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「〇〇のために」はタブー〔マキシム〈ニーチェ〉【金言の再現】12〕

「〜のために」行うことをやめる

 どれほど良いことに見えても、「〜のために」行うことは、卑しく貪欲なことだ。
 誰々のためにであろうとも、何々のためにであろうとも、それが失敗したと思えるときには相手、もしくは事情や何かのせいにする心が生まれるし、うまくいったと思えるときには自分の手柄だとする慢心が生まれるからだ。
 つまり、本当は自分のためにだけ行っているのだ。
 けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには、「〜〜のために」という言葉も考えも出てくる事はことはない。

『ツァトゥストラはかく語りき』

『超訳ニーチェの言葉』 016 フリードリヒ・ニーチェ著 白取春彦訳 ディスカヴァー

「お前のため」は、
「空気読め」
「努力したのか?(本気か?)」
「使えない」

に並ぶ「四大仇敵クリシェ」(と勝手に呼んでいる、個人的に怒り度合の高いクリシェ4選)の一つで、いずれ、〔クリシェ【凡百の陳腐句】〕でグリングリンに否定する気満々

それをニーチェ先生が、理論的に後押ししてくれたのは結構嬉しかったりする。

「毒親」「体罰教師」「パワハラ上司」「独裁者」の"常套句"が「お前(国民)のため」。

僕自身、「パワハラ上司」の洗脳が溶けきってなかった時期、後輩に「お前のためだ」と言ってしまったことがあり、そのことを今でも後悔している。そして、心に誓っている。

「〇〇のため」という言葉は生涯絶対に使わない

-と。

他にも確か、数年前「お前のためだ」とわめきながら体罰を繰り返していた某高校スポーツ部の監督がいた。"そいつ"は、選手たちが試合で勝って観客から歓声を受けると、選手たちの前に現れて「オレのおかげでコイツらは勝てたんだ」とアピールしたらしい。

「うまくいったと思えるときには自分の手柄だとする慢心が生まれる」というニーチェの言葉を、まんま体現したような人。こんなつまらない大人にあたった選手たちが不憫で仕方がない。

「『〜のために』行う」のは、やはり避けた方がいいのだろう。

それを実現するにあたり「〇〇のため」という言い方自体をタブーにし、心に思うことも、言葉に出すことも忌避した方がいいのだろう。

例えば、一つ上の文。「それを実現するにあたり」は、「そのためには」でも通じるのだけど、それを避けてみたとか。

(参考文献)

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