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りんごの香る風をあつめて——飯田線阿房列車(4)終章

(承前)

アイヌの測量士・川村カネトは、ここから「三信鉄道」の測量を始めたんだ、という感慨は一切ないまま、わが飯田線阿房列車は14時13分、長野県飯田市の天竜峡駅にゆっくりと滑り込む。というのも、飯田線随一の観光地へ向かう駅であり、きれいに整備されているものの、ひと言でいうなら、素っ気ない。演歌や歌謡曲のようなべったりとした旅情を醸し出すこともなければ、ハイセンスな避暑地を演出するズレたお洒落さを出してもいない。休日の静かな午後、誰も乗らない、誰も降りない駅のホーム。誰もスマホを向けないマネキンが川下りの舟に乗っている。

その一方で、次の川路駅前は、ここは郊外型ショッピングモールの駐車場かと思うほど多くのクルマがびっしりと並んでいる。タープテントを広げていたり、デッキチェアに座っている人もいて、ここはオートキャンプ場なのだろうか。天竜川の水辺にちかく自然が満喫できるものの、妙に人工的で人為的な世界に迷い込んでしまった感じがする。断崖絶壁と激流をぬってきた天竜峡駅までが真実なのか、自然を求めて突然、人工物に囲まれるのが異世界なのか。

ここから飯田駅までは、当たり前のような暮らしが見えてくる人里を阿房列車は走っていく。連なった家々の軒先をかすめるように進みながら、突然ひらけたところにコスモスが咲き乱れる。「ふとん」の文字が色あせた店先には派手な夜具地がつらなり、「お得」「セール」「売り尽くし」というバナーで電器店のショーウインドウは中が見えない。ちょっと古びたアパートの軒先には白い肌着が干してあり、足下には積まれた空の植木鉢が崩れそうに傾いている。踏み切り待ちをするクルマのわきで彼岸花が風に揺れる。

途中、「鼎」という駅名が読めなくて、国語辞典アプリで調べてみる。

かな–え【▼鼎】━ヘ[名]
❶古代中国で、食べ物を煮るのに用いた青銅製の器。二つの手と三本の足がある。
❷王位・権威などの象徴。また、王位。
〔語源〕夏の禹王のとき、全国から銅を集めて九鼎(=九個の鼎)をつくり、王室の宝としたという故事から。

明鏡国語辞典 第三版

なぜ古代中国の青銅器なのか。混乱したのでさらにネット検索してみると、1875(明治8)年に山村、一色村、名古熊村の3村が合併するとき、三本足の鉄のかまである「かなえ」になぞらえた「鼎村」が駅名の由来だという。当時の小学校の校長が「鼎村」と命名した碩学にこうべを垂れる。

画面から顔を上げると、飯田線の中心駅である飯田駅に着いていた。それなのに乗降客は本当に少ない。いや、何人もいるじゃないかと目を向けたら「呑み鉄」連中がいそいそと駅構内へ用足しに向かっただけだった。向かいに見える駅舎の屋根が赤い。ああ、あれはりんごの赤だったのかと思い付いたのは、飯田駅を発ってから1時間ほど走った高遠原たかとおばらあたり。

飯田線は、伊那盆地を囲むように走る。中央アルプスを背に見ながら、どこか色あせた柿が実っているなあと惚けていたとき、ああ、これは柿じゃない、色づき始めたりんごだとようやく気づいた。その刹那、脳内では寂しげなギターが鳴り響く。

ハロウィーン 木枯らしのバスが
夕暮れの街を過ぎれば
うつむいた人々 どれもが似ている顔

松任谷由実『りんごのにおいと風の国』「OLIVE」1979

カボチャのおばけにはまだ早い。いま乗っているのはバスではなく列車。窓は開けていないので何も匂わない。まだ秋の訪れには早いのだ。でも、りんごが強く胸を揺さぶった。

3人兄弟の末っ子で、人一倍運動が苦手だった。兄が習っていたという理由だけで一緒に柔道教室にかよわされ、嫌々なのでまったく上達しない。では何をやりたいのかと問われ、水泳を選んだ。小学3年生になっても、まったく泳げなかったのだ。それから毎週木曜日はスイミングスクールにかよった。泳いだあとは強烈な空腹に襲われる。そこで母が春夏秋冬をとわず持たせてくれたのが、りんご。季節外れでどんなに高価でも、りんごを1個だけ必ず用意してくれた。りんごを丸ごとかじって、家路を急ぐ。

おかげで水泳が好きになり、一人暮らしをしていた学生時代、スイミングスクールでコーチのアルバイトをして生活費を稼いだ。果物といえば季節を問わずりんごを買った。いまでもりんごで母を思い出す。

車窓から、まだ色付かないけれど、りんごの実っているのが見える。りんごの香る風をあつめて、どこまでも歩いていきたい。阿房列車に乗っているのに、そんなことを考える。

命がけで測量した川村カネトの視線を「思い出す」天竜峡駅までの旅路と比べると、飯田駅を経て終点の岡谷駅までは、信州伊那谷の人々の暮らしに触れる旅路となる。

駅と駅の間は2kmから3kmで、時間も数分しかかからない。ほとんどが無人駅で改札もなく、乗降客もまばら。たいていは車内に乗り込んでから車掌に運賃を支払い、降車駅で精算券を車掌に手渡すか、駅の回収箱に入れる。車掌は2両編成の列車内を常に往復し、声をかけあい、人々は乗り降りしていく。その様子を見ながら運転士は列車を走らせ、ときには出発が遅れることもあるが、いつの間にか正常どおり鉄路をひびかせる。

野菜や肉が入ったエコバッグを持って乗車し、2駅目で降りる初老の女性。車内で機関銃のようにおしゃべりを続けながらも、どこか垢抜けない女子高生2人。大きなバッグを抱えて降車した若者を、わずかな笑みを浮かべて駅まで迎えに来た夫婦。ベビーカーに赤ん坊を乗せた若いお母さんもそのまま乗車してきて、たまたま目の前に座っていたおじさんが無言で、赤ちゃんを笑わせようと顔をすぼめたり目を見開いたり。

ある駅のホームでは、居間からそのまま出てきたような中年女性が待っていた。列車が到着すると、窓から顔を出した運転士と二言三言話したと思ったら、列車からちょっと離れてスマホを構える。どうやら写真を何枚か撮ったらしい。それから列車がゆっくり動き出すのに合わせてスマホを動かしていたから、出発の様子を動画に撮ったのだろう。

飯田線を暮らしのなかで利用していれば、当たり前の一場面かもしれない。しかし、殺人的に混む通勤電車や、人身事故による遅れ、不都合を駅員にぶつけ、暴力まで振るうこともある首都圏の鉄道では考えられない穏やかさがある。

人って、いいなと思う。暮らすって、本当に地に足のついたことなのだ。もちろん、飯田線に一切乗らずに、自動車だけで移動し、暮らしている人もいる。この辺りで飯田線に揺られている分には、断崖絶壁に命綱でぶら下がり、天竜川に落ちる危険を冒して測量した川村カネトを思い出すことはない。ただ、カネトは鉄路で遠州静岡や三河愛知とつながると、信州伊那谷の人々の暮らしが大きく向上すると信じていた。100年の後、その恩恵を無意識に受けて暮らしているのが、飯田線を利用している人々だ。

伊那市駅を発った17時ごろから、西日は山々に遮られ、夕闇が迫る。この阿房列車は終着駅の岡谷まで走るが、豊橋駅を起点とした飯田線は本来、終点は辰野駅である。かれはと問いたくなる頃合いを、まるでジオラマを見るかのように灯をともして走る列車を脳裏に浮かべたら、それはなぜか夜汽車だった。

長いトンネルを抜ける
見知らぬ街を進む
夜は更けていく
明かりは徐々に少なくなる
話し疲れたあなたは眠りの森へ行く
夜汽車が峠を越える頃 そっと
静かにあなたに本当のことを言おう

フジファブリック『夜汽車』「フジファブリック」2004

まだ夜が更けるには早い17時33分、甲州の富士吉田ではなく信州の岡谷駅に、わが飯田線阿房列車は到着する。一度も席を移ることなく、ずっと座り続けたボックスシートに未練を残しながら、一番最後に車両を降りる。各駅停車で7時間、列車に揺られて思索するのが、こんなに情趣が深いとは思わなかった。熊本の八代が気に入って、なんの用事もないはずなのに再三再四「阿房列車」を走らせた内田百閒の心持ちがわかる。

なんにも用事がないけれど、飯田線に乗ってこようと、ふたたび思うだろう。

(おわり)


飯田線阿房列車を走らせるきっかけをくださった冬青ソヨゴさん、本当にありがとう。伊那谷、とても好きになりました。今度は自分の足であるいてみます。

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