トミ

はじめまして。40年以上高校の現代文教師をしています。「現代文」は「謎の科目」と言われ…

トミ

はじめまして。40年以上高校の現代文教師をしています。「現代文」は「謎の科目」と言われますが、そんなことありません。「生きにくい現代をどう生きるか!」が書かれています。現役の高校生も、かつて高校生だった方にもぜひ読んでいただければと思っています。

最近の記事

大人の「現代文」……『羅生門』11明治人の葛藤

 日本人の美徳  はっきりいいましょう。明治(及びそれ以後)の先達は、無理をしすぎたのだと思います。自分の親、親の親、親の親の親、親の親の親の親……、から連綿と受け継がれてきた根本感覚、一言で言えば「伝統」を無視して、自分が学んだ「西洋」との合体を夢見たその裏返しに、ある種の日本への蔑視があった。西洋への憧れと自己蔑視。私は『羅生門』という小説の本質にそれがあったと思っています。  下人は、あくまで下人です。つまり、庶民の一人です。そこに象徴されるのは「当たり前の日本人」

    • 大人の「現代文」……『羅生門』10芥川の悲劇の真相

      芥川の無理と悲劇  芥川は無理をしすぎたのだと思います。あれほど江戸を愛したんだから、その江戸への愛の根底にあるはずの、日本への愛を意識すれば、西洋的な「悪の美」に過剰にこだわることはなかったのではないかと思うんです。そうすれば、確かに「道徳感覚」は生活の中でさまざま揺らぎがあったとしても、その「道徳感覚」の根底にあるはずの「人を信じるべき」という「倫理」感・観の確かさには気づいたのではないでしょうか?  あくまで「研究」ではない「エッセイ」として語らせてもらうなら、芥川

      • 大人の「現代文」……『羅生門』9これは人間性の「無悪」証明なのでは?

        『羅生門』の証明したものは何でしょうか?  前回の続きになりますが、国博体験で私はホントに考えてしまいました。でも正直言うと、長年おぼろげに思っていた『羅生門』への疑問が鮮明化したようにも思ったわけです。  それは、この作品は「悪」を描いていない。と言うより、むしろ「悪」の心を持てない日本人の心性・真性を逆証明している作品だということです。  それを、西洋では「悪」の芸術がある。だから日本にもあるはずだ、という思い込みで、無理矢理、形象化しようとしたのがこの作品であるとい

        • 大人の「現代文」……『羅生門』8「悪」って日本にあるのか?

          「悪」って日本に、ほんとうにあるのか?  ちょっと芥川と別のことを書きますね(でも同じですけど)。いつだったか東京の国立博物館(国博)の日本絵画のフロアー、気まぐれでずっと見回ったことがありました。多分芥川さんの『羅生門』のせいかもしれません。日本の画家さんたちは「悪」をどう視覚化しているのか、ふと興味が湧いたからです。  で、この「悪探し」の探求結果には驚きました。私は絵に関しては全くの素人です。ピカソの抽象画にしても、確かに迫力は感じますが、それがなんで素晴らしいのか

        大人の「現代文」……『羅生門』11明治人の葛藤

        • 大人の「現代文」……『羅生門』10芥川の悲劇の真相

        • 大人の「現代文」……『羅生門』9これは人間性の「無悪」証明なのでは?

        • 大人の「現代文」……『羅生門』8「悪」って日本にあるのか?

          大人の「現代文」……『羅生門』7 芥川の「無理」

          「唯ぼんやりとした不安」って?  大変不幸なことですが、『鼻』を漱石に激賞されて文壇に華々しくデビューした芥川龍之介は三十五歳で自死しました。その理由が「将来に対する唯ぼんやりした不安」ということでした。  でもちょっと考えてみればわかるように、これは変ですよね。「将来に対する唯ぼんやりした不安」を抱かない人ってそもそもいるんですかね。  私は、この言い方の「唯」という言葉がすごく気になるのです。これほんとに「ただ」なんですかね?しかも「ぼんやりした」不安でしょ。ひとは

          大人の「現代文」……『羅生門』7 芥川の「無理」

          大人の「現代文」……『羅生門』6 「道徳」と「倫理」の違い

          「倫理」ってなんだ?  さて、探求を進めます。芥川は日本人の「道徳」が「時折々の状況の産物」で頼りないものだと言いました。一番肝心なことは、この「道徳」という言葉の意味です。もう一つ似た言葉に「倫理」がありますね。難しい定義をちょっと措いて、道徳は人の行動のルール、倫理はその根源の「精神」のように捉えましょう。広辞苑には倫理とは「実際道徳の規範となる原理」という説明がありますから。  芥川の意識しているのは「人のものを取ってはダメ」とか「死体を冒瀆してはダメ」という実例から

          大人の「現代文」……『羅生門』6 「道徳」と「倫理」の違い

          大人の「現代文」……『羅生門』5 人間の道徳感覚って「あやふや」が芥川の主張

          『羅生門』で芥川さんが問うているもの  繰り返しますが、この作品で芥川さんが一番言いたかったことは、我々の「倫理感覚」って「時折々の状況による時折々の感情の産物」つまり日本人の倫理感覚って確固としていない「あやふや」なものだ、ということです。(そう、作者自身が言っているわけですから……)実際、下人の心理はほんの数十分の間に、「あらゆる悪に対する反感!」から「オレも盗人になるぞ!」まで、それこそ180度(コペルニクス的に?)変化しますよね。  芥川さんのこの指摘が正しいか正

          大人の「現代文」……『羅生門』5 人間の道徳感覚って「あやふや」が芥川の主張

          大人の「現代文」……『羅生門』4 普通人は盗人にはならない

          下人とは何者? 下人はごく「普通の」人です。  この小説、普通は下人が悪に走った小説と読まれますが、本当は、「悪に走れない」のが普通の日本人、と読んだ方がむしろいいと思います。少なくとも私はそう読みます。  日本人は、どんな自然災害に遭っても、秩序を守り、黙々と生活を再興し続けてきたとい思います。その際同胞に略奪とか暴力行為などしない。高い倫理感覚を持っています。にも拘わらず、下人は略奪に走ろうとする。でも老婆から教わった「しないと飢え死にするような状況での悪は許される

          大人の「現代文」……『羅生門』4 普通人は盗人にはならない

          大人の「現代文」……『羅生門』3 ホントに下人は盗人になれたの?

          ホントですか?  この小説は、大体高校一年生で学習します。大人の方は記憶にありますか?  まあ芥川の描写力は一級品ですので、何か漂う底気味の悪さ、ある種の不安感は、高一生という純真な少年少女の心にみごとにヒットするでしょう。で、不気味感というものは、おうおうにして「正体がわからない」ものから生じるものなのですが……。  でも、一方でこの小説の内容自体はとても「正体がわかりやすい」ものなのです。なぜなら、主人公下人の心理は全て作者によって説明されるからです。読者は主人公の

          大人の「現代文」……『羅生門』3 ホントに下人は盗人になれたの?

          大人の「現代文」……『羅生門』2 ホントにエゴイズムがテーマか?

            悪がテーマになるのか? 続きです。  よく、高校生用の参考書などに、「羅生門」には人間性の悪たるエゴイズムが描かれているなどという解説がされています。でも、食べるものがなく、もう少しで餓死するなどという極限状況を想定して、そこに「人間の悪」などというものをテーマ化する意味が果たしてどれほどあるのでしょうか?確かに、人間は究極的な状況になれば何をするかはわからないでしょう。でも、そんなことは、あまり考えたくもないことですよね。  芥川はこう言います。日本人の皆さん!

          大人の「現代文」……『羅生門』2 ホントにエゴイズムがテーマか?

          大人の「現代文」……『羅生門』から始めます。

          はじめまして。トミです。 長年「現代文」の教師をしてきた私が、「現代文」という科目をどう見ているか、何を伝えようとしているのか、ありのままに語ります。現役の生徒さんのみならず、大人の方にも読んでいただきたいのでこういうタイトルにしてみました。さっそく始めますね。 「羅生門」 最も定番の教材です。 平安時代末期、名もない下人が、度重なる天災に見舞われ荒れ果てた京都で、職を失い途方に暮れている。生きるために盗人になるべきか悩み、解決がつかぬまま羅生門の楼上で夜を明かそうとす

          大人の「現代文」……『羅生門』から始めます。