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名前のない不自由の戯れたの 1

ラジオを聞いていて。
政治家が自粛期間中に「セクキャバ」に行って除籍処分。
「セクキャバ」でなくウチの芝居だったらどうだったんだと、たとえば思た。
劇場や、ライブハウスだったらどうだったんだと、たとえば思た。

そうパーソナリティに問われた党首はラジオの生放送中しどろもどろだった。
いじわるな質問だと思た。でも現実だなと思た。自分にとってリアリティのある話だった。

これから公演をうつ。 そのなかで、パチンコ屋の様に名前を公表されたり、
地域の人たち、市民の人たちに中止を求められることもあるだろうな。ぜったいあるよな。
そんなとき誰に相談すればいい。 誰が助けてくれるのよ。

本当に個人個人、今日まで孤立して活動してきてしまったんだと実感する。

今日の「演劇」を囲む、この状況があって。
野田さんも、オリザさんも、あの若手の演劇の発言力のある人も、
現状を痛切に世に訴えてくれるのだけど、それがどこかアカデミックに「芸術家」の「高慢」と取られてしまうのが何ともやるせない。
バカもいるのに。「高慢」が「コーマン」に聞こえてキャッキャできるバカも沢山いるのに。
むしろバカのほうが多いはずなのに。私たちの景色から見ると「演劇」はバカの文化なのに。
バカばっかりなのに。 また溝がふかまるただでさえふかい溝がまたいっぱいいっぱい。

下を見るとチンコだしてる私たちも同じくたぶん「演劇」だと思っていて。
でも考えてみればたしかにな。 「芸術家」に私たちは「演劇」と認められていないのも知ってて。
そして私たちも「芸術家」を「演劇」と認めてないのもわかってる。
すいません。 私「たち」って勝手に「たち」にしてごめんなさい。私です。全部「私」一人称。
続けます。 アッチとソッチで、違う世界にいることも自覚しております。ごめんなさい。
でも世の中からするとやっぱ「高慢」も「コーマン」もおんなじ「演劇」なのですね。
だからより厳しい世界は始まろうとしている。 か、もともと厳しかったのか、諸先輩がたがた。

芸術家は私たちをいざというとき助けてくれるのか。
都合のいいときだけ認められるのも、都合のいいときだけひとくくりにされるのも解せない。

野田さんも、オリザさんも、宮沢章夫さんにも、私は心から影響を受けていて、尊敬してる。
鴻上さんはそうでもない。うそ。超リスペクトしてる。 マジ卍。

新しい時代が始まる。
名前のない不自由なものと、私たちの世代は戯れて戯れて、
戯れて、演劇をゆっくりとゆっくりと、ゆっくりと考えてゆきたいとおもう所存でございます。
キャパい。

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