直子 デチェン

1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒ…

直子 デチェン

1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒマラヤの麓、ダラムサラで暮らす。 100円投げ銭サポート募集中!インド自炊で一食分・・・二食分?(^人^)ゞ

マガジン

  • スピティ Spiti,H.P.

    2021年9月、インド北部ヒマーチャル・プラデシュ州、スピティへの旅行記です。 マナリから山を越えてチベット国境の近くまで。古い僧院や人界から離れた修行の地まで、友人と一緒にインドに来て初の自由旅行!

最近の記事

ダラムサラ自慢

ダラムサラは ダライ・ラマ法王がいる チベット仏教の聖地 ということで訪れる人も多いが、 それだけではない魅力がある。 いつか訪れるあなたのために ダラムサラ自慢を少しする。 というのもここ数日で 「ありがたいなぁ」と思うことが幾つかあったので、 シェアしたいと思ったのである。 一言でいえば、 ダラムサラは優しい場所である。 当たり前の日常に 何か幸せを感じられる場所。 昨日は友人とランチに出たが、 待ち合わせの前に マーケットでたった一つの 「コンピューターセン

    • 法性が好きな人

      そろそろ帰国の時期がやってきた。 インドでジョナン派を守る インド・ジョナン派の座主、 ゲルツァブ・リンポチェが来日される ということで、 お手伝いに入る。 知恵ゲツェ・リン文化交流さまhttps://facebook.com/events/s/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%B3%E6%B4%BE-%E6%B3%95%E4%B8%BB-%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A1%E3%8

      • 他空派の宗論23

        第三項[それを例をあげて確信する]において、[九例の本質][それを示す目的を示す]のニより、 第一項[九例の本質] 『大乗究竟一乗宝性論』より、「帝釈天、大太鼓、雲、梵天と、太陽、宝石、宝のごとく、如来はこだまのごとく、虚空と地のごとくである。」と説かれ、如来が御身のさまざまな変化を示されることは、例えば帝釈天が天界から動かずに分身が人界に現れて、幾らかの衆生を善行に促すがごとくである。 その御言葉の法がさまざまな法門を示されることは、例えば神の大太鼓が四聖印を示して、神々

        • 他空派の宗論 22

          第二項[それが所知を知る方法]に[自説]と[他説]のニより、 第一項[自説] 自説において、仏陀の智慧には、世俗の錯誤した現れは全く現れないけれども、知り得る方法は前述で簡単に記したごとくである。 第二項[他説] 全知プトゥン師と、ツォンカパ師弟のように、仏陀の智慧には錯誤していない全ての法(現象)が現れると承認する派と、チベットの賢者ロンソム・チュサンのように、仏陀には智慧が無いと承認する派のニ派がある。 第三項[事業の構成]を説くにあたり、[事業の本質][それは自然

        ダラムサラ自慢

        マガジン

        • スピティ Spiti,H.P.
          40本

        記事

          他空派の宗論 21

          第ニ項[依るものである智慧]を説くにあたり、[智慧の本質を認識する][それが所知を知る方法]のニより、 第一項[智慧の本質を認識する]において、[自ら起こった智慧を認識する]と[他から起こった智慧を認識する]のニより、 第一項[自ら起こった智慧を認識する]に[定義][分類]のニより、 第一項[定義] 「法界と智慧が主客ニ元として無い本性であり、断と証の全ての功徳を原初から自質として具えている、不変の円成実性」が、自ら起こった智慧の定義。 第二項[分類] 名称の面から分

          他空派の宗論 21

          他空派の宗論 20

          第三項[応身]において、[あり方の応身]と[現れ方の応身]のニより、 第一項[あり方の応身]は、前述の自性身に応身の全ての特徴が一時に現れるので、(現れ方に)対する面からおく。 第二項[現れ方の応身]において、[定義][分類]のニより、 第一項[定義] 『現観荘厳経論』と『大乗究竟一乗宝性論』のごとくであれば、「現れ方の応身の心相続の、新しく得た成所作智である増上縁より起こった、三つの性質を具えることによって特化した色身。」が、所化(弟子)である他に現れる応身の定義。

          他空派の宗論 20

          他空派の宗論 19

          第三項[結果の構成]において、[拠りどころである法身][依るものである智慧][事業の構成]の三より、 第一項[拠りどころである法身]において、[自性身][報身][応身]の三より、 第一項[自性身] 基である種、如来蔵界そのものが、無分別の(概念作用がない)智慧を修したことによって、全ての一時的な汚れと離れた、ニ清浄を具えた、無漏の全ての功徳の拠りどころとなる、勝義無為の智慧の御身がそれであり、それに五相と五功徳がそれぞれ具わるさまは、前述の帰謬論証派の時に記したごとくであ

          他空派の宗論 19

          他空派の宗論 18

          第二項[備考] 菩薩地の分類の要約は、『現観荘厳経論』より説かれたごとく、それも第一地の時に法性を全てに行き渡るさまで悟り、第二地の時に法性を最高の意味として悟り、第三地の時に経証は法性を悟るに合致した因であると確信したことによって、法性を合致した意味のものとして悟り、経証の教えを信じる信仰を強化する。第四地の時に法性を執着と思い込みの無い意味として悟り、第五地の時に法性をまさしく平等に悟って、器(世界)と内容物(有情)は心相続が別であると捉えることから反し、慢を殊更に捨て去

          他空派の宗論 18

          他空派の宗論 17

          第三項(第二項ではないかと思う)[修行道]を説くにあたり、[修行道の拠りどころ]と[修行道本論]のニより、 第一項[修行道の拠りどころ] 無間業が心相続にある者のように業の障がある者と、煩悩の強い女性や両性者のような煩悩の障をもつ者と、倶盧州のような異熟の障がある者の三者の何れでもない身体の拠りどころと、 「六禅定地」という、初禅の未至定と、ただの本禅定と特別な禅定の二つ、第二禅定、第三禅定、第四禅定のような心の拠りどころの、(心身)ニつ(の拠りどころ)がある。 第二項[

          他空派の宗論 17

          他空派の宗論 16

          第四項[四聖諦の構成を説く]において、苦・集のニと滅・道のニで四ある(四聖諦の)概要は、前述の経量部の折に説いたごとくであるが、異なる部分はここで滅諦について、[浄化される基である勝義]と[浄化された結果であるニ浄を具える滅諦]のニより、 第一項[浄化される基である勝義] 『中辺分別論』より、「二元の事物なく、事物の無い 事物は空の定義である。有ではなく無でもない。別、同一の定義でもない。」と説かれたように、世俗である主客(認識主体と認識対象)が欠如しており、勝義の法性が欠

          他空派の宗論 16

          他空派の宗論 15

          第三項[同一か別か] 『解深密教』より、「行の界と勝義の性相は、同一と別から離れた定義をもち、同一や別そのものであると考える 者達は正しくない作意に入ったのである。」と説かれたように、二諦とは、同一本質と別本質の何れとも述べられることはない。同等を否定した別であると承認はするが、それも「本質は一つであるが反体が別である」という理解の仕方と僅かに異なる。 その二つが同一本質か別であると主張すれば、『浄慧意品』や『解深密教』より説かれた四つずつの正理によって批判される。 第四項

          他空派の宗論 15

          他空派の宗論 14

          第二項[勝義諦]において、[定義][言葉の説明][異音同義語][分類]の四より、 第一項[定義] 「意識と智慧のニより、智慧のみの対象であり、あり方において自らの本質が実在している法(現象)」が、勝義諦の定義である。具体的な例は、円成実性の法性のみである。 第二項[言葉の説明] その法性は、(主客)二元の無い智慧という意味であるので、究極の義(意味)とあり方である故に「勝」であり、聖者の等引が享受する対象として諦(真実)である故に「諦」という。 第三項[異音同義語] 勝

          他空派の宗論 14

          他空派の宗論 13

          第三項[二諦の構成を説く]において、[世俗諦][勝義諦][同一か別か][他に派生して説く]の四より、 第一項[世俗諦]において、[定義][言葉の説明][異音同義語][分類]の四より、 第一項[定義] 「意識と智慧のニより、心所と共にある意識の対象であり、あり方において自らの本質は実在が欠如している法(現象)」が、世俗諦の定義。具体的な例は、依他起と遍計所執のニつに含められた全ての法(現象)である。 第二項[言葉の説明] 勝義の法性より他の諸々の現象は、法界のありさまを正

          他空派の宗論 13

          他空派の宗論 12

          第二項[それについて誤った考えを捨て去る] 勝義の法界は自らの本質において断・証の功徳が完成している状態である。それも、汚れが原初から本性として浄化されている勝義の究極の「断」と、それぞれに自らを知覚する自然の智慧である勝義の究極の「証」の二つが、初めから自ずとあると解釈する。 そうではなく、勝義の法界を、(勝義に対して)世俗である(以前にないものが)新しく起こった究極の断・証であると解釈して、全ての有情は(自らの本質ではない)他から起こった仏陀になると捉える誤った考えが生じ

          他空派の宗論 12

          他空派の宗論 11

          第三項[勝義の界を説く]において、[界の意味]と[それについて誤った考えを捨て去る]のニより、 第一項[界の意味]一般に「界」の置き方には因や種を保持する面などからさまざまな置き方があるが、自派の「界」は、性質(法性)をもつ主体である心の自性として、不明瞭な状態でとどまる、自ずと起こった智慧である法性に置く。 そのような法性を覆っている汚れを示す、九の例とは、汚れた蓮華の中に仏像や、蜜蜂の中央に蜂蜜や、籾殻の中に精髄や、不浄物の中に金や、地下の埋蔵宝や、樹木の芽を芽吹かせる

          他空派の宗論 11

          他空派の宗論⑩

          第三項[分類]において、[自性住仏性]と[随増性]のニより、 第一項[自性住仏性]は、上記の種(仏性)に似る。 第二項[随増性]において、[定義][分類]のニより、 第一項[定義]は、「自性の仏性に依拠して、副次的原因によって生じさせられる菩提の因となった有為の善」が、随増性の定義。事相は、菩薩の心相続の資量道のごとくである。 第二項[分類]に、三乗の随増性の三がある。 それらの定義も、「完全な菩提の因となった有為の善」が、大乗の随増性の定義。 それを応用して、独覚

          他空派の宗論⑩