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他空派の宗論 11


第三項[勝義の界を説く]において、[界の意味]と[それについて誤った考えを捨て去る]のニより、

第一項[界の意味]一般に「界」の置き方には因や種を保持する面などからさまざまな置き方があるが、自派の「界」は、性質(法性)をもつ主体である心の自性として、不明瞭な状態でとどまる、自ずと起こった智慧である法性に置く。
そのような法性を覆っている汚れを示す、九の例とは、汚れた蓮華の中に仏像や、蜜蜂の中央に蜂蜜や、籾殻の中に精髄や、不浄物の中に金や、地下の埋蔵宝や、樹木の芽を芽吹かせる力が皮の中にどとまることや、ボロ服の中に金の仏像や、悪女の腹に人の主や、泥の中に金の仏像といって、それらの九の被さるものが汚れである。

それらの例をもつ九のものは、潜在的な三毒の習気三つと、その三つが顕在化した諸々を一つにしたものと、愚痴の習気の地と、見所断と、修所断と、七不浄地に合致しない方向の汚れと、三浄地の微細な汚れの九である。

「界(khams)」にはいろいろな意味がある。

六対象・六感覚器官・六識(知覚)の集合に当てられる場合もあるし、

地水火風などの基本構成元素に当てられる場合もある。

ここでは「勝義の界」と記されているように、
究極の聖なる意味として
われわれ有情(心をもつ者)の
最も根元的で純粋な
意識の要素をさす。

法性は性質であるので、
性質をもつ主体に依拠して存在する。

法性は、
その主体「心」に依拠しており、
その本性としてある性質である。

法性は、
何かの原因や条件によって起こったものではなく、自然にもともとあったもので、
空性と別れたことのない智慧。

法性のあり方は、
われわれにとって顕在化されておらず
あることにすら気づかない。

法性を覆い隠しているものを
九の例と
対応する意味であげれば、

①汚れた蓮華:貪欲(よくぼう)
②蜜蜂:瞋恚(いかり)
③籾殻:愚痴(おろかさ)
④不浄物:貪瞋痴の三毒
⑤地:無明(愚かさ)の習気の地
⑥樹木の皮:見所断(見道で捨て去るもの)
⑦ボロ服:修所断(修道で捨て去るもの)
⑧悪女:七不浄地に合致しない汚れ
⑨泥地:三浄地の微細な汚れ

「無明(愚かさ)の習気の地」とは、
顕在化した無明は捨て去られて無いけれど、
無明によって染み付けられた
シミ、残り香のようなもの(習気)
がある意識的な基礎のこと。

「見所断」「修所断」とは、
修行において空性を直覚する見道と修道で
断つ(捨て去る)所である
煩悩などのこと。

「七不浄地」「三浄地」とは、
菩薩の十地の分け方で

空性を直覚した菩薩に、
解脱への妨げが残っている七つのステージが
七不浄地。

空性を直覚した菩薩に
解脱の妨げになる障は無いけれど、
仏陀になる妨げが残っている三つのステージが
三浄地。

七不浄地にある
七不浄地に合わないとはっきり分かる汚れが
「七不浄地に合致しない方向の汚れ」
顕在化している煩悩などである。

煩悩の障は浄化されたけれど、
三浄地に残された
仏陀になる妨げとなる微細な汚れが
九番目に対応する意味で、
潜在的で、顕在化することのない
煩悩の習気などがある。

これらに覆われて
われわれは自分の中に
仏性があることに気がつかない。

でもそれを見つけて、明らかにして、
経験する方法が、
仏陀の教えに記されいる。

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