⑬溶けているんだよ?/less

 君、といってもこの言葉は誰に宛てている訳でもないと言う事を、他でもないこの僕にまず断っておこう。

 君は小説を読んだことがあるだろうか。僕はないんだ。嘘。実は一回だけある。それはある日、僕が潜水病になる前の遠い記憶にある。僕の家には本はなかった。本以外にもほとんどなかった。父が僕にそういったものを与えなかったからだ。父は僕に無を与えた。それってアイ・ハヴ・ナッシングってことなんだよね。

 僕は園原とおしゃべりしていたんだ。夢のことについて。僕の見る濃い霧のような夢について、寝たきりのフランス人のように話し合っていたんだ。いつもならそれで終わりだったんだけど、園原は僕にケータイ電話を持ってきてくれた。そして父に内緒でそれを僕に一日貸してくれた。僕は始めてみる機械に胸が踊り、夢中でいじくった。

 結局父にばれて取り上げられてしまうんだけど、僕はそこでインターネットにアクセスすることができた。そして初めて見たんだ。読んだんだ、小説を。その小説はいわゆるネット小説というやつで、だれでも自由な小説がさらに自由になった、本当に囲いのない存在だった。僕はそこである小説に出会う。そしてそのキャラクターを好きになったんだ。その小説の冒頭は「フォガティは家出をすることにした」で始まるんだよ、園原。

      *

 ぎんぶちは銃を突きつけられても動じなかった。そして言った。「コギトがいってしまったわ」

「コギトとは誰だ」と以遠さん。

「コギトはコギトよ」とぎんぶち。

「話にならんな」

 そう言ってさらに以遠さんは銃をぎんぶちに突きつける。ぎんぶちの頬にはくっきりと銃口のあとがつく。

「やめましょうよ」

 そんな女の子恫喝しても意味ないですって、と黒星さんが言う。

「そちらのおにいさんはよく分かってるわね」

「そりゃどうも」

 黒星さんは疲れたようにため息を吐く。

「それじゃ最初から言うぞ」

 以遠さんはしぶしぶ銃を降ろしたが、ぎんぶちのことを相変わらずかたいまなざしで見つめている。

「コギトとは」

 いいや、と彼女は一度間を置き、

「コギトはどこにいったんだ」と言った。

「木星よ」

 黒星さんは呆れ、以遠さんはいっそう顔をしかめた。僕は木星というワードに撃たれていた。

「話にならんな」

 と黒星さん。

「朱色」

 と僕がつぶやくと、ぎんぶちの表情は見るからに強張った。

「あなたシュイロを知っているの?」

「さっき電話かかってきた」

「お」まえそういうことは早く言えよ、と言う黒星さんを遮って以遠さんは言う。

「シュイロとは誰だ」

「シュイロは」

「もういい、園原」

 その声は背後から聞こえた。そして弾丸がぎんぶちめがけて飛び、その前に立ちふさがった僕を突き飛ばした以遠さんの身体を貫いた。

「先輩」

 と黒星さんが叫び声をあげる。以遠さんはなんとか膝をついて倒れずにいたが、その顔は苦悶に満ちている。。

「パーカー」

 と僕は言う。

「や、め、ろ」

 とパーカーは言う。「その気持ち悪い声と顔でおれのことを気持ち悪い呼び方で呼ぶな」

 そしてパーカーは言う。

「IRSの以遠だっけ。もう引いてくれないかな」

「誰が」

 と以遠さんは憎しみのこもった声で返事をする。そして口の端から血が滴る。黒星さんがそれをハンカチで拭う。

「もう園原はいらないんだ」

 園原はびくっと肩を震わせる。

「コギトは、おれの弟は、もう戻ってこない」

 パーカーはつかつかと留めを刺そうと以遠さんの近くまで歩く。そしてその足元にぽたぽたと水滴が落ちていく。

「シュイロに、父に、連れて行かれた」

 パーカーの放った弾丸は、想像上のものだった。その前にパーカーの後ろに黒いもやが芽吹いた。そしてパーカーを絡めとろうと、その黒い触手のようなものを伸ばす。

 パーカーはその異様な雰囲気に気付き振り向く。黒いもやが笑うように揺れ、一本の矢のような影がパーカーを射る。

「伏せろ」

 パーカーがその言葉を聞く前に、身体は後方に投げ飛ばされていた。以遠さんは黒いもやの眉間に銃弾を放つ。そして黒星さんと僕が急いで立たせたベッドの影に隠れた。黒いもやは怨嗟の声を上げるように消え、霧散した。

「あんたどうして」

 パーカーはどの中性的な顔立ちを困惑させながら言う。

「話は後だ」

 そう言って以遠さんは上着を脱ぐ。彼女はずっしりとした防弾チョッキを着込んでいた。僕はちょっと顔を背ける。

「くるぞ」

 以遠さんの声で僕はようやく気付く。ベッドで急造した防護壁の向こうには黒いもやがいた。それも何十匹もだ。そしてすでにその何体かの胴体、心臓の付近に穴が開く。もやは消えるが、その下からすぐに新しいもやが生み出される。

「そこのパーカー」

 と以遠さん。パーカーは驚いて以遠さんを見る。

「シュイロというのは今どこにいるんだ」

 それは…、と口ごもるパーカー。

「心臓が置き去りになった身体どうやって笑うか教えてやろうか」

 以遠さんがそうすごむと、パーカーはわかったよ、と閑念する。「この部屋の隣にいる」

「なんだと」

「ただし、実体はないんだけど」

 以遠さんが何か言おうとした傍らで鋭い影が伸びてくる。それはベッドに刃物のような音を突きたて引っ込んでいった。さっきからその音がひっきりなしにベッドを叩いてくる。僕はというと早くここから逃げ出したかった。

「とにかくそこにいるんだな?」

「ああ」

 よし、とうなずく以遠さん。

「ここは私とこいつがどうにかする」

 お前たちはそのシュイロとかいうやつをぶっ飛ばしてこい、という言葉を僕はかろうじて聞けた。黒いナイフがすさまじい音を立ててベッドに突き刺さったからだ。

「でも隣の部屋に行くにはここを突破しないと」

 パーカーは絶望的な目でベッドの向こうを見やる。黒いもやは今も増殖している。僕たちはほとんど丸腰。どう考えても絶望的な状況だった。

 しかしその言葉を受けて以遠さんはにやりとわらう。そして腰から丸いものを取り出した。それは俗に言う手榴弾というやつでとても危ないものだった。

「こいつで近道だ」

 だろ? と彼女は黒星さんに笑いかけ、黒星さんが「全員耳をふさいで口をあけろ!」という言葉を発したのを確認するかしないかのところで放り投げた。

      *

 白い部屋の向こうには黒い部屋があった。さながらブラックホールとホワイトホールみたいだ。後ろでは以遠さんたちが抗戦している。

「こっちだ」

 とパーカーが案内するまもなくそれは僕らの眼前に現れた。

 それはとても大きな機械だった。いろんなチューブが蛇の巣のように入り混じり部屋の中央にあるバケツをひっくり返したような機械につながっている。

「まるで昔の潜水用具みたい」

 ダリが好きそうな。とぎんぶちは言う。

「ダリっていうのはあってるよ園原」

 その声に園原と呼ばれたぎんぶちははっと敵意を向ける。

「この機械はダリと呼ばれているんだ」

 そんなことどうでもいいわと、ぎんぶちは憎しみのまなざしを向ける。

「私を殺そうとしたわね」

「そうだね」

「否定しないのね」

「そうだね」

 ぎんぶちがパーカーを殴りそうになるのを僕は必死に抑える。やめなよ二人とも、と言いたい。

「この中にシュイロがいる」

 そう言ってパーカーは機械の横にある操作パネルをいじる。すると機械はけたたましい音をあげ姿を変えていった。

「これは」

 僕はあっけに取られた。ぎんぶちもそのようだった。そのバケツ、潜水用具、といわれた機械の中には水槽があった。とても大きな水槽だ。そしてその中にはピアノがあった。水没したグランドピアノが。

「いないじゃない」

 とぎんぶち。

「いるんだよ」

 とパーカー。

大事なものは目に見えない、と僕は言う。

「そう」

 パーカーは目を細める。

「溶けてるんだよ」

 シュイロも、そしてコギトも。パーカーは続ける。

「二人ともバロバロに喰われたんだ」

 パーカーはゆっくりとためらいなく僕らに向き直る。手には銃。それを僕たちに向けて言う。ぎんぶちが唇をきっと結んでパーカーを睨む。

「私はコギトが助かればそれでいい」

 わたしだって、とぎんぶちは反論する。パーカーは首を横に振る。

「父は……、シュイロはコギトを助けてくれると思っていた。でもそんなのもうわかんなくなったよ」

 パーカーは自嘲して、銃を降ろす。ごとりとそれは床に落ち手から離れた。パーカーは疲れた目で僕たちを見る。

「きみたちがコギトを助けてくれるなら、シュイロのところまで案内しよう」

 どうする、という言葉を飲み込んでパーカーは僕たちに決断を促す。

「あんたに言われなくてもやるわよ」当たり前でしょ、と即答するぎんぶち。

「きみは?」

 僕は……と答えに詰まる。後ろで絶え間ない銃声が聞こえる。僕が長考している間にも以遠さんたちは戦っている。彼らを危険にさらしている。

「ぼくはエイミーという友達がいたんだけど、彼女はもういない。発狂してしまった」

「エイミー」

 パーカーはいぶかしげな目で僕を見る。

「そう」

「それで?」

「きみがともだちになってくれるなら」

 協力するよ、と僕は言った。

「きみはやっぱりあたまおかしいね」

 パーカーは笑った。ぎんぶちも笑った。

      *

 つまりだ、とパーカーは言う。

「この水槽は濃密な虚構の力とバロバロによって満たされている」

「普通の人なら触っただけで意味消失する」

 その人の虚構が全て吸い取られてしまうから、とぎんぶち。

「でもきみたちは違う。園原は潜水病だし」きみはと僕を見る。「タマクラを使いこなせるほどの虚構の持ち主だ」

 君たちだったら自分たちの虚構を絶えず生み出すことができる、とパーカーは言う。

「そうすればシュイロが貯えた虚構の海からコギトを助けられる」

「そう」

 ぎんぶちの希望混じりの問いにパーカーは答える。

「私はこの機械を使ってきみたちの虚構をトレースする。あまり役には立たないけど少しは助けてあげられる」

 パーカーはバケツの機械をこんこん叩く。

「そんなことができるの?」

「できるさ」

 さあ、と僕たちを促すパーカー。

「用意はいいかい」

 銃声の鳴るスパンが短くなってきている。以遠さんたちの弾薬も無限ではない。早くケリをつけなければいけない。

「いいわ」

「いいよ」

「ようし」

 僕とぎんぶちは水槽の前に立つ。水没したピアノを見る。あんぜこんなものがあるのか不思議に思う。これじゃ弾けないじゃないか。

「始めて」

トレース準備完了。とパーカーが言ったのを合図に僕たちは水槽に触れた。水槽に映った僕たちの反映がわらいかける。意識が僕の身体から離れる。見つめ返す。意識を絶つ。

      *

 私が自らをシュイロだと意識したときからすでに、自身が木星人だということは確信していた。なぜなら私は生まれつき木星の記憶を持っていたからだ。最古の記憶は金属水素とヘリウムまみれの地表に母と一緒に絵を描いたこと。それが摂氏マイナス140度の凍りついた思い出だ。

 そして私の記憶は突然地球に移る。

 木星と地球を結ぶ記憶がぽっかりと欠如しているのだった。私は地球では普通の男で、二人の子がいた。二人との重いでは私の記憶にはない。あったのかもしれない。しかし私が覚えていようが覚えていまいが、私の虚構が私の脳を浸水していくせいで大事な記憶以外はすぐに溺死していってしまう。サルベージは不可能だ。

 私は記憶を取り戻すべく木星を作ることにした。私は神ではないし、それに準ずるものでもない。ただ木星人だった。私はただの木星人で、地球上にはない技術を知っていた。私の記憶の一つにタマクラと呼ばれる機械の設計図があった。それは使用者の虚構を貯える機械だった。貯えられた虚構はエネルギーとして出力することができ、そしてそれは使用者の設計(デザイン)した実像の反対、つまり虚像を作り出す。光あるところに影があり、その逆もまた然りだ。そして濃密な影は光を照らし出す。虚構の力を行使することによって、強引に実像を生み出すことができる。それがタマクラだった。この技術は木星以外の星々にも用いられたそうだが、なぜか地球だけはそうではないらしい。この星は奇跡的に実像から生まれたのだ。この宇宙にある全てのものが虚構から生まれたというのに、地球だけはその逆だった。生命という光が実像を生み、虚像はその背後に基盤として存在するのみにすぎない。私は「大切なものは目に見えない」という言葉を思い出す。そう、この星では虚構(大切なもの)は目に見えない。それは私が木星人で幼かったころ、母の友人が言っていた言葉だ。彼はどこか小さい星の皇太子で、その言葉に意味を聞く前に「冥王星に行く」と言い残し飛行機に乗って消えてしまった。

 そのせいかこの地球では虚構のエネルギーの質が非常によかった。おそらくこの星は地球以外の星々の給油場、虚構という湧き水を汲む井戸、カウンターとして存在しているのだろう。

 私はそんなふうに過去に記憶を呼び起こし、私が何者であるかを忘れないようにしつつ、「ユピテル」を組織していった。

 ユピテルは私が作った組織だ。人間はいない。構成員は私と私の虚構から作り出した黒装束のヒトガタ、私の子、そしてバロバロだった。

 私はまず自身のタマクラで培養したヒトガタを使役し、私の手足となって働いてもらった。そして虚構を集めさせたのだがうまくいかなかった。ヒトガタは所詮はヒトガタであり、人を模写したものに過ぎない。虚構から生まれた存在が虚構を生み出すには限界があった。

 どうにかしてこの星の上質な虚構を集められないものかと試行錯誤しているうちに潜水病とであった。

潜水病とは精神の不安定な思春期の少年少女に多い病気で、発祥例は少ないが、その夢を見ながら眠り続ける、という特性によって認知されていた。

 夢。それは私にはない概念だった。それは地球人特有の現象だった。それはなんといっていいのかわからない。しかしそれこそが虚構なのだ。虚構が理解できないものこそ、真の虚構としてふさわしい。

 私は地球人が視るという「夢」という虚構行動にフィクションのアクションを見出した。

私は数少ない潜水病発症者の中からより症状の重い者、つまりより虚構に触れている時間が長い者を探し、それを突き止めた。

それは私の息子、コギトだった。

 コギトはもう一人の私の子であるエイミーと一緒にひっそりとくらしていた。しかしコギトは重度の潜水病を発症してしまったらしく、エイミーにはどうにもできなかった。

 私はすぐにヒトガタを向かわせコギトを回収させた。そしてエイミーにはコギトの身の回りの世話をさせ、彼の監視をさせた。さらに私の邪魔をするIRSとかいう機関にもぐりこませ彼らの行動を報告させた。

 私はIRSの病院にコギトを普通の患者として入院させ、そこでコギトの虚構を抽出した。取り出された虚構はヒトガタに作らせた巨大なタマクラ「ダリ」に貯蔵させそれが満ちるまでエイミーに見張らせた。

 コギトはほとんど一日の大半を眠っていたが、起きている時間はその夢の内容を話したがった。私はコギトが夢の内容を話す前と話す後では虚構の質が大きく向上していることに気が付いた。そこでもう一人潜水病患者を探し出し、コギトの傍に置いた。彼女は園原という名前で、コギトに良く懐いた。コギトは園原の夢をよく見るようになり、虚構の質も日に日に高まっていった。

 ある日園原がコギトの病室に携帯電話を持ち込んだという報告がエイミーから知らされた。私は大いに焦った。私はコギトに、彼の虚構の純度を一定に保つために外部からの情報、粗悪な虚構の元素をもたらさないように、病室には外界につながるものは何も置いていなかった。しかしその禁は破られてしまった、すぐにヒトガタにその携帯電話を取り上げさせたが、コギトはもう何らかの情報を取り込んだあとのようだった。まあしかしこれも想定していたことだ。十分に修正できる。コギトの病室は一層厳しく管理することにした。

 そうして「ダリ」に貯まった夢由来の虚構は着実に増え、いつしか木星を作れるまでに達していた。ただ、タマクラぼ有効範囲がそれほど広くないために地球からそれほど離れていないところに作らざるを得なくなった。地球は木星の重力の影響を大いに受けるだろう。銀河系から地球はなくなるがそれも致し方ない。もともと異質な星だったのだ。少し余計に虚構を集めれば地球程度の規模の星くらい、タマクラで再構成することぐらい訳ない。それぐらいかまわんさ。

「なあ、バロバロ?」

「アア」


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