9月
人と話すのは難しいことだとつくづく思う。
単位が足りないので体育をとっているのだけれど、初対面のグループとなると顕著に会話ができなくなる。
学校の、まして美術大学の体育なんて遊びだ。部活でも競技でもない。レクリエーションである。また授業プログラムに他者とのコミュニケーションの項目も含まれている。
つまり求められているのは技術の向上や精神の成長などではなく、楽しく身体を動かすことなのだ。
どうせ半年間同じ授業を受けるのだから仲良くしておいた方が気分がいい。
そう思って陽気に振る舞ってみるのだけれどこれがなかなかうまくいかない。話しかけても乾いた笑いや生返事がだいたいで心苦しいことこの上ない。
内気な人が多くなったと感じる。スマホを開けばすぐ友達と繋がれるからだろうか。
意味のない会話を避ける人が多いように思う。意味なんて人間があとからつけているに過ぎないというのに。
駄話でこそ育む友情もあり得ると思うのだ。意味などあとから生まれる。
全てわかりきったことなのだろうけれど、自分で書かなきゃ案外わからないし、忘れてしまうものだ。
そういうアナログで泥臭い歩みを重んじたい。
醜悪な人間に育ってしまったと思う。
とある友人から相談を受けたのだけれど、「本当に解決したいのならこんなところで愚痴を吐いていないで行動すべきだ」と突き放してしまった。
もとより彼も私に似て同じところでぐるぐると悩む性質だった。
ゆえに私が過去を乗り越えてきたのはいつでも行動だったのだと諭すつもりで言ったのだけれど、もっと伝え方はあったよなと後悔している。
彼が私に求めていたのは話を聞いてくれること、認めてくれることだろう。解決策なんて簡単で、本人もわかりきっているに違いない。
それもなんとなくわかっていて突き放してしまったのはなぜか。
就職活動と卒業制作で焦っているからだろうか。料理を作っている私の横で何もしない彼に憤りを感じたからだろうか。作業を進めたいのにいつまでも居座って同じ話をし続ける彼に辟易したからだろうか。
こう記述すると私に非がないように見えてしまうが、私は突き放したことを正当化したいのではない。正しいことと美しいことは時として違う。
問いたいのは、どうすれば常々余裕をもって、人に優しくできるかということだ。
ヒーローが登場する漫画を読むといつもそんなことを考える。
ギリギリの苦しい状況で笑顔を作って、弱い人々を守るために戦うのはあまりにも虚しくないだろうか。孤独じゃないのだろうか。
その虚の中でも強かでいられるのはなぜだろうか。
私もその強さが欲しい。
放つ言葉の大体は言い訳だよなと思う。
本当にやるべきことや話すべきことはあっても、タイミングが違うとか気恥ずかしいとか上手く言葉にできないとか、あれこれ理由を見つけて私たちは後回しにしてしまう。
意外と話してみれば皆合わせてくれるものだし、拙くても伝わるものなのだけれど私にはそれが難しい。
もっとも、皆が皆本音で話すようになってしまったら世界が成り立たないのだろうけれど。
という言い訳。
人のPCとかスマートフォンとか書籍とか、文字が視界に入っていたら読んでしまう悪癖がある。
普通にプライバシーの侵害だ。見て得することもない。けれどなぜかしてしまう。
もともと活字を目で追うことが好きなのもあるけれど、これは私の第六感的の答え合わせなのかもしれないと思い至った。
私は姉と妹の間に生まれた。姉はこだわりが強く育てるのに手がかかり、妹はとにかく活発かつ奇特な行動をする性質で、同じく手がかかったそうだ。
そして私はというと泣くときは空腹のときだけ、満腹になったらあとはひたすら寝ていたらしい。「あんたは手がかからなかった」。母の口癖であった。
姉と妹、すなわち女性に挟まれながら、年齢差による不均衡をつねづねみて育った私は、いつからか過敏なまでに人の機微を察する人間に育った。
これは単純に人の年齢とか大まかな性格とか、そういうのがわかるという話ではない。
たとえ初対面であっても、少し話せばその人の機嫌、性格、職業、性格を形作ったであろう過去の経験、音楽の趣味、食の趣向、手癖、口癖、コンプレックス、自分に抱いている印象などを推測できる。今のところ推測が外れたことはほとんどない。外れるのはたいてい私がその人に負の感情をもっているときだ。
これを自分でひそかに第六感と呼んでいる。
話を戻そう。
きっと人のPCとかスマートフォンとかを覗いてしまうのは人間観察の一環で、サンプル数を増やすことにより第六感の精度を上げようと、あるいは保とうとしているのだろう。
我ながら相当気味の悪い趣味だけれど、例えば(この人はこういう音楽を聴くのだろう)と思っていたらその人が該当するバンドのSNSを検索した、なんて瞬間の達成感は代えがたいものだ。
そもそも第六感と仰々しく銘打っているが、これは誰にでも備わっている能力で、その精度こそあれど言語化すら難しいからそう呼んでいるに過ぎない。
結局のところ、中二病を未だに引きずっている成人が気味の悪い趣味を披露しただけなのだ。
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