三重野元日銀総裁の証言に対する雑感②

インフレ率2%の目標を目指しながら、異次元緩和という壮大な実験を行い、その実現に失敗した現在の日本銀行が置かれた状況は極めて深刻なものですが、1980年代後半から90年代前半のバブル生成と崩壊過程も大変でした。その時期に日銀の副総裁、総裁を務めた三重野康氏の口述回顧録をベースに、日経新聞が毎週末の連載で紹介しているものです。第2回は、「公定歩合(政策金利)が当時の戦後最低水準に下がった1987年2月から2年余りの時期の回顧」を中心に取り上げています。

記事では、「1986年10月、日米政府が為替安定の共同声明を公表するのに合わせて日銀は公定歩合の引き下げ」を決定するものの、「1987年1月になると円は一時1ドル=150円を突破」し、円高がさらに進行します。そのような状況の中、「日銀は2月、公定歩合を2.5%という当時の戦後最低水準に下げる」決定を行う流れを紹介しています。

その後、「結局、日銀は1989年5月まで利上げができなかった」わけですが、経済の歪みは物価だけに表れるわけでなく、金融政策がインフレ率という指標のみに拘ることの危険性を、以下の三重野副総裁の証言が示すように思います。

「(低金利のもとで)株式とか不動産とかゴルフの会員権とか、建設資材などがだんだん上がってくるし、マネーサプライ(通貨供給量)も増えてくる」「(しかし)一般物価はずっと落ちついていた。そういうときに公定歩合を上げて、これは景気に水を差すことになるわけで、『それは、いやだ』という感じが非常に向こう(大蔵省)に強かった」「土地の価格など個別のものは、たとえば土地対策とか、その他で対処すべきで、金融政策で対処するものではないという感じが非常に強かった」


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