すきか、きらいか、という曖昧な境界線。

恋愛の話だけというより、
人生そのものの話。

自分の人生の中で、
好きは嫌いになりうるものだったし、
嫌いは好きになりうるものだった。

好きだと思っていたものも、食べすぎて嫌いになることもあるし、
好きだと思ったのにこんなはずじゃなかった→嫌いだということに気が付くこともある。←自分は結構これがすごく多い。

逆に、
嫌いだと思っていたものも、続ければ好きになることがたくさんあったし、
そのもの・ことの全部が嫌いなのではなく、嫌いだと思っていたことが変わることで、好きになることもある。


ただ一番困るのは、
その「好き」が「嫌い」になるときの方で。

Love Hateもそれに当たるかもしれないけど、
好き、が嫌いと共存する感覚、
嫌いだけど好き、という感覚はじぶんの中でわからない概念だった。


それって、基本的には好きだけど、
許容できるあまり好きじゃない部分がある、ということであって

もはや基本的に嫌いなものの中に、
大好きなものを見つける作業ってすごく難しかったりする。


多分、今私が新しく仲間になった人たちに感じる感情がそれで、
好きだけど、憧れてるけど、好きになれない部分もある、という感覚に近い。

「好きだけど、好きになれない部分がある」

それは、普通なのか?

それって、好きじゃない、ということなのか?


手放しで、これが好きだ!と言える人って、
何を思ってそう言えるの?

好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、

と聞くけど、

その好き!と嫌い!には、曖昧な境界線がある気がする。



好きだと思ったものに対して後で嫌いと気が付く、というのは、

①最初よく知らないうちに、好きかも?と思う(でも手放しで、好き!になれない状況)
②なにか違和感を感じる。
③違和感がありながら好きでいるのが苦しくなる→やっぱり好きじゃないのかも、となって一旦離れる。

というプロセスがあるように感じていて、
自分の中で、②のフェーズにきたら、③にいくというのはほぼ不可避だったのです。

あのね、苦しくなるの。違和感があると。

違和感があると、「嫌い」と思いたくないから、「好き」を無理やり探そうとする(嫌いなことを見てみぬふりをする)から、余計苦しくなるし。


※だからこそ、最初の①で何か/誰かを「好き!」と思える感覚が生まれた時に、「ちょっと待てぃ!」って心の中のノブが言ってくるようになって、
余計わからなくなってきたここ最近。


でも今日ね、
そうではないタイプの人(違和感があって苦しい→だから離れる、じゃない人)もいるということを知って、すごく面白かった。


②で違和感を感じた時に、

ある人は、その「違和感」を突いてみる、色んな角度から眺めてみる(その違和感との時間が実は楽しい)研究タイプ

ある人は、その「違和感」にさえしがみついて抱きしめちゃうタイプ

またある人は、白黒つけて突き放すか、「違和感」とは特に向き合わないけどその中で納得できる折り合いをつけていくタイプ

もしかしたら、②から③にいくかどうかの違いって、
無理やり違和感ではない、好きなところを探そうとするのか、
嫌なところも含めて「好き」でいる覚悟、というか、自己暗示ができるか、
もしくは違和感の中にある納得できるポイントで落ち着けるのか、

で変わることなのかなと。


でね

なんでこの話をしているかというと、

これって恋愛とか単純な好き嫌いだけの話ではなくて

この考え方って人生の選択の中で、
めちゃくちゃ実は無意識に影響してるんだなと思ったのです。


100%好きで、納得できて進めるものなんか
もしかしたらこの世にないのかもしれない。

今は100%好きでも、
いつか70%になって、50%になって、
違和感が大きくなるのかもしれない。

そのときに、

その違和感は、自分の直感が発してる声だと思って、
その声を大事に、違和感があるものから離れてみるのか、

その違和感さえ、内包して、
その中で生きていくのかー

って、

私は、前者の方が誠実だと思ってたの。

だって違和感がある時点で好きじゃなくない?

私は、違和感がある状態で続けるという行為は、
すごくそのことや相手に対して申し訳ないと思ったの。


でも、今日の話の中で、
あ、後者の中にも幸せは見出せるのな、と思ったのでした。


ある種、違和感すらもいとおしいと思えるのも、
誠実でもあるということなのかもしれない。



問題は、それができるか、できないか、で。


必要不可欠で不可避なことをやるために、
違和感も受け入れて乗り越えないといけない
という場面だったら、
乗り越えるしかないような気がする。
実際、そういうときは自分は乗り越える方を選んできた。

でも、

多数ある選択肢の中で、自分がなんでも選べる曲面だとして、
違和感を受け入れてまでその道を進むべきか否か、
という場面になった時に、
自分はその道ではない道に行こうと思ってしまう。


でもそうすると、
もしかしたら、
その違和感から離れるという選択は、
違和感の先にある景色を
みられないということに繋がるのかもなと。

というか

違和感の先に、
違う景色がある、
のかもしれない

と思えたのは、
今日が初めてだったのです。


違和感=終わりへの始まりだと思ってたからね。

(…ww..w…. オワリノハジマリィ・・!ハジマリノオワリィ・・www!)


※あ…私の中の脳内マツヤマイカちゃんがつい…
(好きなのです、マツヤマイカちゃん。気になる方はインスタ、Youtube、または私は持ってないけどTiktokで検索。ぽちっ)


違和感 って

自分が何に対してどう感じるのか、
それを考えたり、知ったりするのに
すごく大事な種だったりするのね

と思って。


好きか、嫌いか、

には曖昧さがあるけれど、

自分が何が好きで、何が嫌いかって、

実は違和感とか自分の心の、ちょっと嫌な不協和音的な声・音に

耳を傾けてあげることで少しずつわかるようになってくるものなのかなって。


でもっというと、
その違和感との向き合い方にも
自分の性格とか、価値観って出てくるんだなと。

結婚なんてしたら、
違和感出てきまくり〜のはずで、
その時にも、もしかしたら自分は離れるという選択だけを考えてしまったかもしれない。

でも、内包する生き方もあるのかもね。

ただそれが、無理をする、ということになってくると、
また全然違うけれど。
(その場合は、必要不可避の時以外離れていいと私は今も思っている)



自分の嫌な部分、言いづらい本音を、
周りにおそるおそるでもぶつけてみた時に、
自分が見ている世界・生き方ではない世界・生き方を教えてもらえるんだなと、

改めて発見だったのでした。


本音で話したことに対して、
本音で愛を持って返してくれる人たちが周りにいることって、
すごく幸せなことだよね。


私も、本音で生きていこう。

ということで、

私は改めて、

この周りの人たちのことが大好きだと気がつきました。



おしまい。ちゃんちゃん。
(何の話だったんだろう・・)


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