度でもループするというゲームならではの特性を悪意の神による玩弄だと物語るのは、皮肉めいてすぐれた表現だと言えるでしょう。

7.無限のマリオ

 マリオは巻き戻る時間の中にいるので、穴に落ちても再び「WORLD 1-1」に立つ。そう考えて、矛盾はないでしょうか。
 いいえ、ここには無論、大きな嘘が隠れています。思い出して下さい、時が戻っていると考えるのは、死者は甦らないという事実をゲーム上で表現するためでした。しかし……実際には、時は戻らないではありませんか!

 死者の甦りと時の遡航は、ありえないことにおいてはどちらも似たようなものです。どちらもお話としては面白いですが、甦りを避けるために時の遡航を導入するのでは、何の解決にもなりません。
 穴に落ちたマリオはどうなったのか? 死ななかったのでもなく、生き返ったのでもなく、時を遡ったのでもないとすれば?

 ここにもう一つ、別の考え方があります。ヒュー・エヴァレットが案出した平行世界という考え方は、多くの人々の心をつかんできました。ここではない世界が存在し、そこには私ではない私がいるという考え方には、確かに何かしら胸をくすぐるものがあります。
 生きるあいだに捨ててきてしまった可能性への未練ゆえ、私たちは平行世界に引きつけられるのでしょう。

 そして、ループと同じように、平行世界もまたゲームとは高い親和性があります。

 私が「ドラゴンクエストⅢ」を遊ぶとしましょう、勇者と武闘家、僧侶と賢者の四人が激戦の果てにとうとう世界を救った時、隣の家では勇者と戦士、盗賊と賢者の四人が、いままさに大魔王に敗れ去っているのかもしれません。
 これは、同じ世界が別の展開をしているのだと考えられます。……平行世界です。

 マリオが無数の平行世界の中にいると考えた場合、穴に落ちたマリオは死んでしまったのだと解釈できます。その世界ではマリオの葬儀がしめやかに営まれ、キノコ王国は侵略に屈してしまう。しかし一方、別の平行世界では、マリオの冒険がいままさにこれから始まろうとしている。それがまさに、「WORLD 1-1」に再びマリオが立つ理由だとするのです。

「カルドセプト」では、冒険を成し遂げた主人公は新しい世界の創造主になります。そして続編である「カルドセプト セカンド」では、前作の結果として、世界中で「カルドセプト」がクリアされた回数分だけの新しい世界が生まれ、それらの新しい世界がまた別の世界を生み出していく連鎖反応が起きていることが語られます。

「バイオショック」シリーズは、ゲームならではの物語表現に対して非常に自覚的であることで知られています。「バイオショック インフィニット」では下手にメタフィクションに逃げることなく、ゲームという表現の持つ平行世界への親和性を、鮮やかに物語へと取り込みました。

「UNDERTALE」は、物語を構成する不可欠な要素として、死と復活、別の選択による別の世界を導入しています。ゲームでしか語れない物語を語ったものとしては、最高峰に位置しています。

 インターネットの発達とそれにともなうゲームのオンライン化は、ゲームと平行世界の親和性をいっそう高めています。別の世界(つまり、別のプレイヤー)との交流や共闘がゲームの物語を紡いでいく例も、今日よく見られるようになってきました。私のマリオは死んだが、あなたのマリオは生き続けている。これはまさに、ゲームならではの死の表現です。

8.死ぬマリオ

 実は、生と死の表現にもっとも成功したのは、古いゲーム「ウィザードリィ」なのかもしれません。

 このゲームではキャラクターが死亡したとき、蘇生の機会が与えられます。その蘇生に失敗しても、もういちどだけチャンスがある。しかし二度目も失敗すると……キャラクターは消滅してしまう。
 即ち、本当の死を迎えるのです。

 絶対的な死は存在するが、そこに至るまでにセカンドチャンス、サードチャンスを用意するというのは、死とゲームを両立させるための優れたやり方と言えます。
 ただ、ゲームは「ウィザードリィ」の時代からずいぶん発展し、大規模化しました。いま、たとえ可能性だけでも「全て終わり」という結末を用意することは作り手にとって容易なことではなく、遊ぶ側にとってもこころよいことではないでしょう。
 しかしそれにもかかわらず、ウィザードリィの死のシステムを受け継いだゲームもいくつかはあります。

「ロマンシングSaGa2」では、キャラクターたちの意思と能力は、特殊な魔法によって時を越えて継承されます。その中で個々のキャラクターは、体力が尽きても戦線離脱するだけで、次の場面では戦いに復帰します。
 しかしこの復帰の回数には制限があり、個々のキャラクターに割り当てられた復活回数以上に戦線離脱を繰り返すとそのキャラクターは死亡し、永遠に戻って来ません。
 ライフポイントというこのシステムは、SaGaシリーズに長く受け継がれました。

「Darkest Dungeon」では、キャラクターたちは主人公(プレイヤー)が雇った傭兵です。彼らは体力がゼロになっても、死の瀬戸際で踏みとどまります。しかしその状態でもう一押しされると……。
 彼は、なおも踏みとどまるかもしれないし、とうとう力尽きるかもしれない。そして、死を迎えた傭兵が戻ってくることは(滅多に)ありません。

「ヴィーナス&ブレイブス」の主人公は不老ですが、彼の仲間たちはそうではありません。戦いに斃れるよりも、寿命による死を迎えることの方が多いでしょう。主人公は幾度も幾度も、かつての仲間の葬儀に立ち会うことになります。

 キャラロストとしての死が存在する上記の三作は、死から遠いプレイヤーキャラクターごく当たり前に死を迎えるその他のキャラを分割している点が共通しています。主人公に死んでもらっては困るというお話の都合と、死は普遍的に存在するというリアリズムとの妥協点でしょう。
「ドラゴンクエストIV」では、悲劇的な死を迎える人物を蘇生させられないのは何故かという疑問に、蘇生が叶うのは特別な加護を受けた主人公たちだけだからという説明がなされます。
 主人公たちにそこまでの特権性を付与することを是とするならば、たしかに、ひとつの答えではあります。

 一方、死を存在させる一方、復活の存在については特に何の説明も意識もしない(ふりをする)ゲームも存在します。
「LIMBO」「RUINER」「I WANNA BE THE GUY」などの高難度アクションゲームでは、プレイヤーキャラクターは一瞬で死亡し、一瞬で(少し戻って)復活します。これらのゲームの多くは残機性でなく、プレイヤーキャラクターは何度も死に、インスタントにリトライし続けます。
 無限と思われるほどに続く死と、特に何の説明もなく果たされる復活には、たしかに何らかの詩情があります。

 また、「死」をセーブデータの消去やゲームそのもののアンインストールとして表現した例もあります。
 ただ、それが死を表現したことになるのかどうかは、少し考える余地があるでしょう。

9.文学としてのマリオ

 人間は深い穴に落ちたら死に、生き返ることはありません。しかしマリオには再挑戦が許されます。

 実に多くのゲームが、人生は一回限りであることとゲームは再挑戦できることの差を、時には解釈によって、時にはルールによって、時にはシステムによって埋めようとしてきました。その営みは生を表現しようと試みること、つまりは文学であると、私は思います。

「アサシンクリード」シリーズでは、主人公は特殊な装置で先祖の記憶を追体験しているのだと語られ、ゲーム上のキャラクターの「死」は先祖の記憶へのリンクが一時的に混乱し途絶えてしまうことだと表現されます。たしかに、一つの案ではあります。

「katana ZERO」では、アクションの失敗と主人公の死は、主人公が得た特殊能力による未来視だと描かれます。死のすべては予感であり、うまくいった一回だけが本当にあったことだとするのです。面白い表現です。

「Left4Dead」シリーズで主人公たちは大量のゾンビに襲われますが、これは、そのような映画の撮影なのだという枠物語が用意されています。なるほど、このやり方ならばキャラクターの死は「ゲームの中の映画の中の死」であり、再プレイ時に同じキャラクターが登場することも、おかしなことではありません。これもまた一つのアイディアでしょう。

 ゲームの中で、死を、いのちをどう表わすか。ゲームと物語を接続するためにはどのような表現が有効なのか。
 試行錯誤はいまも、世界中で続いているのです。

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