見出し画像

感情のできかた

リュウイチを引き取ったのは、令和4年の10月26日
約1ヶ月担当した、末期がんのおっちゃんの遺猫だ。引き取った当時、11歳のオス猫で皮膚病があり、毛がところどころ剥げていた。 
動物病院2軒目にしてよいお医者さんにあたり、服薬2ヶ月、跡もなくキレイな毛並みになった。


ペットショップから飼われてきた野性味が乏しいリュウイチと暮らして、まる1年を越した。

「きみ、悪いけどね、私は留守が多いからね」
引き取ってすぐに旅行へ行ったし、週末には夜勤も行く。無職のおっちゃんと暮らしていたリュウイチくんは、留守番の多い家へ引き取られたのである。

10歳を超えた猫は十分大人で、私の留守中にも在宅中にも、部屋が散らかるようなことは無く、性質もおとなしくて助かった。

私しか居ない空間で私と一対一の生活だからか、ウマが合ったのか、随分と懐いている。
「一度も鳴いたことがないんや」とおっちゃんには聞いていたが、なるほどおしゃべり猫では無いものの、毎日私は彼の生声を聞く。私が喋りかけるからだろうか。

いまは冬なので私が布団に入っている間はずっとくっついている。引き取ってすぐの冬から私の腕枕で寝て「そういう寝方ですか」と肩が凝ったが、2回目の冬のいま、もはや抱きついて寝ている。

抱っこして寝ているリュウイチを見下ろす。
授乳期を思い出す。
赤ちゃんみたいである。
大きくならない赤ちゃんだ。
無責任に猫かわいがりしても問題ない。だって猫だから。


昨日、80代のおっちゃんのひとり暮らしのお宅へ訪問して、飼っている猫の一匹が亡くなったと聞いた。

私が猫を飼っていることは言わないし、人さまの猫もすすんで可愛がったりもしない。私は別に自分を「猫好き」だとも思っていない。(個々の猫との関係でしかない)
その訪問先の猫とも関わりが多かったわけではないが、以前から腫瘍が目立っていたので、姿が見えないのを帰り際に尋ねた。
「10月にはもうだめだと言われていたけど、今月までもった」と、ベッドで一緒に寝て朝に亡くなったとの話に、それは良い最後だったと安堵した。

「あの猫さんのように口内に腫瘍が腫れていって、食べられなくなって何ヶ月も見守るようなこと、リュウイチにおきたら、私は物凄く辛い」想像にゾッとした。

その夜の帰路
雑木林を要する公園のそばの歩道で
飼い猫を看取った経験などが、人を「猫好き」へと追い詰めて行くのかも、と思った。
その公園には野良猫が生息しており、猫好きボランティアが集まるのだ。

感情の作られ方をおもう。
私は10代のころは確かに猫が怖かった。
何を考えているか全く分からない生き物に見えた。
30代で子供のために猫をもらって、数年間はほとんど明確な執着はなかった。
ただの子供のおもちゃくらいの認識だった。




もらい猫が、私の子育てと自分の鬱の支えとなって、癌で亡くなると、亡くなったあとに後悔と罪悪感がいっぱい湧いてきた。
リュウイチには、その後悔と罪悪感を背負った私の執着が向いている。

私の後悔と罪悪感は、癌で死んだ猫だけでなく、離婚で置いてきた年老いた兎や、子供の頃に飼っていた小動物の分もきっと重なっている。
勝手な飼い主としての後悔が、リュウイチを猫かわいがりする。

6歳のときにおばあちゃんが亡くなり
小学校一年生の時に同級生が亡くなった。

人が死ぬことを、子供の頃はただ「死んだんだな」と思っただけで、良くも悪くもなく透明な感情だった。感情に色がなかった。

感情は、経験で育つ。
聴いたことや見たことで薄く色付いたパラフィン紙のようなもので覆われていくことで、発露する感情がかわってゆく。

後悔や罪悪感でうすーく色付いたのや、自尊心がくすぐられるような色のもの、ラクして得したような色、経験に紐付いた色がうすく1枚、また1枚と、私のどこか、見る目とか思考とかに重なって、次第に厚く厚く覆っていく。

ただの猫を、「かわいいし可哀想やし寂しがらせたらあかん」と守ってやりたくなるし
ただの死を、「かわいそう辛いひどい」と悲しむようになる。


ごく薄い、見えない色が知らずに重なって、良し悪しを勝手に「色によって」判断する。
ある人にはダークな色に
ある人には柔らかな色に
「勝手に」見えてしまう。それは、性格とは言えない。ただ色(今まで得た情報)に反応しているだけだ。

生きる時間が長くなればなるほど経験の色が重なり過ぎて「過度」になる。
自分の見方が固定されたようになる。思い込みが深くなる。感情を深くする。



私は、一昨年の7月からラノベ小説にハマってしまった。それはもう中毒と化して「小説家になろう」のサイトや「AmazonUnlimited」で読み漁った。そのまま野放しにして「読みすぎ」とか「時間の無駄」とかいうブレーキをかけずにいたので、昨年はマンガも含むKindleの既読数だけで1300冊を超えていた。

本の中の出来事に、泣いたり笑ったりドキドキしたりして(空想だが確実に)経験する。
じっと動かないで喋らないで居るのに、どんどんうすーいパラフィン紙が自分を覆う。
積み重なった層が、自分の価値観に影響しだす。まるで幸せとはこうだと、誠実さとはこうだというように。
その価値観を自分が採用しようとしまいと、知らず色は私に重なってくる。

良くも悪くもない自然とおこる事象に対し、見て聴いて作られた色に反応して、感情が湧く。
反応したそれらを観察する。
観察者としての立ち位置は、感情の渦に巻き込まれない。


家に帰ると、リュウイチが大歓迎で迎えてくれる。右へ左へと転がって腹を見せて、飼い主が帰ってきたぞと尻尾がブルブル震える。目が合うだけで嬉しいと喉がゴロゴロ鳴る。

かわいい可哀想に寂しくさせたね待っていたのか長い時間待たせてごめんね
と、勝手に感情が湧く。罪悪感をもつ。

この感情が発するもとは、私の優しさや愛情や性格ではない。情報や経験の積み重ねであって、その色の層をバリバリと破いてみると、「私を見て喜んでいる猫」でしかない。

「ひとり寂しかったに違いない」という胸にくる感情は、私のまとった色の反応からきた妄想だ。


色の層があるからな、と「思うこと」
それは自分ではないよな、と「思うこと」
感情は反応でしかない、と「思うこと」

それは真実なのか思い込みなのかわからないけど、確実に私をラクに自由にしてくれる。


ラクになって、先週はリュウイチをおいて外泊した。
自慢だが、とても仕事が忙しい。丸一日の休みがなかなか取れない。
私の仕事が多いのは私のスキルの賜物であり、自由意志で引き受けているので、依頼者、所属事務所、私の三方良しWinWinであり、けして過重労働ではないと但し書いておく。

仕事があるので通勤できる範囲でストレス解消をする。都市部の大阪に住んでるからできる私のお遊び。ラグジュアリーホテルに泊まってリフレッシュする。
今回はリッツカールトンへ2泊。
仕事して泊まり、仕事して泊まり、また仕事する…
これが大変良かった!






ホテルステイしながら仕事か出来る。
なんか知らんけどすご~く得した気分。
クリスマスとお正月とお誕生日のぶん、ホテルではやりたいことやってきた。





リッツカールトンで、セレブでもないのにまるでセレブみたいなおもてなしを受け入れる。
ホテルのスパで、レストランで、帰りのエレベーターのドアで、腰を曲げ頭頂部が見えるような本気のお見送りを受けて、帰宅数時間後には、モッコモコに着込んで原付バイクに乗って走り出す。
長靴みたいなブーツに、マフラーぐるぐる巻きにして、夜の排泄の介護に行く自分。
このギャップにひとりでウケる。

資本主義の塊みたいなおもてなしを真正面から受け止めて関心する。
きつい汚れ仕事は一種独特で自らをどこか差し出すような感覚になる。

異なる経験を時間差で味わい、そのギャップ
はじんわりと確実に私を楽しませてくれる。



ともすると退屈が迫りくる私に
なんらかの物語から
追われる仕事から
身近な生き物や同士から、私の感情が彩られることによって
自分へ興味深く引き込まれたいと願っている。

しかし、それは感情に「振り回され」たいわけでは無い。感情と自分を分離しなければ、人生を楽しむことは難しい。

退屈と向き合うことを余儀なくされた私達が、日常的な楽しみをより享受できるように訓練しているようなものだ。

仕事を成し遂げたいわけではない。
家事をして生活を続けたいわけでもない。人と仲良くして愛されて自己肯定感を上げてなんになる?
私には私しかいず、私の世界は私しか見ていない。


帰ってきた私をリュウイチは、喜んで歓迎して迎えてくれる。
私が出ていっても、どこか安心してひとり呑気に過ごしているだろう。
私の愛する人たちは、皆そうであるといい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?