春の夢釣り(#シロクマ文芸部)
『春の夢』と銘のついた掛け軸を一幅うっかり購うてしもうた。
笑止千万、不覚千万、前後不覚ですっからからんじゃ。
いやはや、万年床の堆き山を崩しては堀り崩しては掘りして、ようやっと発掘せし作者不明の錦絵を、馴染みの質屋に酒代の質草にせんと、狸の皮算用をはじきつつ持参したところまでは、ふむ、なかなかに良き思案であった。巷間の浮説によらば、仏蘭西あたりではジャポニスムとか何とかぬかして浮世絵がえらく珍重されておるそうな。錦絵なんぞ茶碗の包み紙くらいが関の山と打っ棄っておったが、蓼食う虫も好き好きと申す故に侮れぬ。万事捨てずに万年床に散らし置きて正解であった。
福は忘れた頃にやって来るもので御座候と、売れない三文作家の木村薫は春風に足取りも軽かった。
「錦絵ですか。まあ、ええとこ……」
質屋の親爺が眼鏡を鼻先までずらし算盤をはじくを、北叟笑んで眺めておった。ぱちぱち、ではなく、ぱちりと一つ五珠をはじく。
「おお、五円か」
「何をおっしゃる、五銭ですわ」
親爺があきれ顔を向けくさる。
「素人と舐めるか。西洋では錦絵がえらい人気で、値も鰻上りというじゃねえか」
ふん、と腕を組んで白頭を見下ろす。
親爺がやれやれと皺首を振る。
「北斎やら歌麿やら名ある絵師の落款付きならいざ知らず、八百屋で芋くるむが精精の捨て紙でっしゃろ。まあ、旦那にはご贔屓にしてもろてますさかい、十銭でどないですか」
むむむ、と唸り「もうひと声」と拝みて十の段の珠を二つ上げる。
「堪忍してくださいよ。毎度毎度、旦那の酒代を工面するわけには……」
親爺がぶつくさ往生際悪い御託を並べるを、あと一押しかと駆け引きの算段をしておったら――。
後ろ髪を引かれた。
仮にも作家を名乗る輩が慣用句を誤るか、と嗤うなかれ。
まさに、ぐいと後ろ髪を引っ張られたような、背中のあたりがむず痒うというか、こそばゆいような、誰ぞにじっと見られているような妙な心地がして振り返った。
黄ばんだ軸が一幅、春風にはためいておる。
木村はなんとのうふらふらと近寄る。
白髪三千丈の仙人が池の端で釣竿を垂れる凡画には賛すらなかった。
「亭主、これはいくらじゃ」
「それも二束三文のお品で、一円ですわ」
「二束三文なら、価も錦絵と同じ十銭であろう」
「ご冗談を。捨て紙の錦絵と、曲がりなりにも軸物とが同じ値であろうはずがございません」
「ちいっと勉強できぬか」
「八十銭では、どないですか」
木村はなけなしの五十銭玉を帳台に、ええいまゝよと、ぴしりと置く。
「三十銭ほど足りませんな」
「これがある」と錦絵を指す。
やれやれ、と親爺が肩を落とす。
「この錦絵が三十銭でございますか。ほんにご無体な。しょうがおへんな」
意気軒昴、してやったりの心持ちで店を出たものの、ようよう思案するに、酒代を得るはずが五十銭も余計に散財してしもうた。小生のほうが質屋の親爺の掌で転がされたか、と首を捻る。
床の間もなき下宿では致し方なしと柱に釘を打ち付けて軸を引っ掛け、酒への未練もたらたらに万年床に大の字に果てた。
春眠を無為に貪っておったら、また、髪を引っ張られる。
あたた、あたたと頭を押さえ身を起すと、散切り髪に糸が引っかかっておるではないか。
ぐいと引っ張ると、なんと軸から仙人が落ちてきた。
瓢箪から駒でなく、掛け軸から仙人である。
「もうちっと老人をいたわらぬか」
あたた、あたたと腰をさすっておる。
心底魂消た。魂消はしたが、先日、梅の精にも出合うておる。まあ、このくらいの不可思議もあろう。
「もしや、かの高名な太公望殿でござるか」
「いかにも。姓は呂、名は尚、字は子牙。渭水で釣りをしておって文王陛下に釣られた者じゃ。ありがたくも我が君より太公望の尊号を賜った」
腰をさすり、竿を杖にして足の踏み場もなき六畳間を子細に見渡す。
「して、ここはどこじゃ」
「日本の東京府東京市本所区でござる」
「はて、日本とはいずくにある国か」
ああ、と木村は合点する。太公望の生きた世に日本はなかったか。
「東の大海に浮かぶ国でござる」
「ならば海は近いの」
太公望は相好を崩し、すくと立ち上がる。
「では、参ろう」
「どちらへ」
木村は怪訝な顔で問う。
「無論、海じゃ」
太公望の語るに、公がひねもす釣りに明け暮れし渭水は黄河の支流で、峨々たる嶺に囲まれた峡谷にあるという。
「故にな、儂は海を知らぬ。海釣りをしてみとうての」
白く長い髭を手でしごき、皺を深うして笑む。
墨田川を下る川舟を春風が追う。ほどなく江戸前の海に出た。
「おお、此れが海か」
南にはるけき海原は春の陽にさんざめき、波は銀鱗を連ねる。
泰然自若の仙人が欣喜雀躍の態である。公は舷に座し、嬉々として釣糸を垂らす。
「ほれ、そちも、早う竿を構えぬか」
流石は釣りの名人太公望でござる。またたくまに鯛、伊佐木、鮎並、鱚、細魚をひょいひょいと釣りあげ、たちまち魚籠は溢れんばかりとなる。
かたや木村は一向に釣れぬ。
「釣ろうとしてはならぬ。慾は相手を遠ざける。無心で糸を垂らし、ただ待つが肝要。万事そうであろう」
春の海ひねもすのたりのたりかな、と詠じたは蕪村であったか。
舟はうつらうつらと波間に揺蕩い、うつらうつらと陽がよぎり、二竿がぴくぴく揺れる。
「これを肴に一献酌み交わそうぞ」
浜に戻るなり太公望が釣果を掲げてのたまう。
「誠に申し訳ござらぬが、小生、いささか手許不如意につき、酒の買い置きも、購う銭もすっからからんでござる」
「何を申す。これこのように魚は魚籠に溢れておる。売りて濁酒なりと求めればよかろう」
まこと美味い酒であった。
七輪で鯛を焼き、鱚を炙り、刺身を拵えた。
沖で漁火が揺れる。潮風が喉元を撫でる。
差しつ差されつ杯を重ね、酒も肴も与太話も笑いも尽きず、春の宵にほろほろと酩酊いたした。潮騒を耳裏に聴き、世知辛い世を忘れ、桃源に遊ぶは斯くの如きかと陶酔いたした。
翌朝、日が高うなって目覚めると、万年床に大の字で転がっておった。
ゆるりと身を起し太公望を探すに姿が見えぬ。軸の内に帰ったかとまだ醒めやらぬ頭を揺らして柱を見やると、軸も掛かっておらぬではないか。慌てて文机に手を伸ばし眼鏡を掛けた。
我楽多が堆く山をなす万年床の頂に錦絵が一枚落ちていた。
春の夢であったか。
障子を細く開けると、風が畳をさらってゆく。
そこはかとのう磯の香がした。
<了>
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