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イ・チ・モ・ツ  第10話

                1、
 
 時刻はもうすぐ十一時になろうとしていますが依然として開票作業は続い
 ております。先程からお伝えしているように新潟県、山形県、秋田県の一
 部の開票所では大雪の影響で開票作業が大幅に遅れており、開票が全て終
 了するのは明日の朝になりそうだとの情報が届いています。そして出口調
 査による予測も、依然としてどちらが勝つのか分からない状況です。下平
 さん、これはもう朝まで、最後の一票が開かれるまで結果は分からないと
 いうことですね? はい、残念ながらこの番組の時間内に結果をお伝えす
 ることは出来ませんでしたが、日本初の国民投票、それだけ接戦、大接戦
 になっているということですね。あのイチモツの行方はいったいどうなる
 のか? 明日未明にはその結果が出ます。それでは。
 
 国民投票開票速報スペシャル番組の生放送を終えた今日子は汐留テレビ本社ビルの屋上で夜空を眺めていた。
 屋上からはライトアップされた東京タワーが見える。いよいよだ。この夜が明けるとあのイチモツの運命が決まる……。

 夜空にそびえる東京タワーを見ていると最初にあのイチモツをリポートした時のことが浮かんできた。あのイチモツを目にした時、これは凄いことが起きた、これから凄いことが起きる……とは感じたが、まさかここまで、日本中を巻き込んでの大騒ぎになるとは思わなかった。

 九月に国会前で起きたイチモツ支持派と反イチモツ派の衝突で死者が出て以降、国民投票実施を求める世論の盛り上がりは頂点に達し、当初は国民投票実施に消極的と見られていた榎本総理が一転して国民投票の実施を決めた。
 世論は真っ二つに割れた。イチモツ支持か、反イチモツか、日本中でこの二つの勢力の対立が起こった。仲の良かった夫婦がこの問題でケンカしたのをきっかけに破局にいたる「イチモツ離婚」という現象や、反イチモツ派の会社員がイチモツ支持派の上司から嫌がらせを受けたり、理不尽な人事異動を受ける「イチモツハラスメント」、通称「イチハラ」と呼ばれる現象まで起きた。

 日本中が一つの問題でこれほどまでに大論争になったのは、そして自分たちでその問題に結論を出すのは日本の歴史上初めてのことではないか――ある評論家はそう指摘した。明治維新は一般国民が政治参加して成し遂げたものではなかったし、戦後日本は憲法さえもアメリカに押し付けられたし、戦後の日本の政治は結局のところ民自党と官僚にお任せだった。そういう意味では今回の国民投票によって日本は初めて成熟した民主国家になるのかもしれない――評論家はそう解説した。

 この約二カ月間、町のパン屋さんも、スーパーで働くパートのおばさんも、丸の内のサラリーマンもOLも、宅配便のお兄さんも、公園で子供を遊ばせているママさんたちも、キャバクラで働くおねえさんも、ゲートボールを楽しむおじいちゃんおばあちゃんも、選挙権のない小学生や中学生や高校生も……みんなが真剣にこの問題を考え、電車の中でも、定食屋でも、スターバックスの店内でも、病院の待合室でも……町の至る所で侃々諤々の議論がなされた。

 政治評論家、軍事評論家、医学博士や物理学の専門家、政治家、作家、弁護士、映画監督、俳優、ミュージシャン……この間様々な分野の人々がテレビやラジオに出演し、様々な角度から様々な意見を言ったが、その中で今日子が一番印象に残ったのは今日子の担当する「特捜スクープ最前線!」のコーナーにゲスト出演した杉下守という背の低い年老いた心理学者が語った次のような話だった。

 
 女性の方は意外とご存じない方も多いと思いますがね、男子トイレに入る 
 とね、ええ、そう、公衆トイレです、男子トイレの小便器には大抵「もう
 一歩前へ」って注意書きがあるんですよ。ええ、そうですそうです、これ
 はおしっこをね、床にたらさないようにするために書かれているんですが
 ね、ひどい所なんかはね「一歩前、君のはそんなに長くない」なんてちょ
 っとした毒の利いた川柳なんかが書かれている所もあってね、ええ、面白
 いでしょ、他にもね、「急ぐとも 心静かに手を添えて 外にこぼすな 
 松茸の露」なんて歌もあってね、これなんか正岡子規が作った歌だなんて
 説もあってね、まあ、これは余談ですけどね、まあとにかくいろんな注意
 書きがある訳ね、男子トイレには、ところがね、意外とね、これがあんま
 り効果が無いらしいんですよ、うん、そう、どうもね、男性っていうのは
 「もう一歩前へ」なんて言われるとね、何を言っているんだと、俺のはそ
 んなに短くないぞ、なんて思ったりしちゃってね、前に出なかったりね、
 それどころか逆に一歩下がっちゃったりしてね、そんな人もいるらしいん
 ですね。これって女性から見るとバッカじゃないの? って思うかもしれ
 ませんがね、やっぱり私これは男性の本能に備わったものじゃないかと思
 うんですね。やっぱり自分のモノは大きくあってほしい、長くあってほし
 い、決して小さい、短いと認めたくない、ましてや他人にそのことを指摘
 されるなんてとんでもない、とね。だからやっぱりそういう男性の深層心
 理がね、あのイチモツに対する姿勢にも現れているような気がして
 ね……、うん、やっぱりこれはね、男のロマンと言っちゃ大袈裟だけど
 も、とにかく長く長く伸ばしたい、大きく大きく伸びて欲しいってね、い
 やいや、笑ってるけども、やっぱりね、そういうロマンがね、どこか男の
 深層心理にあるような気がするんだよね……、うん、だからそういう大き
 なロマンの前ではね、外交的な問題とかね、少子化の問題とか、細かいこ
 とはね、細かいことって言ったら怒られちゃうけど、そういう理屈っぽい 
 ことはね、ぜーんぶ後回しになっちゃうのよ――

 
 イチモツを長く長く伸ばすことが男のロマンなのかどうか――自分は女だから知る由もない。が、なぜか今日子にはこの心理学者の意見がストンと腑に落ちた。とても真理を突いているような気がした。

 確かに男の人は女から見るとなんでそんなくだらないことに? と思うようなポイントで見栄を張ったり、意地を張ったり、熱くなったりする。
 もちろん男性の中にも反イチモツ派の人は大勢いるし、女性の中にもイチモツ支持の人がいる。だから一概には言えないのだが、男性女性関係なく、ちょっと攻撃的なとこがあって、めんどくさがり屋で、マイペースで、小さなことはこだわらない――といったようないわゆる男性的性格を持った人はイチモツ支持に回っていたような気がする。

 とにもかくにもこうした経緯を経て今日、十二月十四日、日曜日、あのイチモツを切断すべきか存続すべきかを問う日本初の国民投票が行われた。
 投票率は非常に高く、午後六時の時点で七〇%を超え最終的には八五%を超えると予想されている。

 今日子自身も前日の土曜日に区役所に期日前投票をしに行って、投票用紙に記入する寸前まで悩んだ末にイチモツ存続の方に一票を入れた。
 今日子の気持ちの中では、自然と伸び始めたあのイチモツを無理矢理切断するというのは何か自然の摂理に反している事のように思えたからだ。

 かといって、イチモツを存続させることが日本にとっていいことだ、ときっぱり断言することなど出来ない。妊娠件数が激減している事はただでさえ少子高齢化が進んでいるこの国にとって大問題だし、このままイチモツが領土を拡大し続ければ中国との間で戦争が起きる可能性だって十分ある。
 ただ、多分自分は知りたいのだと思う。あのイチモツがこの先どうなるのか? その未来と、あのイチモツの正体を……。

 屋上にいると耳に、頬に、足首に、十二月の夜の冷たい空気を感じる。でもなんだか気持ちいい。冷たい空気は都会の汚れた空気を消毒してくれているように感じる。
 この屋上からは西に東京タワーが、北にスカイツリーが見える。今日子には新旧の東京のシンボルがその高さを競い合っているかのように見えた。あの背の低い年老いた心理学者が言っていたことを思い出した。

 男のロマンか……、バカよねーホント君たちは……。

 誰もいない屋上で夜空を眺めながら今日子は両手を上にあげ大きなあくびをした。
 
 
                 2、
 

 その夜、岡山剛志は代々木公園野外音楽堂前の広場にいた。
 防寒対策はバッチリだ。ニット帽をかぶりモンクレーのダウンジャケットを着てユニクロのヒートテックタイツとヒートデニムをはいて来た。アウトドア用の折り畳み椅子に座り膝には毛布を掛けている。

 広場には千人、いや二千人以上いるだろうか、国民投票の結果を待ち侘びる大勢の「反イチモツ派」の人々が集まっていた。
 この日日本初の国民投票が行われ、勝負は大接戦となっていた。出口調査をもとにした予測でも勝負の行方は開票が終了する明日の朝まで分からないと報じられていた。寒い夜だった。毛布を被っている者。ポットに入れた暖かいコーヒーを飲んでいる者、使い捨てカイロを手で揉んでいる者。そんな人々に混じって剛志はiパッドで最新の開票情報をチェックしていた。

 剛志が反イチモツ派のデモに参加するようになったのはちょうど今から二カ月くらい前、国民投票の実施が国会で決まった頃からだった。今まで大きなデモや集会に参加したことなど一度も無かったし、そんなものはダサくてカッコ悪い、自分とは無縁のものだと思って遠ざけていたが、テレビのニュースを見ているうちに自分も何か行動を起こさないと、という気持ちを抑えきれなくなってデモに参加するようになった。

 今日もこの広場に来て初対面の同志たちとハイタッチをし、笑顔で挨拶を交わし、握手をし、腕を組み、一緒にシュプレヒコールをあげたが、剛志が「イチモツ切断」を訴える理由はここにいる他の誰とも違っていた。
 剛志が「イチモツ切断」を願う理由は、妊娠件数の減少による日本の少子化を食い止める為でもなく、日本が戦前の領土拡大主義へ回帰していくことに対し懸念を持ったからでもなく、中国や韓国との関係悪化を心配している訳でもなく、ただただ自分の愛する竹内伸一という男を自分のそばに取り戻したい、その気持ちからだった。

 イチモツが巨大化したあの日以来、伸一は本当に遠いところに行ってしまった。剛志は取り戻したかった。毎朝眠そうな顔で出社してくる伸一を。昼休み牛丼を食べる時ボロボロとご飯をこぼしてシャツに染みをつけたりする伸一を。仕事中こっそりヤングマガジンのグラビアを食い入るように見ていたのを上司に怒られて舌を出している伸一を……。剛志は取り戻したかった。自分の元に伸一を取り戻し「お帰り」と言って強く抱き締めて思い切り舌を絡めたキスがしたかった。

 もちろんイチモツを切断することで伸一の生命が危険にさらされるようなことだけはあってはならない。しかし現代の医学ではそのような心配はほとんどないだろうというのが専門家たちの一致した意見であった。だったら一刻も早く元通り自分の手の届くところに戻ってきて欲しい――それが剛志の願いだった。

「みなさんこんばんは!」
 リーダー格の男がステージの上に立ち喋り出した。
「いやー、今日はみなさんご苦労様です。こんな寒い中集まるなんて本当にね、みなさん物好きですよね」
 参加者から笑いが起こる。

「いやいや本当に皆さんは素晴らしい。ところでみなさん、こんな寒い中凍死しないようにみんなで一緒に歌を歌いたいと思うんですがどうでしょう? ご覧の通りここには若い方、あ、お子さんもいらっしゃいますよね、ボクもう眠いでしょう、それからお年を召した方もいらっしゃる、ええ、え? 七十八? みなさんどうですか? あのお母さん七十八歳ですって、とてもそんなふうには見えないですよね、どう見ても七十七歳ぐらいです。まあ、ここであいみょんの『マリーゴールド』を歌いましょう! なんて言っても御年輩の方々はキョトンとしちゃいますんで、若い方も若くない方もみんなが知っている曲、しかも希望に満ちた曲、ということで坂本九さんの『見上げてごらん夜の星を』はどうでしょう?」

 参加者たちから拍手が起こり、リーダー格の男の指揮の元『見上げてごらん夜の星を』の大合唱が始まった。21世紀のこのハイテクの時代に伴奏もカラオケもない、アカペラで合唱だ。でもそれがまたいい。都会にありながら都会の喧騒から距離を置くこの代々木公園の静かな雰囲気とマッチしている。剛志も白い息を吐きながらみんなと一緒に歌った。
 
  見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が
  ささやかな幸せをうたってる
  見上げてごらん夜の星を ボクらのように名もない星が
  ささやかな幸せを祈ってる
 
 歌いながら涙が出てきた。周りにも泣いている女の子がいた。彼女は何を思って泣いているのだろう? 
 
  手をつなごうボクと おいかけよう夢を
  二人なら苦しくなんてないさ
 
 伸一を自分の元に取り戻したい。この気持ちは遠く遠く離れた石垣島に居る伸一のもとに届いているだろうか? 今この時、伸一もこの夜空を眺めているだろうか? たまには自分のことを思い出してくれたりするのだろうか……?

 入社して間もない頃、会社のみんなと飲みに行った帰り終電が無くなって帰れなくなった伸一が、お前んとこ泊めてくれる? と言って当時剛志が住んでいた高田馬場のアパートに泊まりに来たことがある。剛志はその夜のことを思い出していた。
 狭い部屋で二人布団を並べて寝ながら、「まだ右も左も分からなくて不安ばっかだけどさー、まあお互い頑張ろうな……」伸一はそう言ってくれた。伸一はすぐいびきをかいて寝てしまったが、剛志は一晩中眠れず、ずっと伸一の寝顔を見つめていた――。
 
  見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が
  ささやかな幸せをうたってる
 
 すやすやと眠るあの夜の伸一の寝顔を思い出しながら、剛志は『見上げてごらん夜の星を』を歌った。
 

 
                3、
 

 吉村太一は夜の靖国神社の境内でイチモツ支持派の人々とともに過ごしていた。
 凍えるほどの寒さにもかかわらず靖国神社には、ぱっと見千人を超えるイチモツ支持派の人々が集まり、おでんやたこ焼きや焼きそばを売る出店が並び、誰が用意したのか分からないが甘酒が無料でふるまわれていた。
 国民投票の結果はまだ出ていない。ニュースによると相当もつれているようで結果が判明するのはどうやら翌朝になりそう、ということで、今は皆時間をもてあましてスマホをいじったり本を読んだり夜食を食べたり仮眠をとったりしてその来たるべき瞬間に備えていた。

 境内に設置された大きなテレビから「みーあーげてーごらんーよるのーほーしをー」という歌声が聞こえてきた。反イチモツ派の連中が歌っているらしい。テレビのニュースでリポーターが伝えていた。画面には『見上げてごらん夜の星を』を歌う反イチモツ派の奴らの顔が映し出された。

「ケッ、あいつら軟弱な歌歌いやがってよ……」
 誰かが言って他のみんなも同調した。
「あいつらのやることってさ、なんか気に障るんだよな……」
 また別の誰かが言ってみんなが同調する。
 太一は熱い甘酒を啜りながらその様子を静かに見つめていた。

 少し前の太一だったら何の迷いもなくその意見に同調していただろう。しかし太一の心境は三カ月前のあの国会前の衝突事件以来大きく変化していた。目の前で起きたあの流血事件は太一の人生観を変えた。

 これまで太一はバイオレンスに憧れていた。昔NHKでやっていた七十年安保闘争をテーマにした「戦後五〇年その時日本は」というドキュメンタリーで観たあの映像――火炎瓶を投げる若者たち……。警官隊に投石する男たち……。ああいうバイオレンスに太一は漠然とした憧れをもっていた。それに対し平和を叫ぶ連中には軟弱なイメージがあった。ジョンレノン、坂本龍一、大江健三郎、宮崎駿、朝日新聞……。左翼=なよなよした奴ら――そんなイメージがあった。

 確かに安保闘争を起こした連中も左翼ではあったが、太一の中ではそんなことはどうでもよかった。バイオレンス=右翼。なよなよ=左翼。太一の頭の中ではそういう整理だった。元来人間の本能には理性では押さえられない暴力的な部分が存在するものだ。それを認めずいつでもどこでもお題目のように「平和、平和」と叫ぶ「なよなよ」は生理的に受け付けなかった。「なよなよ」は太一にとって嫌悪すべき敵だった。

 しかしあの日国会前の衝突事件で目撃した、太一のヘルメットを握って敵に突進して行ったロン毛の父親の姿。あの怒りに満ちた目。あれは太一が今まで左翼の奴らに対して抱いていた「なよなよ」のイメージとはまったく違った。

 事件の翌日、太一はテレビのニュースで、あの父親が諸積恒美という名前であること、諸積恒美がイチモツ支持派の連中のリンチを受けて死んだこと、また、諸積恒美がヘルメットで殴った相手も死亡したこと……などを知った。
 あの時、自分は怖くなって逃げ出した。自分が「なよなよ」と決めつけていた左翼の中にあの諸積恒美はいた。諸積恒美は、バイオレンスに憧れ「なよなよ」を蔑んできた自分より遥かに男らしかった。カッコ良かった。気合が入っていた。

 確かに反イチモツ派の連中は大抵こじゃれていて「なよなよ感」を漂わせている。奴らの着ているこじゃれた洋服は気に障る。ふわふわのニット帽、やけに長いマフラー、冬なのに短パンをはいてその下にカラフルなタイツを履いている奴、暑いんだか寒いんだかはっきりしろ! と言いたくなる。奴らはこじゃれたファッションに身を包み、デモでもなんでもみんなこじゃれた感じにしてしまう。そして向うには女子が多い。そこも気に障る。しかも結構かわいい子が多い。どうせその女を目当てに参加している男も多いんだろう。軽い奴ら、フワフワした奴らばかりだ。

 ただそんな奴らの中にもあの諸積恒美のように骨のある人間がいる。「なよなよ」じゃない男がいる。もしかしたらさっきのテレビの、反イチモツ派の集会の中継映像で映っていた冬なのに短パンをはいてその下にカラフルなタイツを履いていた奴も、パッと見は典型的な「なよなよ」のようだが実は腹の中には諸積恒美のような闘志を隠し持っているのかもしれない。そう思うといったい誰が敵なのかよく分からなくなってきた。

「バントと強硬策の違いなんだよ――」
 この前観たテレビの討論番組で、イチモツの是非について時事ネタを得意とするお笑い芸人がそんなことを言っていた。
「ノーアウトランナー一塁で、ここはバントすべきと言うファンと、いや、強硬策だ、と言うファンがいるでしょ。でも試合に勝ちたい気持ちはどちらも一緒なわけよ、ただその方法論が違うだけでさ。それと一緒でさ、イチモツに関する論争もさ、イチモツ支持派も反イチモツ派もこの国をいい国にしたいっていう気持ちは一緒なわけよ――」

 あいつらもあいつらなりに国のことを思っているのだろう。流血事件を目の前で見て以来、そんなふうに「反イチモツ派」の奴らを許容できるようになった。
 もちろん今でも自分はイチモツ支持派だ。そのことに変わりはない。ただ国民投票の結果がもしも自分の望まない残念な結果であったとしても、その時はその時で潔くみんなで決めた方針に従おう、今はそんなふうに思えるようになった。

 突然『見上げてごらん夜の星を』に対抗するかのように軍艦マーチの大音量が聞こえてきた。特攻服姿のおじさんたちが掛け声を上げ、それに合わせて歓声があがった。
 さすがに軍艦マーチはダサすぎないか? と思い苦笑いしたが太一もオ―と歓声を上げ拍手した。こっちは九割以上が男だ。むさくるしい空気が漂っている。でもみんな楽しそうだ。この感じも悪くない。

 どんな結果でも受け止めてやる。カップに残っていた甘酒を飲み干して、太一は夜空を見上げた。冷え込んだ靖国神社の境内の空気はやけに清々しく感じられた。
  


                4、
 
 
一部の開票所では大雪の影響で開票作業が大幅に遅れており、開票が全て終了するのは明日の朝になりそうだとの情報が届いています。そして出口調査による予測も、依然としてどちらが勝つのか分からない状況です――
 
 夜11時、北葛西の自宅アパートで横山亜樹はテレビのニュースを見ながら部屋に洗濯物を干していた。本当は朝洗濯して日の当たる所に干して置いた方が乾きはいいのだが朝はどうしてもバタバタしてしまうので洗濯はいつも夜の内に済ませるようにしている。

 明日も5時半には起きて朝ごはんの支度をして自転車の前と後ろに息子たちを乗せて別々の保育園に送ってそれから仕事に行かなきゃいけない。本当なら少しでも疲れをとるためにもう寝なきゃいけない時間なのだが今日はどうしても国民投票の結果が気になってしまい寝られそうになかった。

「クリスマスケーキはセブンイレブンで!」――サンタの格好をしたアイドルがテレビの中でニコッと笑う。そっかー……ケーキも買ってあげないとなぁ……。忘れないようにしなきゃ……。

 テレビの横のクリスマスツリーには折り紙で作った金メダルが2つ飾られてあった。「ママいつもありがとう」、「ママだいすき」と下手くそな字で書いてある。保育園で作ったらしい。これを貰った時には涙が出た。

 私は金メダルにふさわしい母親でいられるかな……?
 2つの金メダルを触りながら亜樹は思った。最近それがとっても不安だった。

 イチモツのおかげで客の数が減り、亜樹はホテヘルの仕事をいったん辞めざるを得なくなり、亜樹の生活はカツカツの状態だった。別に借金をしているわけではないからまだ何とかなっている。でも経済的にも精神的にも体力的にもいっぱいいっぱいなこの状態がいつまで続くのか……それがとても憂鬱だった。
 
 そういう生活をしながら私は優しいお母さんでいられるだろうか……?

 亜樹には子供の頃の忘れられない光景がある。あれは亜樹が小学校6年の時、お母さんが新しいお父さんと再婚して1年くらい経った頃だった。
亜樹には2つ上のお兄ちゃんがいたのだが、ある日お兄ちゃんが自分の部屋にあった雑誌を勝手にお母さんに捨てられたと言って怒りだし、お母さんと大ゲンカになった。最初は些細な親子ゲンカだったのが言い争ってるうちにお兄ちゃんは段々とヒートアップし、本を投げたり襖を蹴飛ばして破いたりお母さんを突き飛ばしたり……手がつけられなくなった。その時である。じっと黙って夕飯のおかずをつまみながらビールを飲んでいた新しいお父さんがすくっと立ち上がりお兄ちゃんの部屋に行き、「お前いいかげんにしろ!」と怒鳴ってお兄ちゃんの髪をつかんで壁に叩き付け、中学2年のお兄ちゃんもそこそこ身体も大きくなっていたのだがやっぱり大人の力にはかなわなくて、その後新しいお父さんはお兄ちゃんを床に投げ飛ばしてお兄ちゃんの上に馬乗りになって十発以上お母さんが「もう止めて!」と止めるまでビンタしてお兄ちゃんは鼻血を出して、その後2週間くらい顔が腫れあがったままだった。

 あの時の新しいお父さんのキレた顔はホントに恐ろしくて今もその映像が目に焼き付いてる。新しいお父さんのことは好きになれなかったけどそんなに悪い人ではなかった。普段は温厚な人だったし、今思えばあの人はあの人なりに亜樹たち兄弟との接し方で悩んでいたのだと思う。今の亜樹と同じように仕事で大変なことがあったのかもしれない。そういう溜まりに溜まったストレスが爆発すると人間誰しもああいうふうになってしまうのだろう。それがとっても怖かった。

 リビングの襖を開ける。隣の和室では息子たちが2人とも手を上にバンザイの格好をしてすやすやと眠っていた。「金メダルありがとね」そう言って2人のやわらかいほっぺをツンツンと触った。

 来年も再来年もこの子たちは私に金メダルをくれるかな……?

 この先常勤の看護師の仕事を始めて夜勤の仕事がきつくて体力的にも精神的にも追い込まれている時に、この子たちがグズッてお味噌汁をひっくり返したり食べ物を投げつけたり、保育園に行かないと泣き喚いた時、自分だってあの時の新しいお父さんのように溜まったストレスが爆発する瞬間がくるかもしれない。こんなに可愛いほっぺを腫れあがるまで殴りつける時がくるかもしれない……。それがホントに恐ろしかった。

 だからあのイチモツには一刻も早く消え去って欲しかった。日本の男性たちの性欲が復活して欲しかった。そうすればまたホテヘルの仕事を始めることが出来る……。だから亜樹は「反イチモツ派」に一票を投じた。

 以前のようにホテヘルの仕事で稼げるようになれれば金銭的にも時間的にも余裕が出来る。ちょっとおしゃれな服を買って子供たちにも可愛いお揃いの服を着せてディズニーランドに遊びに行って、綺麗なレストランでおいしいご飯を食べることも出来る。そういうちょっとした贅沢が精神的に凄くいいことを亜樹は知っていた。それが子供たちに対して優しい「いいママ」でいられる秘訣であることを。

 そしてもう一つ……。亜樹の身体が男の人に抱かれることを強く欲していた。
 ホテヘルの仕事に復帰して、仲良くなった常連さんたちにまた指名して欲しかった。いっぱいキスをして耳元でHなことを言われながら全身を舐められて、いっぱいいかせて欲しかった。この先子育てをしていく上で思い通りにならないことや大変なことがたくさんあるだろう。反抗期だってくるだろうし看護師の仕事でも嫌なことがいっぱいあるかもしれない。でも性的欲求が満たされていれば何とか乗り越えられるような気がするのだ。子供たちだけでなくていろんな人に対して優しい自分でいられるような気がする。

「みーあーげてーごらんーよるのーほーしをー……」

 テレビから歌声が聞こえてきた。「反イチモツ派」の人たちが集会を開いてそこで歌っているらしい。
 星か……。そうつぶやいて亜樹はベランダへ出て夜空を見上げた。こんな都会の夜空にも小さな星がいくつか見える。
 どうかイチモツがなくなりますように……。また元の生活に戻れますように……。
 名もない小さな星に向かって亜樹は祈った。
 
 

                5、

 
 人々がそれぞれの思いに浸って夜空を見つめていたその頃、東シナ海では誰もが思ってもみないことが起きていた。

 イチモツが縮み始めたのである。

 満天の星空の下、イチモツは静かに、しかしもの凄いスピードで縮み始めた。まるで何か意思を持っているかのようにイチモツは縮んだ。

 イチモツが急に伸び始めたあの夜と同じようにイチモツの持ち主である竹内伸一の身に何か特別なことがあった訳ではない。竹内伸一は石垣島の御神岬に設けられた自衛隊の施設の部屋の中でいつものようにスヤスヤと眠っていた。自分の身体の異変にも気付かずスヤスヤと……。

 満天の星空の下、イチモツは縮んだ。
 星たちが訊ねた。
 イチモツさん、急にどうしたの? 
 イチモツは何も言わずに縮んだ。
 何をそんなに急いでいるの?
 イチモツは黙々と縮み続けた。
 星たちは微笑んだ。そして優しい光をイチモツに照らしてあげた。
 星たちはひたむきな者が好きだった。
 黙々とひたむきに駆ける者が好きだった。

 星たちの優しい光に照らされてイチモツはただひたすらひたすら縮み続けた。

#創作大賞2023  

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