#110 持っている情報は多ければ多いほど良い、とは限らない

今は情報化社会であり、一日に数千以上もの情報を五感を通じて見聞きするわけですが、私達が思っている以上に賢い脳みそのつくりになっているかと言われれば、全ての人がそうであるわけではないように思います(少なくとも私の脳は単純に出来てるはず)。

一般論とされているのは、『手にしている情報は多ければ多いほどいい』という風に言われていますが、実際のところはどうなのでしょうか。

確かに、インプット(でた!横文字)すること自体はとても大事です。ただそれ以上に何をインプットするかが大事なのだ思うのです。

食事と考えればよいと思うのです。例えば栄養を補うためにただなんでもたくさん食べれば良いというよりかは、何を食べるか、そして何を食べるべきでないかを考えて食べる方がよほど健康的でしょうね。それに一日に摂取が推奨されているカロリー数があるのと同じで、脳に留めて置ける情報の量にもキャパシティーがあります。もし選ぶことをせず、手当たり次第に流れてくる情報にしがみついていれば、それは壁に色の違うペンキを次から次へと塗っていくようなもの。その色にしか壁が染まらない様に、結局は一元的なものの見方しかできないでいるのみです。

特に今のような情報が次から次へと流れてくる時代、私達は『数ある情報の中から、選び取る』ことさえ困難を極めているように思う訳です。

有名なジャムの実験に示されるように、人は20種類以上のジャムから一つを買うより6種類のジャムから一つ買うのを選ぶ方がずっと楽なのです。

そして選ぶジャムの種類が増えれば増えるほど、人は購買意欲を失い、ついには買うのをやめる…

もしかすると、情報過多の時代に私達がやっていることは、このジャムの実験でいえば『もっとも楽な二つの選択肢』を取っているにすぎないのかもしれません。

それは『全てのジャムを買う』か、『一つも買わずに帰る』か。

情報を取捨選択せず掴めるだけ掴もうというのは、なんの情報も得ようとしないことと同じということ。どちらも思考停止した結果の行動という点において。

・【無駄は省かれるべき】という意識から距離を置く

前に美輪明宏さんが『必要無駄』という言葉をラジオか何かでお話しされていましたが、一見矛盾しているように聞こえますが、無駄というのは不要なものではなくむしろ今の時代に大切にするべきものだという考え方は少なからず私自身も共感できる節があります。

なぜなら、無駄じゃないことが正義という行動様式を続けていくうちに、心の底ではどこか『無駄=悪』という考えに結びついていってしまう恐れがあるからです。

その考えが副次的に与える影響、それは当然ながら『無駄なことはやめよう』という意識に基づく行為でしょうか。

趣味というものは概して自分自身の満足の為にこそするものであるので、そこに無駄の是非を問う余地は基本ないものです。しかし『無駄=悪』という感覚が少しでも入りこむと、自分が好きなものに対する疑念が生まれてくる恐れがある訳です。

最近では、自分の生活に見いだせない、退屈だ、という方が増えているように思われますが、それはきっと無駄を排除する考え方に慣れてしまったせいで”無駄に”考え方が洗練されてしまったからなのではないでしょうか。

この点に関しては、以前のブログで書いたので割愛しますが、とにかく言いたいのは、情報化の波にのまれない為に必死に情報を得ようとするのは、却って逆効果になりうる、ということ。

巷で喚呼されているメディアリテラシーの通念とは真逆のアプローチをとっていく必要があるということです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?