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フローター  第2話

            狂騒曲フロート
 

 あの衝撃的なフロートの発表記者会見から1年経った5月31日の夜、新国立競技場で開かれたフロート発売記念イベントには3万人を超える客が集まっていた。

 6月1日の午前0時00分に解禁となるフロートの発売。この歴史的瞬間までいよいよあと数時間と迫った会場は興奮と熱気と緊張とが混ざった異様な雰囲気に包まれ、豪華な出演者たちの登場でさらに盛り上がりをみせた。

 今や飛ぶ鳥を落とす人気アイドルグループ「ハプニング38」がこの日発売となるシングル『お空の上からI LOVE YOU』を熱唱したのを皮切りに、トップアーティストたちが次々とライブパフォーマンスを披露し、オリンピック男子体操金メダリストの外橋洋平や、美人過ぎるカーリング選手として人気の水島里見をはじめとする人気スポーツ選手、恋人にしたいタレントナンバーワンの俳優・塩川光、来年の大河ドラマで主役の細川ガラシャを演じる予定の女優・三栗谷香、人気お笑いタレント、政治家、評論家……などなど、多くの著名人を集めたトークショーが開かれた。

 この発売イベントは国立競技場だけでなく同時刻に札幌ドーム、ナゴヤドーム、大阪ドーム、福岡ドームでも開催され、ユーチューブでその様子が生配信され、まさに日本中がフロート発売の瞬間を待ち焦がれていた。

 午前零時まであと1分! スクリーンにそう表示されると会場からどよめきが起き、あと30秒をきったところで自然発生的にカウントダウンが始まった。

「さあ、みなさん、いよいよフロート発売開始まであと三十秒をきりました。わー凄い、もうカウントダウン始まってますね、それでは、ゲストの皆さんも一緒に声を合わせてカウントダウンをいたしましょう! 10秒前、9、8、7、6、5、4、3、2、1、解禁でーす!」

 夜空に花火が上がり、それと同時にフロートを飲んだゲスト出演者らが次々と夜空にフロートしていった。

「夫人、ぜひご感想を!」というレポーターからの質問に東南アジアの王国の元大統領夫人――ナターシャ夫人が「これは凄くストレス解消になりますし、もの凄いエクスタシーを感じます!」とコメントし、セクシー系タレントとして大ブレイク中の、およとぎ蘭は「今夜は私の中でもフロートさせてあげる……」と意味不明なコメントで会場を盛り上げ、萌え系アイドルの佐倉優子は「お星様がきれいだプー」と得意のプ―プ―語で感想を語った。

 アリーナ席ではフロートを購入した客たちが三橋製薬の社長三橋や三橋製薬の社員たちとハイタッチを交わし次々と夜空にフロートしていった。

 こうして世紀の大発明品フロートは発売され、人々は一斉にこの商品に飛びついたのである。
 
 フロートの発売当日、当然のことながらテレビのニュースやワイドショーは朝から晩までフロートの話題一色となった。
 
 ご覧くださいこの行列、今都内のドラッグストアに来ているんですけど、 
 いやもう行列が、ウ―ワッ、これ三百メートルは続いてますねー。ちょっ
 と聞いてみましょう、お母さん、ちょっとお母さんよろしいですか? 今
 朝何時ごろから並んでるんですか? え! 夜中の一時から! すごいで
 すねー。一番乗りの方にも聞いてみましょう。学生さんですか? あ、そ
 うですか。一体何時から並んでらっしゃるんですか? え! 昨日の六時
 から――
 
 あるエコノミストはこのフロートのブームはダッコちゃん人形やたまごっちをはるかに凌ぎ、およそ1兆2千億円の経済効果が見込まれるという観測を発表し、三橋製薬の株価は連日のストップ高となった。

 このフロートブームに便乗し大成功を収めたのがエンターテインメント業界だった。『空の上から愛を叫ぶ』というテレビドラマが大ヒットし、ハプニング38の『お空の上からI LOVE YOU』は異例の5百万ダウンロードという記録を達成した。

「フローター」という言葉がこの年の流行語大賞に選ばれ、人気女優の三栗谷香が「重力にはバイバイ」と言いながらフロートしていくテレビCMがブームに拍車をかけた。フロートしながら男女がコンパを楽しむ「フロコン」が話題になったほか、ペットと一緒にフロートを楽しむ愛犬家、愛猫家も出てきて「フロ犬」、「フロ猫」などという言葉も生まれた。

 支持率低迷に苦しんでいた御手洗政権がこのフロートブームに便乗したのは言うまでもない。総理大臣の御手洗三郎は官邸の中庭で記者たちの前でフロートを飲んでみせ、「どうですか総理、フロートしてみたご感想は?」という記者団からの問いに「いやー気持ちいいね、支持率もこんな風に上がるといいねー」というベタなコメントで笑いを取ったが支持率には何の影響もなかった。

 また、あまりのフロートの人気ぶりに世間では困った事態も起きていた。
 どこの薬局でもフロートが売り切れ状態となり、まだ購入出来ていない消費者のフラストレーションは頂点に達し、ネット上では一部の上級国民たちだけがフロートを優先的に購入出来るようになっているというデマが流れ、フロート購入者が不良グループに襲われるフロート狩り」と呼ばれる事件が各地で頻発したり、億ションと呼ばれる港区や渋谷区のタワーマンションが暴走族の車列で囲まれたりする事件が起きた。

 教育現場では授業中フロートを飲んでフロートする生徒が続出し、そいつらを捕まえる為に先生もフロートを飲んでフロートしてしまうので教室が空っぽになってしまうという新しいタイプの学級崩壊に悩まされていた。

 そして一昔前には四六時中部屋の中に閉じこもる「ひきこもり」が問題となっていたが、最近では一日中空の上にフロートして戻って来ない「フロート・シンドローム」が深刻な問題となりNHKスペシャルで特集された。

 誰もがフロートを欲し、誰もがフロートを買い求め、誰もがフロートを絶賛した……。
 しかしこの時点では誰も知らなかったのである。

 フロートには重大な副作用があることを……。
 
 

 
               2年後
 

「お前もっとテキパキやれよ!」
 ゴミ収集作業員の松本良太はいらついていた。

 コンビを組む田島の動きが悪いのである。いつもトロい奴だったが今日はいつも以上にトロかった。良太が10個のゴミ袋を運ぶ間に田島は3個くらいしか運んでいない。
 俺より若いくせして早くも夏バテか? ったくよー……。
 そう愚痴りながら良太はゴミ袋をゴミ収集車に投げ入れた。

 今日も朝から暑い。また嫌な季節がやって来た。夏場は特に生ゴミの匂いがきつくなる。良太はこの仕事を7年以上やっているがやっぱり夏が近付くと憂鬱な気分になってくる。今日は、さあやるぞ! と気合を入れて出発したものの最初のゴミ置き場でゴミ袋がはじけて中に入っていた生ゴミの汁が飛び出し作業着にしみ込んで今もまだ嫌な匂いを発し続けている。最悪だ。さっき通ったバス停の前では通勤途中の綺麗なOLがゴミ収集車の放つ匂いに顔をしかめて露骨に迷惑そうな顔をしていた。

 今日はついてない日なのかもしれない。それに加えて相方の田島のこの動きの悪さだ。フラフラしていて「すいません!」という声も腹に力が入っていない感じだ。きっと朝飯も食っていないのだろう。しょうがない、俺が頑張るしかねーか。よし、もうちょっとだ! そう自分に気合を入れた良太だったが清掃車が清澄通りを左に曲がったところでその光景を見てガックリきた。

「今日一番アンラッキーなのは、ごめんなさーい、おひつじ座のあなた! 思いがけないトラブル発生で大乱調の一日……」――今朝テレビで見ためざまし占いが的中した。道路中にゴミが散乱していた。しかもちょっとやそっとの量じゃない。バナナの皮やら、くしゃくしゃになったティッシュやら、麦茶のパックだの、生クリームのついたケーキの包装紙だの、魚の骨だの……ありとあらゆるゴミが道路に全員集合していた。

 この辺りは東京湾と隅田川に近いせいか普段から風が強い。おまけに最近は高層マンションがたくさん建った影響で時折マンションとマンションの間の路地から強烈なビル風が吹くことがある。今日は特に風が強い。その風でゴミ箱が倒れ、中に入っているゴミが飛び出し、それをカラスたちが散らかしたのだろう。

 僕たち知りませんけどなにか……? 電線に止まったカラスたちがそんなスットボケた表情で良太たちを見下ろしていた。ちくしょー……良太は吐き捨てた。確かにこりゃ大乱調の一日だ。俺がおひつじ座だったばっかりに……ああちくしょー、ふざけんなよまったくこの野郎……。でもいくら毒づいたところで目の前のゴミは片付かない。

 ハ―、仕方ない、やるか……。

 一度大きな溜め息をついてから良太は「おい田島、やるぞ」と隣でより一層やる気のない顔をしている田島に声を掛けて散乱するゴミに向かって走り出した。

 その時だった――
 狭い路地から突風が吹きつけた。
 一瞬何が起きたか分からなかった。
 視界の隅で田島の身体がフワッと浮いたのだ。まるでスローモーションのように……。 

 ん? なんだ……?

 と思った次の瞬間、田島の身体は3メートルほど風に巻き上げられマンションの壁面に思いきり打ち付けられてその下にバタンと落下した。

 なんだ……? 今のは……?

 まるで田島の身体が神の見えざる手によって柔道の投げ技をくらったようだ。「おい! どうした!」運転手の小川が駆け寄って来る。アー、とどこかでカラスの鳴く声が聞こえた。頭にデットボールを受けて倒れた打者のように田島はピクリとも動かない。

「思いがけないトラブル」ってこのことか……。そんなことを思いながら良太はその田島の姿をただ呆然と見つめた。


 
               副作用

 
 暑い。まだ朝の8時前なのに勘弁してくれよ……。

 強烈な日差しから逃げるように、その朝誠は研究室に向かった。梅雨というのはこの国から何処かに亡命してしまったのだろうか? 最近は梅雨らしい梅雨がない。これも地球温暖化のせいだろうか? 今年も5月のゴールデンウィークあたりに10日ほど雨の日が続いただけでその後は30度を超える日が続き、6月に入ると真夏のような猛暑日の連続だった。

 研究室に入るとすぐにエアコンをつけ扇風機の強風のスイッチを押し風を浴びた。あまりに暑いので下着までびっしょりだ。気持ちが悪いから下着を着替えるか、とシャツを脱いだ。鏡に上半身裸の自分が映る。プヨプヨしたお腹が格好悪い。少し鍛えないと女の子にもてないな……そう思った。

 発売から2年が経ち発売当初ほどの熱狂ぶりは鳴りを潜めたものの、フロートは日本人にとっては欠かすことの出来ない娯楽商品となり、すっかりその人気は定着していた。

 フロートの発売後の数カ月は誠にとって栄光の日々と言えるものだった。
誠はフロートの発明者として世間からそこそこ注目され、テレビや新聞からのインタビューは月に10本以上舞い込み、クイズ番組のゲスト解答者として呼ばれたりもした。電車に乗れば女子高生たちが誠を指差して「あの人もしかして……」と噂をするのが聞こえ、キャバクラに行けば可愛い女の子たちから「あー、テレビで見たことあるー」、「フロート発明した人だって」、「うそー、すごーい!」とチヤホヤされこの上なくいい気分になった。

 初めてテレビに出た時のワクワク感は今でも忘れない。その番組は社長の三橋が密着取材を受けたドキュメンタリー「情熱大陸」だった。

 あの日誠の研究室にはカメラ取材が訪れ、テレビに映るということで誠は前日に床屋に行き散髪し、新しいスーツを買って生まれて初めて香水も付けてみたが誠の出演シーンはわずか七秒ほどでフロートしているマウス越しに映っていたため顔もぼんやりしていて白衣を着ていたため新着のスーツも映ることはなく、当然のことながらテレビなので香水も全く意味をなさなかったが、放送を観た富山に住む誠の両親は「よく映ってたよー、かっこよかったよー」と感激して電話をかけてきてくれた。

 両親はこの放送の為にわざわざ40インチの新しいテレビとハードディスクレコーダーを買い揃えたらしいが録画の仕方がよく分からず裏番組の「Eテレ、ロシア語講座」を間違えて録画してしまったと嘆いていた。それでも田舎者の両親にとって我が息子がテレビに出るというのはオリンピックや新政権誕生のニュースをはるかに超える衝撃的なニュースだったらしく終始声が弾んでいて嬉しそうだった。

 空を飛べる薬を発明したらグラビアアイドルと一発やらせてやる――その約束通り社長の三橋は誠のために一人のアイドルを用意してくれた。その娘は5人組のアイドルグループ「ミラクルガールズ」の右端にいた一条レナちゃんという女の子で、デビュー後もパッとせず今はもうグループは解散し、レナちゃんはキャバクラでバイトしながらグラビアアイドルとして活動しつつ、将来的には演技派女優への路線転換を狙って日々演技の勉強を続けているらしかった。

 誠は「ミラクルガールズ」というアイドルグループの存在は初めて知ったし、一条レナちゃんは誰が見てもカワイイと言うほどのルックスではなかったが、アイドルとやれるというだけで誠の興奮は頂点に達し、ホテルで一条レナちゃんに会った瞬間誠の息子はビンビンになり一晩で6発という自己ベストを更新してしまった。後に一条レナちゃんがAVデビューしたと知った時はちょっと複雑な気持ちになったがあんなに気持ちのいいセックスは生まれて初めてだった。

 こうして人生初の「栄光の日々」を味わった誠であったが、世間というのは恐ろしいもので三カ月もするとどのメディアからも声が掛らなくなり、半年後には電車に乗っても誰からも指をさされなくなり、あえて女子高生が沢山いる車両に乗り込んでも全く噂されることはなくなった……。

 まあ、世間なんてこんなものなのだろう……。少し寂しい気持ちはあったものの誠自身は十分いい思いもして満足していたのだが、社長の三橋の成功への貪欲さはとどまるところを知らなかった。三橋の次なる狙いはフロートの海外展開と、さらに長時間そしてさらに高くフロート出来る「フロートα」の発売で、その早期開発を誠ら研究室のメンバーにしつこいほどに要求してきた。

 そんなに次から次へと新しい発明が出来る訳ないだろ、と思いながらも誠は三橋社長の熱い思いに何とかこたえるために頑張った――というのは嘘で、本社に呼び出された時、三橋から「今度また成功したらもうワンランク上のモデルか女優を抱かせてやる」と耳打ちされ、誠は再び研究の虫になった。

 ヘックション!

 扇風機の強風を真正面から浴び続けたせいで身体が冷えたのだろう。思わずくしゃみが出た。もう汗は引いた。早く着替えないと……そう思って扇風機を首振りモードに切り替え、着替えのTシャツを頭からかぶった時だった。鏡の中、誠の身体のわきで何かが動いたような気がした。 

 ん……?

 振り向いたが誰もいない。おかしいな……。もしかして心霊現象か? 昼間なのにそりゃないだろう! 一人でボケて一人でツッコミ、一人でニヤニヤしながらワイシャツをはおって鏡を見ながらボタンを留めている時だった。

 あ!

 今度ははっきり見えた。
 鏡の中、誠の後ろ――ケージの中のマウスがふわりと滞空時間の長いジャンプをしたのである。今日この研究室には誠が一番早く出勤している。今日はまだ誰もマウスにフロートを与えていないはずなのに……。

 通常フロートは服用後30分でその効果が切れる。昨日フロートを服用させたマウスが今朝までフロートし続けることはあり得ない……。しかも、なんだ……? 今のジャンプは……? ふわりと浮いてふわりと着地した。誠はおかしなジャンプをしてみせたマウスをじっと見つめた。そのマウスはケージの床をチョコマカと動いている。いつもと変わらない様子だ。が、次の瞬間再びそのマウスはふわりと身体を浮かせ、またふわりと着地した。

 風だ!

 振り返って扇風機を見た。扇風機の風が当たるたびにマウスの身体が浮いている。誠は延長コードを伸ばし扇風機をマウスのいるケージに近付け「強風」のボタンを押してみた。その瞬間だった。

 ガシャン!

 大きな音と共にマウスの身体が風に飛ばされケージの側面に叩きつけられた。マウスはそのまま身体が浮いた状態でケージの側面にへばりついている。
 わ! と叫んで慌てて扇風機を止めるとマウスはずるずるとケージの底に落ちピクピクと身体を震わせた。

 何なんだよ、これは……。
 扇風機を右手に持ったまま誠は呆然とそのマウスを見つめ続けた……。


 
             豆鉄砲

 
「今すぐ販売を中止しないと大変なことになります!」
 品川にある三橋製薬本社の会議室で誠は社長の三橋と5人の役員らに対しフロートの副作用について説明していた。聞こえていないはずはないのだが、社長の三橋も役員たちも皆一様に渋い顔をして押し黙っていた。

 信じたくはなかったが、マウスの身体が扇風機の風を受けて飛ばされたのはフロートの副作用によるものとみて間違いなかった。他のマウスを調べてみたところ、同様の症状が複数のマウスから確認出来たからである。

 最初誠は研究所の掃除のおばさんが誠の出勤前にこっそりマウスにフロートを飲ましていたんじゃないか……? とか、前の日にケージの中にたまたま研究室の誰かが落としたフロートをマウスが翌朝見つけて食べてしまっただけなんじゃないか……? など、希望的観測に基づいた偶然のアクシデントを想定した。そうであって欲しかったし、そうじゃなきゃ困ると思った。しかし現実は違った。あらゆる客観的データがこれはフロートの副作用であることを示していた。

 自分はとんでもない薬を発明してしまったのではないか……? 自分は罪に問われるのだろうか……? 自分のせいで多くの人が死んだりするのではないか……? そんな恐ろしい不安が誠を襲った。

 この日から誠はある夢を見るようになった。

 小さい頃家の近くの公園でよくやった缶蹴りの夢だ。「もういいよー」の声を合図に誠は友達のヨシくんやコウジくんを探しに行く。探すのは得意だ。大体ヨシくんが隠れそうなところは見当がつく。すべり台の下だろう。ホラ、やっぱりだ! ヨシくんの靴が見えている。「ヨシくんみっけ」そう言った瞬間すべり台の下にいたヨシくんは巨大なヒグマに変身していた。

「なんで見つけるんだよ!」と逆切れした巨大な「ヨシくんヒグマ」が誠に向かって突進してくる。もの凄いスピードだ。これは大変なことが起きたと思い「コウジくん、コウジくん! 大変だ!」と言っておそらくコウジくんが隠れていると思われるお山のトンネルへ向かって走って行くと今度は巨大なイノシシに変身したコウジくんが「なんで見つけるんだよ!」と逆切れして突進してきた。やはりもの凄いスピードだ。ヤバイ、殺される! そう思ってトイレに逃げ込もうとするとトイレのドアが開きそこから今日は風邪でお休みだったはずのユウジくんが巨大なダチョウに変身して突進してきた。

「なんで見つけるんだよ!」 うわ―、本当に殺される! そう思って公園の出口へ全力で逃げていくと道の向こうからクラスメイトと担任の山口先生が巨大なバッファローの群れに化けて誠に向かって突進してきた。「なんで見つけるんだよ!」、「なんで見つけるんだよ!」もう駄目だ、四方八方から巨大な野生動物が襲ってくる。僕はただ楽しく缶蹴りがやりたかっただけなのに……ごめん、ごめんよ、みんな、見つけてごめん! そう恐怖の叫び声をあげたところで目が覚める――この夢が3日続いた。

 もうあんな悪夢は見たくない。

 そう思った誠はこの恐怖から逃れるにはフロートの副作用の謎を解明するしかないと判断した。この日から再び研究室に泊まり込む日々が続いた。グラドルと一発出来ることを夢見て「グラドッパッ、グラドッパッ」とつぶやきながらフロートを発明した時とは違い、今回誠を突き動かしていたのはこれを解明しないと大変なことになるという恐怖感だった。鬼気迫る様子で研究に没頭する誠を心配した後輩の井上が時々声を掛けに来たが、誠は井上の存在にすら全く気付いていなかった。

 その必死の研究の結果、まだ不十分ではあるがいくつか分かってきたことがある。

 フロートを飲んでいない状態にもかかわらず扇風機の風を受け身体が飛ばされたのはフロートを毎日2年間以上飲み続けたマウスたちだった。そしてこれらのマウスには他のマウスには見られない共通した特徴が見つかった。ガスである。

 マウスの身体の細胞の中に特殊なガスが溜まっていた。さらに調べていくとこのガスは、気圧が低く、高温で、湿度が高い、という3つの条件が揃うと膨張する。これが扇風機の風を受けたマウスの身体が浮き上がった原因だった。

「フロートが発売されて2年が経ちます。既にこのガスがフロートを服用している人間の中にも溜まり始めている可能性がある……」
 ホワイトボードを使いながら誠は役員たちに丁寧に説明した。

「そのガスをなんとか取り除く薬の開発は出来ないのかね」副社長の森田が聞いた。
「勿論取り組んでいます。でもそんなに簡単に発明出来るものではありません。最低でもあと数年はかかるでしょう。それまでにもし事故が起きたら大変なことになります」
「しかしマウスにその症状が現れたからってそんなにすぐ人間にも現れるもんなのかね、人間の身体を浮かすだけのガスが溜まるのはもう何年か先なんじゃないか、だったら――」専務の柳沢が言った。
「そう、その間に新薬を完成させればいい」常務の太田が同調した。

「副作用がいつ発症するか、それはなんとも言えません。しかし可能性がある以上今すぐ事実を公表しない訳にはいかないでしょう」
「しかし君ね、そう簡単に言うけど、今更、副作用がありましたなんて発表したら大変な賠償金払わされることになるよ」
「大体君がこんな薬発明するから……君にだって大きな責任があるんだよ」
 取締役の鈴木と広岡がたたみかけてきた。
「分かってます。僕にも責任がある。だけど今は誰の責任とか言ってる場合じゃない、今すぐ副作用の事実を公表して対処しないと……原発事故と同じです、事が起きてからじゃ遅いんです。これから台風の季節がやってきます。気圧が低く高温で湿度が高いという条件が揃う。相当な数のフローターたちが風に飛ばされる可能性が……そうなったら沢山の死者も出るかもしれません――」

「平林くん、説明はよく分かりました」副社長の森田が誠の話を遮ってきっぱりと言った。「しかしここから先は経営判断だ。我々の仕事だ。君の出る幕じゃない」
 役員たちが皆頷いている。お前みたいな若造が偉そうに口出しするんじゃない、彼らの目はそう語っていた。

 誠がフロートの副作用の事実を突き止めたのは約一ケ月前だった。今すぐ発売中止の決断をして欲しい、社長や幹部に会わせて欲しい、いかに深刻な事態にあるかを自分の口から直接説明したい、そう上司に訴えたが、今日のこの会議をセッティングしてもらうだけで一ケ月かかった。この一ケ月、幹部らが全力で取り組んでいたのはフロートの副作用の情報が外部に漏れるのを防ぐことだった。誠の研究室にも監視の為、取締役の鈴木と広岡が派遣されてきて、毎日かわりばんこで研究室の隅で怖い顔をして座っていた。

 人種が違う。自分と、目の前にいるこの役員という肩書のついた爺さんたちとは……誠はそう思った。不都合な事実を隠蔽したいという気持ちはよく分かる。誠自身も研究室で実験中誤ってボヤを起こしてしまったことを後輩の井上と力をあわせて必死で隠蔽したことがあるし、このフロートという変てこな薬を偶然発明してしまい初めて空を飛ぶマウスを見た時には、やはりその事実を隠蔽しようとした。

 でも、もしかしたらたくさんの人の命が失われるかもしれないという薬の副作用の事実まで隠蔽しようとは絶対に思わない。ことの重大性が違い過ぎる。だけど今目の前にいる爺さんたちは何とかして副作用の事実を隠蔽しようと思っている。重大な事故が起きる可能性があるということを想像する力が決定的に欠けているのか、それよりも保身の気持ちが上回ってしまうのか、思考停止状態に陥って時間が経つうちに自然と物事が解決してくれたらいいなという希望的観測にすがっているのか、よく分からないがこの役員という名の爺さんたちが自分とはまったく違う考えを持つ理解不能な人種だということが今日この場ではっきりと分かった。彼らに説得は通じない。何を言っても無駄だろう。

「わかりました。ではあとの判断は皆さまにお任せいたします。僕はこれで失礼いたします」
 そう言って誠はスタスタとドアに向かって歩いて行った。

 当然だ、という顔をしている爺さんたち、生意気言って無駄な時間使わせよって、と言いたげな表情で小さな舌打ちをする爺さんたちの顔が流れていく。この事なかれ主義の爺さんたちの頭を一つずつ金属バットでぶちのめしてやりたい、そんな衝動が心の中で小さな爆発を起こした。

 ドアの前で立ち止まる。そしてクルッと向き直って誠は言い放った。
「ただし、もしも一週間以内に事実の公表がない場合は僕が記者会見を開いてマスコミにこの副作用の事実を訴えさせてもらいます」

「…………」

 鳩が豆鉄砲をくらったような、とはこういう顔を言うのだろう。
 役員の爺さんたちは皆、目の前にいるこの若造は一体何を言い出したのだろう? そんな顔をしている。爺さんたちの錆び付いた頭では、今誠が発した言葉を理解するには数十秒ほど時間がかかるようだ。しかし数十秒後には誠の予想した以上の罵倒の数々が飛んできた。

「オイ待てこの坊主」、「バカなことを言うんじゃないよ」、「お前の人生めちゃくちゃにしてやってもいいんだぞ」、「このまま生きて帰れると思うなよ」

 およそ東証一部上場企業の役員会とは思えない発言の数々を背中に浴びながら誠は会議室を後にした。

               落合監督

 研究員の平林誠が出て行ってから30分が経っても会議室では役員らの彼に対する罵詈雑言が続いていた。そんな役員たちの言葉は無視して社長の三橋は窓の外、青空の中に引かれた白い一筋の飛行機雲を眺めていた。

 ここまで順調にいっていたのに……まさか最後にこんな落とし穴が待っているとは……。

 何とかヒット商品を出さなければ――そう思って必死でもがいていた日々を三橋は思い出していた。金は持っているが親の跡を継いだだけの才能の無いボンボン社長――何処へ行っても自分はその程度の男としか見られていなかった。悔しいが世間の目は正しかった。自分に才能がないことは自分でも認めざるを得なかった。

 しかし、しかしである。そんなレッテルをフロート発売によって自分は見事に覆した。運が良かっただけと言われればそうかもしれないが、なかなか自分もよく頑張ったと思う。「フローター」という言葉が流行語大賞に選ばれ表彰された時には人生で初めて自分で自分を褒めてあげたいと思った。それまでの自分で自分を慰めていた日々とは大違いだ。念願だった「情熱大陸」にも出演したし、合コンに行っても銀座のクラブに行ってもやたらモテるようになった。でもまだこれからだ。これから俺はもっともっと稼いで更にもう一段レベルアップしたモテ男になるんだ。そして孫正義やイーロン・マスクやジェフ・ベゾスと肩を並べるような世界的VIPになってドバイの高級ホテルのスイートルームで金髪美女とやりまくるんだ! 三橋はそう考えていた。

 発売から2年、フロートは相変わらず大ヒットしていた。しかしそのために巨額の宣伝費を投じたのも事実だった。大きな利益を上げるのはこれからだ。目下のところ三橋が狙っていたのはフロートをさらに進化させた「フロートα」の発売と、海外展開だった。

 今のところフロートの販売が許可されていたのは日本だけで、最近ようやく中国、ブラジル、ロシア、インドといった新興国で販売の許可が下り、来年からこれらの国への販売に向けて量産体制を作るために既に2千億円かけて鹿児島に新しい工場を建設していた。これで規制の厳しいEUとアメリカでも販売の許可が下りれば三橋製薬は一気に世界一の製薬会社になれるかもしれない。銀行はジャンジャン金を貸してくれた。

 それがこの段階になって、実はフロートに重大な副作用がありました、なんてことになったら――そんなことは絶対に想像したくなかった。断じて認める訳にいかなかった。もしそんなことになれば株価は暴落するだろう。おそらく会社も潰れる。株主らに訴訟を起こされることは間違いない。俺は身ぐるみ剥がされるのだろうか……それだけで済むのか? 三橋は自分と同世代の転落したIT長者たちの末路を幾つも見てきた。中には刑務所に送られた奴もいた。刑務所だけには入りたくない。

 刑務所にはゲイがいっぱいいる。そんなイメージが三橋の頭にはあった。ゲイにカマを掘られるのはゴメンだ。俺はドバイの高級ホテルで金髪美女とやりまくる予定だったんだぞ、それがなんで刑務所でゲイにカマを掘られなきゃならないんだ! いったい俺が何をしたって言うんだ! 明るく楽しい世の中を作るために思いついた薬なんだ。みんなだって喜んでいたじゃないか! たとえ一時でも幸せだったじゃないか! そんな先のことまで全てを見通せる人間なんていやしない、神様じゃないんだから、俺は悪くない……。刑務所でカマを掘られるほど悪いことはしていない。俺は悪くない……。

「社長、社長!」

 ふと気が付くと役員たちがこちらを見て三橋の意見を求めていた。
「いかがいたしましょうか?」副社長の森田が聞いてきた。
「ああ、そうだな……」
 いかがいたしましょうかって言われたってそんなこと俺だって分かんねーよ!

 そんなことは口が裂けても言えない。そんなこと言ったらまた才能の無いボンボン社長のレッテルを貼られてしまう。しかし三橋は慌てたそぶりを見せなかった。こういう状況で中身のないバカがそんなそぶりをみせたら余計にバカっぽく見えてしまうことをこれまでの人生経験から三橋は熟知していた。こういう時はどんなピンチでも表情を変えなかった中日ドラゴンズの元監督、落合さんを見習って冷静であることを装わなければならない。そう思って三橋は無表情を装った。

 落合監督は凄かった。選手がエラーをしても、ホームランを打っても、完全試合目前のピッチャーを降板させる時も……、どんな時も無表情――ポーカーフェイスだった。あのポーカーフェイスを見ると、選手もファンも解説者も、きっと落合監督は深い考えがあってこういう決断に至ったのだろうと勝手に推測するのだ。

 才能のない、中身のない自分に必要なのはあのポーカーフェイスだ。そう思って三橋は社長就任直後よく自分の部屋で鏡を見ながらポーカーフェイスの練習をした。もちろん落合監督は有能な監督だ。才能のない俺とは違う。才能のない俺が才能がある経営者になろうとしても無理だ。でもあのポーカーフェイスなら真似できる。そう思って毎日練習をした。

 こういうことに関しては三橋には天性の才能があった。毎日毎日鏡の前でひたすら練習をすると、ひと月ほどで落合監督ばりの見事なポーカーフェイスが出来るようになった。うわッ、やっべ、どーしよ? と心の中では思いつつも、それを表情には出さず冷静さを装うことが出来た。これが出来れば、うちの社長はどんな時でもどっしりしていてうろたえない人だ、と周りは勝手にいいように解釈してくれる。

 得意のポーカーフェイスを作りながら、やべーよ、やべーよ、どうする、どーする? と頭の中で三橋は思考を巡らせていた。とりあえずまず最初にやらなきゃいけないことは何だろう? 早く副作用を抑える薬を発明しないと。それには発明者本人であるアイツにやらせるのが一番だが、アイツはそれまで黙っていられるだろうか……?

 いや、無理だ。多分、いや、おそらく絶対に無理だ、さっきのあいつの目、あれは仮面ライダーの目だ。完全に自分がヒーローだと思い込んでる奴の目だ。正義に向かって突っ走ってしまう目だ。ああなったらもう手遅れだ。ちくしょー、なんて融通の利かない頑固な奴なんだ! アイツこそカマを掘られるべきだ。そうだ。でっかいチンコをブチ込まれるべきだ。

 まあそんなことは置いといて、そうなると何から手をつけなきゃいけないんだろう……? 三橋は考えた。一番避けなければいけないことははっきりしている。そう、副作用の事実が世間にばれることだ。となるとアイツは切らなくちゃならない。でもアイツ以上の適任者がいるだろうか……? いる……きっといる。世界を探せば……。中国には14億人、インドには13億人もいるんだ。どっかにいるはずだ、優秀な奴が。そしてその副作用を抑える薬が出来るまでアイツを消さなきゃならない。

 消す……?

 まさか何言ってんだ俺は……まさか殺人なんか出来る訳ない、俺がそんなことするわけない。いや、しかし……。

 そうだ。消すっていうのは別に命を奪うってことじゃないんだ、要するにアイツが何も喋らなきゃいいんだ、アイツが言ったことを世間の誰も信用しない状況にすればいいんだ。俺は悪くない……。そりゃアイツの人生にとっては不幸なことかもしれない。でも会社全体の為には一人くらいの犠牲はやむを得ないことだし、幸いアイツはひとり者で家庭はないし、俺みたいな組織のトップに立つ人間はちっぽけな感傷によって決断を左右させられるようなことがあってはならないし、要するに1万2千人いる三橋製薬の社員ひとりひとりの生活を守るために俺は心を鬼にして正しい決断をしなきゃならないということなんだ。俺は悪くない……俺は悪くない……。三橋はそう自分に言い聞かせ、必死に冷静さを装いながら言った。

「手を打つんだ……アイツを処分するんだ」

 その言葉を発した時の三橋の表情は、9回までパーフェクトピッチングを続けていたピッチャーの交代を告げた時の落合監督のように、凍りつくほど冷徹な姿として役員たちの目に焼き付いた。

 
              マスコミ

 三橋製薬の会議室で役員の爺さんたちに啖呵を切ってから6日経ったその日、誠は朝からテレビ局を回っていた。

 どうせ三橋製薬は何もしないだろう。誠はそう確信していた。あの役員の爺さんたちの頭にあるのは保身と決断の先送りくらいなものだ。フロートの副作用の事実を公表し市場に出回っている全てのフロートを回収する。そうなれば莫大な費用がかかる。三橋製薬は潰れる可能性が高い。そんな決断をあの爺さんたちが出来るとは思えなかった。だったら自分で動くしかない。そう考え誠はここ数日テレビ局や新聞社を回っていたのだが、マスコミ各社の対応はどれもこれも誠を失望させるものだった。
 
「うーん困ったねー。とりあえずうちの娘に、もうフロートは飲むなって言っとかなきゃなー……」

 赤坂にあるテレビ毎日の会議室。朝のニュース番組「生生」の長田というプロデューサーは誠の話を聞いてそう言った。

 青のストライプシャツにベージュのチノパン。さすがテレビ局のプロデューサーだ。素朴なコーディネイトだがとても洗練されたファッションに見えた。元々はバラエティ番組の人気司会者だった五十嵐貫太がキャスターを務めるこの「生生」という番組は、フロート発売直後誠が勤める三橋製薬の研究室に取材に来たことがあって、その時の縁で誠はこの長田と面会の約束をした。

「そんなことより一刻も早くこの副作用の事実を放送してもらえませんか」誠は言った。
「でもあれでしょ、今すぐ起きるってわけでもないんでしょう? その副作用っていうのは?」長田はメガネのレンズを拭きながらそう言った。

「いつ起きてもおかしくありません。だから国民に注意喚起しないと」
「そうは言ってもねー、三橋製薬さんうちの大スポンサーだからねー……ちょっと難しいなー……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。もし明日大きな台風や竜巻が来たら大きな被害が出るかもしれないんですよ」
「うーん……でもまだ政府から何もお達しがないから」
「そんなこと関係ないでしょ。危険があるならそれを伝えるのが報道の責任でしょ」
「先生はそう言うけど、このご時世大変なんですよスポンサーとんの」長田はちょっと見下したような表情で誠を見た。
「え?」
「先生、僕らサラリーマンなんですよ。余計なケンカして組織からはじかれたら一生戻ってこれないから」
「……」
 
 どのテレビ局も新聞社も似たような対応だった。まさかそんな大きな事故が起きる訳ないという想像力の欠如と大事なスポンサーを手放したくないという目先の事情によるものなのだろう。反応は一様に鈍かった。

 ハーッ。

 帰りの電車の中で誠は日本のマスコミのだらしなさに溜め息をついた。
いつも偉そうに青臭い正論を振りかざし、我々は悪を倒す正義の味方だ! みたいな顔をしておきながらフロートの副作用の問題に関してはどいつもこいつも及び腰だ。だらしない奴らだ、まったく……。疲労感と後味の悪さだけが残った。

 ああ、せめて座って帰りたかったなー。

 ちょうど帰宅ラッシュの時間帯だったため中央線の車内は結構な混雑で、誠は車内のちょうど真ん中くらいのところで吊革につかまりながら電車に揺られているのだが、さっきから隣のオッサンが広げて読んでいる東スポが時々パサパサと顔に当たって邪魔くさい。気を紛らわすために中刷り広告に目をやると週刊プレイボーイの中刷りが目に飛び込んできた。「衝撃のGカップ爆弾! グラビア界のエロリスト!」グラビアアイドルの手ブラ写真が誠の目を釘付けにした。

「空を飛べる薬を発明したらグラビアアイドルと一発やらせてやる」という社長の三橋との約束で、元「ミラクルガールズ」の一条レナちゃんとホテルでHした時の事を思い出した。あの頃はよかったなー。フロートの発明者として注目されテレビにも出たし、電車に乗れば女子高生たちが誠を指差して「あの人もしかして……」と噂をするのが聞こえ、キャバクラに行っても「フロート発明した人だって、凄―い」とチヤホヤされたし、誠にとってまさに栄光の日々だった。

あの頃はよかった……。つり革につかまり電車に揺られながらそんなことを考えている時だった。

「助けてください!」
 声が聞こえた。

 誠の後ろにいた黒いキャミソールを着た20歳前後の女子大生らしき女の子が泣きそうな顔をして騒いでいる。

どうしたのだろう? 

「この人、痴漢です!」女子大生は右手を上げ人差し指を突き出した。きっとネイルサロンに通っている子なのだろう。金色でキラキラしていてとても綺麗なその人差し指のとがった爪は……誠の顔に向かって伸びていた。

「この人です、助けてください!」
「は?」

 何を言ってるんだろうこの子は……? 状況を理解しようとしながらも誠は女子大生の金色のキラキラ光るネイルを見ながらこれって一つやってもらうのにいくらくらいかかるのかな? などと考えていた。と、その瞬間後ろから強い力で腕をつかまれた。

「何すんだよ!」振り返ってみると20代のサラリーマンが鋭い目つきで睨みながら誠の腕を捕まえている。
「おい、警察行くぞ」サラリーマンは言った。

「は? 何言ってんだよ、俺じゃないって、おい君、いい加減な事言うなよ、俺じゃないだろ、俺はここでこうやって立ってただけなんだから――」

 誠は右手をズボンのポケットの中に、左手を自分の腰の辺りにやり数十秒前の自分の姿勢を再現しながら反論したがそれを遮るように
「私も見ました、この人です!」右隣にいたOLが人差し指を誠に向かって突き出した。彼女はピンク色のマニキュアをしていた。
「おい、ちょっと待てよ、出鱈目言うなよ――」突き出されたピンク色のマニキュアの指を見ながら誠が反論していると、

「私も見ました、この人でした」斜め後ろの太ったおばさんが誠に向かって指を突き出した。おばさんの指には絆創膏が巻かれていた。
「この人です!」左前の男子学生の、先っぽに赤いマジックの跡がついた指が誠を差した。
「この人です!」座席に座っていた老人のしわくちゃな指も誠を差した。
誠の周りの乗客の指が次から次へと誠に向かって突き出された。

「こいつだ!」、「この人です!」、「この人でした!」……。
「おい、なんだよ、お前ら……」

 Gカップのグラビアアイドルの手ブラ写真が載った中刷り広告の下で、誠は自分に向かって差し出されたいくつもの人差し指を見ながらひたすら途方に暮れた。

 
               「山さん」

 
 立川警察署の取調室の中で誠は二人の刑事と対峙していた。

 まさか自分が昔テレビドラマ「太陽に吠えろ」で観たようなワンシーンを実際に体験することになるとは……。誠の取り調べに当たったのは、一人は「太陽に吠えろ」で言うところの「ジーパン」のような威勢のいい若い刑事で、もう一人は「山さん」のような落ち着いた年配の刑事だった。

 二週間に渡って否認を続けていた誠に対しジーパンはバンバン机を叩いて「お前いい加減にしろよ!」と言って自白を迫り、山さんはいつも落ち着き払った表情で「お前さんよく頑張るな」と感心してくれたが、誠にしてみればやっていないのだから当然だった。

 しかし状況は誠にとって完全に不利だった。何しろ複数の乗客が揃いも揃って誠が犯人だと証言している。それでも誠は否認を続け、自分はあのフロートの発明者であること、そしてフロートには重大な副作用があり自分はその事実を訴えようとしていたから三橋製薬の奴らに嵌められた可能性があることなどを延々とぶちまけた。山さんは黙って聞いていた。

 逮捕されて5日目に面会に来た研究室の後輩の井上からどうやら三橋製薬は誠の解雇を決めたようだと告げられた。覚悟していたことなのでそれに関して驚きはなかったが精神的に一番参ったのは富山から出て来た両親と面会した時だった。

 母親は終始泣きながら事件については全く触れず誠の身体を気遣ってくれたのだが、親父は典型的な田舎者で警察は絶対正しいと考えているような人間だったので、どんなに誠がやっていないんだと説明しても「正直に全部話しちまえ」、「一人身なんだから溜まるのもしょーがねー」などと、はなから誠が痴漢をしたのを信じて疑わず、終いには「俺も若い頃北陸本線で痴漢したことがある」と想定外の告白をされた時は一番ショックだった。

 逮捕から18日目。一向に罪を認めようとしない誠に対して山さんがゆっくりと静かな口調で喋り出した。
「おい、兄ちゃん……今から俺はひとり言を言う。もしよかったらそこで黙って聞いといてくれ……」そう言って山さんはまるで「太陽に吠えろ」のワンシーンかのようにゆっくりと椅子から立ち上がり、誠に背を向けて再び話し始めた。

「あんたの言っていること、会社に嵌められたってことが本当かどうかは俺には分からない。俺はちっぽけな警察署のちっぽけなノンキャリの刑事だからな。でももしあんたの言っていることが本当だとしたら俺は心から同情する。ただ一つ言えることはでっかい組織に逆らってもいいことはないってことだ。警察って組織に居るとそれがよく分かる。俺は今年60になる。これはあんたよりも長く世の中を経験してる人間からの忠告だ。どんなに正論吐いても大きな流れに逆らったら駄目なんだ。流れっていうのは変えられないんだよ。どうしても流れを変えたいんだったら仲間を作ることだ。仲間がいないんだったらその仲間が出来るまでじっと待つことだ。今は不本意でもじっと耐えて待つんだ。いつかチャンスが来るさ。もちろんこれはあんたの人生だ。ここから先はあんたの判断だけどな、でも俺ならそうする……ここで意地張っても勝ち目はない……」

 誠は黙って聞いていた。
 山さんもそれ以上は何も言わなかった。

 その翌日、誠は「やっぱり僕がやりました」と自供した……。

#創作大賞2023  

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