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書く書く、しか時価。(#シロクマ文芸部)

 『書く時間』
 そうタイトルが記された20号サイズの画が目の前にある。
 だが、これを画とよんでいいのだろうか。
 植物装飾や天使が寝そべる立派な金の額縁におさめられているのは――
 何も描かれていないまっ白な紙だった。

 打ち合わせまで中途半端に時間があいた。
 連日、猛暑日の記録を更新していた。高級ブティックが軒をつらねる銀座は、男がふらっと涼を求めて入るには敷居の高い店ばかり。スタバの店内は混雑していて席が空いていなかった。首筋にまとわりつく汗を手の甲でぬぐうと、ショーウインドウに飾られている抽象画が目に飛び込んだ。色とりどりの青がキャンバスいっぱいに無秩序に氾濫しほとばしっている。涼を求める本能の条件反射だったのかもしれない。扉を押していた。
 からん。ドアベルが鳴った。
 まっ白な壁に油絵、水彩画、リトグラフ、日本画などが整然と展示されていた。他に客はいなかった。左の壁から順に眺めていく。絵のことはよくわからないが、実力のある画廊であることは素人目にも判断できた。

 何も描かれていない絵は、左の壁の端に飾られていた。
 目の錯覚かもしれない。なにかトリッキーな技法で描かれているのかも。触れそうなくらい近くまで寄って、金の額縁のなかの白い紙に目を凝らした。照明が純白の紙に反射して目を眇める。額縁がうすく影を落としているだけだった。
 首をかしげたのは、それだけではなかった。
 タイトルの下に『一日一万円』と記した紙が貼られていた。
 レンタル作品なのか。何も描かれていない画を買ったり、借りたりする人はいるのだろうか。

 からん。ドアベルの音に視線を向ける。
 ペールグリーンのシフォンのワンピースの裾をひるがえして入ってきた女性が日傘をたたんでいた。女は展示作品には目もくれず、ぼくの隣でぴたりと止まった。こんな美人の知り合いはいない。

「まだかしら。もう十日になるけれど」
「そろそろではございませんか」
 いつのまに現れたのだろう。女性の斜め後ろに、スーツ姿の痩せた初老の男が姿勢よく立っていた。画廊のオーナーだろうか。ふたりの邪魔にならないようにそっと離れようとした。
「あら、ほんとね」
 女性の声に振り返る。
 まっ白だった紙の左端に、ほのかにサンドベージュ色がにじんだように見えた。
 ぼくは眼鏡をはずして目をこすり、もう一度眼鏡をかけた。

 ぽたっと落ちた水たまりのようなベージュは、さっと横一文字に刷毛ではいた太い線となって画面右に走った。そのまま下半分がささっと砂色で埋まっていく。
 形のない筆の勢いは止まらなかった。
 上半分に昏く沈んだ青と藍と灰青の微妙なグラデーションがせめぎあい白い波打ち際が描かれると、鈍色に泡立つ不穏な海の光景が広がった。砂浜の左端に遠近法で小さくウッドデッキのあるコテージが描き足され、男女だろうか、シルエットがふたつデッキに立ち現れた。弱い陽光がふたりを照らし出す。コテージから遠く離れた右下に藪があり、そこからぬっと突き出た双眼鏡の先が、デッキのふたりをとらえた。 

「できあがったようね」
 女の声に夢から醒めたここちがした。だが、それが夢でなかった証拠に、金の額の中には海辺のワンシーンが描きあがっていた。
 ぼくはしばし言葉を失くして佇んでいた。汗はもうとっくに引いていたはずなのに、首筋に冷たい滴が浮かぶ。
 すると、そんなぼくを嘲笑うかのように、くるくると端から絵が巻き取られていくではないか。
 ぼくはうろたえて、傍らの女性と初老の店員に目をやる。
 ふたりに動じる気配はなく満足げな笑みを浮かべて、額縁のなかを見つめていた。
 
 金の額縁から身をかがめて男がひとり、ぬっと現れた。脇には原稿用紙の束をかかえ、右手にいま巻き取った絵を携えていた。
「おつかれさま」女が微笑みかけ、原稿用紙の束を受け取る。
「今回も傑作をお書きになられたようですね」
 初老の店員もうやうやしく迎える。
「ああ、世話になったな」
「先生の新作も楽しみですが、その絵もまことにすばらしい。私どもで時価五十万円で買い取らせていただきたいのですが、いかがでしょうか」
 男はむぞうさに筒状にした絵を男性店員に投げる。
「では、十日間の『書く時間』代十万円を差し引いて、四十万円をお振込みさせていただきます」
 女が男の腕に手をかける。
 男は興味なさげに「また、描きに来るよ」と背を向けた。
 その横顔に、ぼくは、あっと声をあげそうになる。
「あの方は‥‥」店員を振り返る。
「ええ。ミステリー作家の太田垣流星先生です」

(The End)


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ずっと憧れていた「シロクマ文芸部」にようやく参加させていただきます。
初参加に、どきどき。こんなのでいいのかなあと、どきどき。
よろしくお願い申し上げます。

 



 
 

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