メモ:「結局は自信」

 人と話したり外へ出かけたりすると不思議なことに、あるいは当然のことのように活力が湧く。

 ひとくちに活力が湧くといってもそれは「エネルギーを得る」という意味合いに過ぎず、つまりそこには負のエネルギーも内包されているのだけれど、そのせいで私は「コミュニケーションでエネルギーが得られる」という当然の事実を受け入れることにとてつもなく長い時間を要した。

 高校時代までは実家で暮らしていたので家族とのコミュニケーションが絶えなかったことと、「エネルギーを得る」ということがてっきり正のエネルギーにのみ働くのだと思っていたことで、大学時代に入り一人暮らしを始めて3年、ようやく負のエネルギーもまたエネルギーであることを実感したのだった。


 それを裏付ける過去の事象はいくらかあった。というか私の制作の四分の一は負のエネルギーによってもたらされたものであった。

 変えようのない世界に対する反抗、あるいは防衛機制。

 意識的に「世界よこうあれ」と作ったものはないが、「こんな世界なんて」という思いで作ったものはいくつか思い当たる。

 本筋とは逸れるが、私の制作の半分は自然発生的にできたもので、あとの四分の一は負のエネルギーと自然発生の混ざったもの、または正のエネルギーでできたものである(もっとも明確な区分はなく、それぞれがそれぞれの要素を含んでいるから感覚的な分配に過ぎない)。


 人は独りでは生きていけないとはよく聞く言葉で、納得といえばそれまでなのだけれど、どうしても孤独の果てに真に美しいものがあると信じたい自分もいる。

 ただ今年の閉ざした夏を経てひとつ実感した。孤独でいられて、かつものが作れる人間は本当にごく一部で、しかも努力でそういう人間に仕向けられるものではない。天賦の才能だ。あるいは呪いだ。

 私に独りで生きていられるだけの強度はなかった。かといって他者に心を開き迎合できるほどよくできた人間でもなかった。

 おそらく誰もが大きかれ小さかれ何かに迎合できない、さまざまな属性を中途半端に持ち合わせた自らの矛盾に苦しむのだろう。

 私の場合たまたまそれが就職活動中の今だったというだけの話だ。乗り越えてしかるべき試練なのだと受け入れるほかない。


 先週面接をした会社から、落選の通知が届いた。

 「後学のため理由を教えてほしい」という旨のメールを送信したら、「採用の基準は機密情報なので開示できない」とだけ返ってきた。返信が来ただけよいのだろう。

 正直に書くと精神的には限界である。落選の文字を目にするたび自らの存在意義がさっぱり立ち消えたように思え、今や朝晩常々虚脱感に苛まれてはいるがそれはもはや月並みな文句でしかなく(これが月並みなのはおかしいと思うが)、私の弱さの招いた結果なので詳細には記さない。

 私がここに記したいのは落選してから創作の調子が著しく良いということだ。

 そこそこに比重を置いていた会社であったため数日間は寝込んで何もできないのだろうと直感したのだが、次の日の朝には夏季休業の間ずっと進捗のなかった楽曲制作に兆しが見え、すぐさま2曲ぶんのデモ(デモといっても本当に軽いものである、スケッチのようなニュアンスでとらえてほしい)ができた。

 自転車で街に出てギターの新しい弦を買い、帰ってすぐに弦を交換し、指板にオイルを塗り、フレットを磨き上げた。

 夏の間ぴったり途絶えていた週に2冊ほどのペースでの読書がまた始まった。すらすらと読める。

 なぜだろう。吹っ切れたという言葉が似つかわしいとは思うが、なぜその言葉に至ったのかが説明できない。

 おそらくは会社にかけた時間や手間(新幹線で朝の9時に岐阜までわざわざ赴いた。実に3万円の出費であった)がまったくの無に帰した事実が到底受け入れられず、何かと行動することでショックを和らげようとしているのだろう。


 こうして近況を綴ってみると自分がどんどん破滅的な方向へ進んでいることを自覚する。

 今や本を読むこと、音楽を作ること、文章を書くこと、就職をすること、生活をすること、いずれにも意味ややりがいを見出せなくなってきている。

 もっとも心根からそう思っているのではない。揺らいでいるというだけだ。

 ただこのまま揺らいでいては就職も卒業も制作もままならない。鞭打って動くほかないのだ。


 私の言葉も誰かに届いているのだろうか。ときどき虚しくなる。

 砂漠とはこういう景色のことだったのだなとようやく実感した。

 

 私の作ったものを好きだと言ってくれた人たちを思い出した。誰もが小さく告白でもするみたいに「実はあなたの作品が好きだ」とこっそり教えてくれた。

 思い返すと涙が溢れるくらいの情動に呑まれる。

 それだけで作りたい。

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