話すということ

本を読むということ、最近のこと

 本を読みすぎると頭が煮えた感覚になる。
 集中力が途切れるまで本を読んでみると、そのうち文字を眼球が追うだけになる。文章に映像や音やにおいが伴わず、単なる状況説明として読んでしまうのだ。
 なんならその状況説明すら頭には入ってこない。いわば時間の無駄である。疲れているときにぼーっとYouTubeをみている感覚に近い。

 このときだ。このときに本から目を背けて窓の外の景色なんかをみると頭が煮え立つ感覚と世界の多彩さ明瞭さが一挙に襲ってくる。
 なんだか不思議と気持ちがいい。多分サウナで整うとか少し近い。
 同じ気持ちよさがいくつかある。お酒に酔ったときの眠気とか、寝起きの立ち眩みとか、カラカラで飲む炭酸ジュースとか。
 思うに死に近づくと感じる類の快感なのだろう。正直代えがたいと思ってしまうほどの力がある。

 私は読書をある種の逃避として捉えている。
 なにかやらなければという切迫感を読書という免罪符によって誤魔化している。
 それは同時に読書しなければという義務感にもなる。正直健全な本の楽しみ方とはいえない。それでも本はおもしろいのだからすごい。

 夏季休業に入った。就職活動やら卒業制作やら、やることは山ほどあるがとりあえず一息だ。
 立ち向かえる人はすごい。前期の授業を修了したからもちろん時間はできたのだけれど、そのぶんゲームやらギターやらに費やしてしまう。
 しかも頭の中では「曲作らなきゃ……」「就活しなきゃ……」と常々考えている。不健康極まりない。
 メリハリつけてやるときやりなさい遊ぶとき遊びなさいというのが正論である。それが難しい。なんとかします。なにとぞ。

君たちはどう生きるか

 『君たちはどう生きるか』を観た。
 同じ上映に友人がいたことをあとになってから知って驚いた。あのスクリーンを知らず知らず共に眺めていたというのはなんだか可笑しい。
 感想については簡単に言葉にできない。してはならないほどの凄みを感じた。美しかった。生きようと思った。

あのときのこと、言葉のこと

 友人にもっと私のことを知りたいと言われた。
 私は思ったことを言葉にするのが遅いのかもしれない。そのとき思っていたことは結局話さず、夜寝る前にこう言えば伝わったかもしれないと考えつくことがほとんどだ。

 あのとき何を言おうとしていたのか、何を言われたのか今ではもうあまり思い出せない。
 ただ後悔はしていない。その場で不十分な言葉を伝えてしまうのは絶対にしてはならない。
 言葉は美しいぶんだけ恐ろしい。人を殺すだけの力がある。
 なぜみんな刃物をもったまま平然としていられるのだろう。

私のこと

 「黙すことの美徳」はあるのだろうか。
 「話すことの美徳」はよく説かれる。なんでも他者と共有してみれば新しいものがみえるのだから話してごらんということだ。
 「話すことの美徳」の有無は簡単に確認できる。話した後によかったかどうか考えるだけでいい。それに大概は後悔していないはずだ。
 実際には無意識化であれ意識下であれ話さないことを無数に選択しているはずなのだ。知らない人ばかりでパブリックな空間じゃ自分のことなんてよっぽど鈍感でない限り話さないだろう。
 だからこそ「黙すことの美徳」は確認が難しい。
 無数に黙すことを選択しているからその後によかったかいちいち判断することは少ない。そもそも在るものを数えるのに比べて、無いものを数えるのは難しい。
 「話すことの美徳」については頷ける。しかしすべてがそうとは決して思わない。

 誰にも言ってこなかった傷のような洞のような部分を話したとして、それを虐げられたら私は私でいられるだろうか。その反駁の果てにすれ違ってしまったら。私の言葉で人を深く傷つけてしまったら。今まで深く傷つけた人たちの顔を思い浮かべると、罪悪感と恐怖で言葉に詰まる。

私と彼らでは信頼のかたちが違うのだと思う。
 「なんでも話してぶつけ合って、その後わかりあえなかったら謝ろう、それが許される関係だ」「心配だから訊いている」「話さないということは信頼していないということなのか」すべて同意しかねる。

 「話せばわかる」というのは欺瞞だ。人はどれほど手を尽くそうとも完全にわかりあうことはない。私にできるのは「わかりあえないということをわかること」だけなのだ。
 だから私には「話すことの美徳」が、「自分が話したいから美徳を押し付けて無理やり話を引きずり出す」ようにしかみえない。それは人間を口無しの「聞き役」に仕立て上げようとしているふうにみえる。

 真に信頼しているのであれば心配などそうすることはない。頼られたらいつでも肩を貸すといっておけばよいのだ。なんでも確認し合ってあれこれ言葉を尽くすのは脆弱さを言葉で補填しているようにみえる。

 「話さない」という信頼もあるのだ。この部分は共鳴したけれど、この部分は触れてはいけないとお互いに線引きができている関係は心地よい。

 私は彼らほど強くできていない。
 傷つくのは怖いし、そうしてでも欲しい何かはない。
 閉じた空間で安らかにしていたい。外の世界は恐ろしい。

 そんな私を連れ出そうとするのはなぜか。次はこの話にしよう。

 あのとき話せなくてすまない。こうしてしか私は話せない。

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