愛のロジック―倫理―~NSP(1996年)

 昭和のフォークソングは、井上陽水や吉田拓郎らの時代を皮切りに、1970年代に入って、楽曲がメロディアスなものがヒットチャートに上がるようになっていった。以前「クリスマスの約束」で斉藤哲夫が小田和正と話していたが、欧米の音楽だったR&Bやポップス、カントリーのメロディーに日本語を乗せるというのは大変な苦労だったらしい。

 1980年代にはフォークソングから「ニューミュージック」というジャンルが登場して、きれいなメロディやハーモニーを追求していく流れができていた。

 だが、1980年代後半から洋楽が次々に流れ込んでくるようになり、街角に流れる音楽の質が一気に上がったことでニューミュージックには逆風が吹き始めたと私は思っている。
 洗練されたメロディとアレンジ、コーラスなど洋楽は人種と国の数だけバリエーションがあり、多様な音楽を身近に聴くことができるようになった。

 「四畳半フォーク」「学園フォーク」と呼ばれる、国内の若者をターゲットにした歌詞とメロディが幅広く支持される時代は終わろうとしていた。
 多くのニューミュージックシンガーやグループがポップス路線に移行と試行錯誤を続けたが、ヒット曲を生み出したのはごく少数だった。

 NSPは岩手県一関市の高専に通う3人が1972年に結成したバンド。
 吉田拓郎世代のフォークソングと欧米のハードロックに魅了された彼らは、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に「あせ」というフォーク調の曲で入賞し、翌年「さようなら」という曲でデビューした。

 リーダーだった天野滋は、詩に関する独特の感性を持っていて、デビューしてから約8年間は、東北地方や北海道など地方に住む中高生に人気があった。
 昭和歌謡のうち若者をターゲットにした楽曲の歌詞は浮き世離れしたものが多かったが、NSPの曲には「田舎の堤防」「コメが取れない」「水害になりそうだ」「赤ん坊を抱いた婦人」「10人も孫のいるようなおばあさん」「ずいぶん だらしない女さ 君は」「パチンコやって もうけて」「セミの子ども」等々、歌謡曲では歌えない言葉が歌詞にちりばめられ、特に当時の田舎のハナタレ小僧たちに受け入れられていた。

 その一方でディープ・パープルやレッド・ツェッペリン等のハードロックも好きだったNSPにはロック調の楽曲もあり、セカンドアルバムに収録されている「コンクリートの壁にはさまれて」のリードギターを担当しているのはCharだ。

 当時ヒットしていたフォーク・ニューミュージックのアーティストの多くはシングル曲を数枚、アルバムを1-2枚出した後に解散することが多かったが、NSPは12年間の間に28枚のシングルと17枚のアルバム、ライブアルバム2枚を発表して1987年に活動を休止。その後2002年に再結成した。
 NSPも試行錯誤を繰り返しながら、フォークからニューミュージック、ポップスへ移行した。だが、昔からのファンが望んだのは地元の身近な景色を思い浮かべることができる恋の世界だったようで、アルバムも回を追うごとにセールスが伸び悩んでいた。

 後期に発表した「愛のロジック―論理―」は1984年発表の26枚目シングル。天野の作詞作曲作品だが、歌詞の視点がとてもユニークで、これが受けたのかプチヒットした。

「どこか心の隅で あなたの不幸せを望むよ」
「ひそかに ふさぎこむあなたを ひそかに 願うのが愛なのか」
「人を愛することで 僅かな自信さえも失う」
現代のポジティブ・シンキングが跋扈する世の中で、かつて愛した人の不幸せを願うなど、なかなかの世界観だと思う。

私が好きなのは
「ああ 名もない恋人たち 遙かな時の流れに負けて 
 ああ 数え切れないほどの 歴史へ埋もれていった愛よ」
というフレーズだ。

 SNSが当たり前の人たちには分からないかもしれない。
「つながり」が相手と直接出会わなければ、持てなかった時代がある。
(文通という手段もあったが手紙のやりとりには時間がかかった)
相手との糸はか細くて、ちょっとしたことで切れてしまい二度とつながることがない。
 時に「二度と会いたくもない」、時に「もう一度会いたい」と思いを乗せて消えてしまった愛が年月の分だけある。「愛のロジック」は、美しいメロディーでこれらを奏でる。

 私は粘着質なので、1度好きになったアーティストは他の人が次々に離れようとアルバムを買い求めた。田舎にいたので「追っかけ」ということは思いつきもせず、新作のアルバム予定をレコード店や楽器店などで見かけては予約して、先行予約特典をもらった程度だったが。

 NSPは、数少ない私のお気に入り。中学校1年の時に聴いて魅了されてから、周りの友人が次々とステップアップしてもとどまり続けた。
 中学校3年の時に「ふきのとう」へ鞍替えしたが、社会人になって全アルバムがCD化したときに、すべて買いそろえた。
 大人になってあらためて昔の曲を聴くと、プロのバンドというよりは大学生のサークルに近いものを感じたが、「あばたもえくぼ」。一度惚れたらすべてを受け入れることができた。

 天野滋氏は2005年7月1日、脳内出血のため死去、享年52。
 メンバーだった中村貴之氏も2021年11月27日に死去、享年68歳。
 ベース担当で平賀和人氏は、平松愛理の「部屋とYシャツと私」をプロデュースしたことでも知られる。2023年現在、ご健在のようだ。

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