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フローター  最終話

  
             みっちゃん
 

 みどりと一緒に赤坂のホテルを出て紀尾井坂を少し上ったところでタクシーを拾い「鎌倉まで」と告げた。

 ケガをしたみどりのために、どこか薬局に寄って痛み止めの薬を買えればいいがと思ったが、あの男の仲間が追って来るのが怖かった。一刻も早く出来るだけ遠くへ行きたかった。

 タクシーの中でみどりはずっと誠の手を握っていた。顔色が悪い。唇が小刻みに震えていた。ついさっきまでは気丈に振る舞っていたが、出血のせいで貧血気味になっているのかもしれない。事件現場から去りいったん落ち着いたせいでアドレナリンの分泌が減り痛みも増しているのかもしれない。今度は俺が彼女を守ってやる番だ。そう思って誠はぎゅっとみどりの手を握り返した。

 ホテルのボーイに扮した男はサイレンサー付きの銃を持っていた。カレーの中に入っていたのはおそらく相当強力な毒物だ。どちらも素人が手に出来る代物ではない。つまりあの男はプロの殺し屋ということになる。誰が背後にいるのか……。

 三橋製薬? いや、考えにくい。いくら三橋製薬が誠の存在を煙たく思っていたにしても殺しまでやろうとするだろうか。他に考えられるのは……?

 フロートを承認した責任を問われることを恐れた厚労省もしくは大物政治家が関与しているのか? 可能性はある。だが、日本の政治家や官僚がホテルの客室での殺人なんていうリスキーでダーティーな手を使うだろうか……? よく分からない。

 タクシーは高速を降り鎌倉市街を通り抜け江の島方面へ向かった。今はもうないが昔この先の稲村ケ崎の辺りに三橋製薬の保養所があって、もう15年前くらいだろうか、入社して間もない頃に一度来たことがある。

 稲村ケ崎公園の信号を右に曲がり狭い路地に入ったところでタクシーを降りた。

「歩けるか?」
「うん」とみどりは言ったが顔色は青ざめていた。足元もフラフラしていて誠にしがみつかないと歩けない状態だ。何とかしてあげたい。そう思った。

 確かこの先の角を曲がった辺りに小さな薬局があったはずだ。一緒に遊びに来た先輩の一人が熱を出し誠が薬を買いに行かされた思い出がある。タクシーに乗っている時に何度かドラッグストアを通り過ぎたが大きな店には監視カメラがある。人の目も多いので避けた。もしも敵が厚労省や大物政治家だった場合、どこで尻尾を捕まえられるか分からない。用心するにこしたことはないだろう。何しろ相手はこちらの命を狙ってきているのだ。

 みどりの腰を支えながら路地を歩く。確かここを左だ。どうかつぶれていないでくれ。そう願いながら角を曲がった。すると――

 「平田薬局」と書かれた薄汚い看板が見えた。

 15年前と変わらず店の前に三橋製薬のキリンをデフォルメしたマスコットキャラクター「みっちゃん」の人形が置いてあり、首からぶら下げた看板に「いらっしゃいませ」と書かれていた。よかった。三橋製薬は敵でも「みっちゃん」は俺たちの味方のようだ。

 薬局で鎮痛剤と包帯と消毒薬を買った後、国道沿いのラブホテルに入り、みどりの肩の傷の応急処置をして薬を飲ませベッドに寝かせた。まだ痛みはあるようだったが薬が効いたようでみどりはすぐに眠った。

 夕方になってテレビのニュースをチェックした。全ての放送局が赤坂で起きた殺人事件を報じていた。そして全ての情報がデタラメだった。
 
「今日昼ごろ、東京赤坂のホテルの一室で出版社に勤める内田義次さんと小池英二さんの二人が胸や腹部を拳銃のようなもので撃たれて死んでいるのをホテルの従業員が発見しました。ホテルの監視カメラに拳銃を持って逃走する男女の姿が映っており、警察ではこの二人が内田さんと小池さんを殺害した可能性が高いとみてこの二人の行方を追っています――」
 
 画面にはホテルの廊下を走る誠とみどりの姿が映し出されている。誠の手には拳銃が握られていた。

 そんなはずはない。拳銃は部屋に置いてきた。だからこの映像は監視カメラが録画した本物の映像に誰かが細工を加えたフェイク動画ということになる。

 そしてホテルのボーイに扮した男の死体については何も触れられていない。男の仲間たちが死体を処理し、監視カメラの映像に細工を加え捜査を攪乱させているのか。それとも警察もグルなのか。よく分からない。いずれにせよこんな証拠のねつ造が出来、なおかつそれを警察の公式発表という形でマスコミに流す事が出来るということは、敵は相当巨大な組織であるとみて間違いない。

 これからどうしよう? 答えが見つからなかった。ここに何日もいる訳にはいかない。既に誠とみどりは殺人事件の重要参考人として全国に指名手配されているに違いない。警察に捕まったらどうなるのだろう? またブタ箱行きかよ……。立川警察署での屈辱の日々が思い出された。一度ならずも二度までも……無実の罪で……しかも今度は殺人罪だ。

「明日は晴れるんだ……」みどりの声がした。

 ベッドの上でうっすらと目を開けてみどりはテレビを見ていた。テレビでは天気予報を放送している。こちらの気分とは裏腹に日本列島にずらりとお天気マークが並んでいた。

「傷は? 大丈夫?」
「うん、痛いけどなんとか我慢できる……」みどりが答えた。

「今は痛むだろうが、そんなに大した傷じゃない、すぐ治るよ」
 みどりが小さく頷いた。
 当たり前だがいつもの元気な表情は消えている。

 こういう時Vシネマなんかでは傷付いたヒロインの気を紛らすために主人公は気の利いたジョークなどを言うものだ。そうだ、俺も何かみどりの気分が明るくなるような話でもしないと……そう思って話題を探してみたが何も思いつかなかった。

 何かあるだろ! そう思えば思うほど焦ってきて何も浮かばない。普段女の子と話す機会もないからなあ……ああ駄目だ、なんも浮かばねー、駄目な男だな、俺は……そんなことを思っているとみどりの方から話しかけてきてくれた。

「誠さん……怖くない?」
「ん?」
 みどりがじっと見つめてきた。

「怖いよ。怖くてションベン漏らしそうだった」
 みどりがフッと笑った。誠からすれば正直に本当のことを言っただけだったが、ジョークと思ってくれたのだろうか……? とりあえず笑わせることには成功した。ちょっとはふさいだ気分が紛れただろうか?

「誠さん私のこと強い女だって思ってるでしょ」
「え……? ああ」
「でも私だっていつも強い訳じゃないのよ」
 頷いた。

「少し甘えてもいい?」
「ああ」
「のど乾いた」
 冷蔵庫にエヴィアンのペットボトルがあった。持ってきてキャップを開けみどりの口元に近付けた。
「飲める?」
 みどりが首を振る。

「傷が痛くて自分の力じゃ飲めないの……」そう言ってみどりがこれまで見せたことのないか弱い視線を送ってきた。
 水を口に含んでそっとみどりの口の中に移した。

「もっと欲しい……」
 頷いてからもう一度口移しで水を飲ませた。

「明日は全国的にすがすがしい一日となるでしょう」
 テレビから女性アナウンサーの爽やかな声が聞こえてきた……。

 
             ボブ&ジョージ

 
 沖縄の嘉手納基地を出発して東シナ海上空を飛行中の米海軍戦闘機。そのコックピットの中で、ボブは満面の笑みを浮かべ、ジョージはしかめっ面をしていた。

「ヘイ、ジョージ昨日はレッドソックスが勝ったから100ドル頂くぜ!」
「チクショー、クリーンアップの場面でダブルスティールなんて……あの監督頭いかれてるよ」
「まーついてなかったな……今夜は俺が奢ってやるよ、お前の金でな、ハッハッハッ」
「この野郎、いい気なもんだ」

「ハハッ、ところでジョージうちの監督も頭いかれてんじゃないか? なんでこんな所にミサイル発射しなきゃいけないんだ? お前なんか聞いてるか?」
「いいや、とにかく東シナ海にミサイル発射それだけだ……」
「何で海にミサイル発射しなきゃなんねーんだ?」
「知るかよ、お魚さんをビックリさせるためじゃねーか? ボスに聞いてくれ」
「まー俺たち下っ端には関係ねーか、早いとこぶっ放してお前の金で飲みにいこーぜ!」
「チクショー、不味い酒になりそうだ」

 そう言ってジョージはミサイルの発射ボタンを押した。

 海に放たれたミサイルは水深200メートルの地点で爆発し大きな熱を放った。その熱は異常なほど周辺の海水温を上昇させ、海面から大量の水蒸気が発生し上昇気流が起きた。

 発射されたのは一昨年NASAが開発した台風を人工的に発生させるミサイルだった。

 
               結末
 

 バタバタバタ、バタバタバタ――その音で誠は目が覚めた。隣ではみどりがすやすやと眠っている。

 多分薬が効いたのだろう。バタバタという音は窓から聞こえてくる。ベッドから起きカーテンを開けた。と、バタバタッという音とともに雨が窓を叩きつけ、風で飛ばされてきた大きな葉っぱが窓にへばりついた。

 誠の頭に疑問がよぎった。確か昨日の天気予報では「晴れ」と言っていたはずだ。

 何かがおかしい……。

 子供のころデパートで迷子になったかもしれないと気付いた時のような、いやーな不安感が両足を伝ってぞーっと身体に満ちてきた。何かがおかしい……。

 その不安の正体を確かめようと誠は窓を開けた。すると激しい風が部屋の中まで吹き付け、カーテンがお化けのように舞った。

「何の音?」
 みどりの声にも気付かず、誠は何だか分からない不安の正体を確かめるためにベランダへ出た。雨は降っているがそれほど激しくない。が、もの凄い風だ。鎌倉の山々が低い唸り声をあげている。

 みどりがベランダに出て来た。
「大丈夫なのか? 起きて」みどりに聞いた。
自然と声が大きくなる。そうしないとお互いの声が聞こえないほどの強い風だ。

「うん、まだ少し痛いけど」みどりも声を張って答えた。
「何かがおかしいんだ……」
「何かって?」
「昨日の天気予報じゃ全国的に晴れって言ってた。よく分からないけど、天気予報がこんな見事に外れることってあるのかな……?」 
「そうね、変ね……」

 風にふらつくみどりを後ろから抱きかかえる。しばらく2人で嵐の様子を見つめていた。

「あ!」

 突然みどりが大きな声を上げ空を指した。
「見て! ホラ! あそこ! 人が! 人が飛ばされていく!」

 江の島の向う側から誠たちのはるか頭上を越えて人が飛ばされていく。

 フローターだ! フロートの副作用でフローターが風に飛ばされたんだ!

 誠は慌てて部屋に戻りテレビをつけた。
 NHKでは高齢者の為の腰痛予防の特集をやっていた。チャンネルを変える。「東京絶品ランチグルメリポート」、「歌舞伎役者の不倫疑惑」、「この夏お勧め映画ランキング」、「大丈夫? あなたの年金お悩み相談SP」……のんきな番組ばかりだ。

 何故だ? どうして台風情報がやってないんだ……? テレビのリモコンを押しながら誠はさらにおかしなことに気付いた。

 画面の上に表示されている天気予報は東京、千葉、横浜、さいたま、山梨、水戸……みんなお天気マークだ! 
「台風情報は? なんでどこもお天気マークなの?」みどりも同じことに気付いたようだ。

 おかしい、絶対おかしい……。

 誠は再びチャンネルを変えた。が、どのチャンネルも台風でフローターが飛ばされたというニュースはやっていない。

「なんでこんなくだらない番組ばっかやってるのよ」
「もしかして、誰かが気象情報をコントロールしているのかも……」
「え? 誰が何のために?」
「分からない……」

 昨日までに台風が接近している事が分かっていれば外出を控えた人もいたはずだ。被害は小さく出来る。そうはさせたくない奴らがいるっていうことか? より大きな被害を望んでいる奴らが? 毒物を使って誠たちを殺害しようとし、内田や小池の死に関する情報をねつ造し、さらに気象情報まで操作できる奴ら。

 一体誰なんだ? 

 突然窓の外から空を切り裂くような轟音が聞こえた。ベランダへ出て空を見上げると三台の戦闘機が連なって北へ向かって飛んでいくのが見えた。

 米軍……? なんのために……?

 風が止む気配はない。
「このまま台風が首都圏を直撃したらどうなるの?」みどりが聞いた。
「何千いや、何万ものフローターたちが飛ばされるかもしれない……」

 風に吹かれながら、誠とみどりは空を見つめ続けた。
 

 
 フロートの副作用が原因で多くのフローターが飛ばされているらしい、との情報を受けて召集された緊急閣議に出席するため農水大臣の樽見沢恒彦は総理官邸の前で車を降りると閣議室へ急いだ。

 時計の針は10時2分を指している。一時間以上の遅刻だ。都内の道路はひどい状況だった。風に飛ばされたフローターたちが都心の高層ビルに衝突し死体が道路のあちこちに転がっていて大渋滞を引き起こしていた。朝七時前に官邸から電話で呼び出され世田谷の自宅を出てからここまでたどり着くのに三時間もかかってしまった。

 とにかく急がないと。エレベーターを降り杖をついて速足で歩いた。70の時に糖尿病を患ってから急に足が衰えたせいで杖が手放せなくなっている。息を切らしようやく閣議室の扉を開けた。が、おや……? 部屋を間違えたのかな……? 樽見沢は一瞬そう思った。誰もいないのである。もう閣議は始まっているものと思い込んでいたが大きな円卓の各席には、何枚かの資料が並べてあるだけで誰ひとり閣僚の顔がなかった。

 ひょっとしてもう終わってしまったのだろうか……?

 樽見沢がボーっと立っていると「樽さんこっちこっち!」という聞き慣れた声がした。部屋の隅のソファから樽見沢とは同期で40年以上の付き合いになる法務大臣の北沢昭一が手を振っていた。

「おお、昭さん、閣議はどうなった?」
「樽さん、それが……ひどい話だよ……」

 そう言って首を振りながら北沢が喋り始めたその話の内容を聞き、樽見沢の血圧は急上昇した。

 北沢の話は要約すると次のようなものだった。多くの人間が飛ばされた原因は三橋製薬の大ヒット商品フロートの副作用によるものと見てまず間違いないということ。厚労省はずっと前からその副作用の事実を把握していながら公表に踏み切っていなかったこと。誤った気象情報が流されたことに関しては原因がまだ分かっていないこと――それらを30分後の記者会見で官房長官の吉本が発表するらしい。

「こりゃ記者会見は大荒れになるな」樽見沢は言った。
「ああ、政府の責任は免れないよ」北沢が溜め息とともにそうこぼした。
「ああ、こりゃ内閣総辞職もあるかもな」
「ああ、でも樽さん、今は誰の責任だとかそんなことを言っている場合じゃないぞ、人命救助に全力で当たらんと」
「ああ、そうだな」

 確かに北沢の言う通りだった。今は状況を正確に把握して被害を最小限に食い止めるために内閣のメンバー全員で力を合わせなければならない。

「で、他の連中は?」閣議室を見渡しながら樽見沢が聞くと、
「樽さん、それが……情けない話でよ」と北沢は顔をしかめた。
「どうした昭さん?」
「それがよ、いたらしいんだよ」北沢が吐き捨てるように言う。
「いたって……何が?」
「閣僚のメンバーの中にもだよ」
「ま、まさか……」嫌な予感がした。
「ああ、フロートの常用者がだよ、連絡がつかんらしい、きっと飛ばされちゃったんだろ」

 まずい。こういう緊急事態に冷静に対応出来るかどうかは内閣の命運に関わってくる。それが対応以前に内閣のメンバーが飛ばされちゃ話にならんだろう。野党の連中はここぞとばかりに批判してくるだろうし、記者会見は大荒れになるはずだ。

「それは確かな情報なのか?」樽見沢は聞いた。
「ああ、さっき番記者から聞いた」
「誰だ? 誰なんだ?」
「山本と木下」
「え! 山本!」樽見沢は耳を疑った。あろうことか山本忠志は防災担当大臣だ。
「木下めぐみは厚労大臣だからまだいい、まあ、まだいいって言い方もアレだが……しかしよりによって防災担当大臣が真っ先に飛ばされちゃうってのはなぁ……」北沢はそう言って首を振った。

「何をやっとんだ、あのバカ息子が!」樽見沢は思わず悪態をついた。

 山本忠志の親父、山本恒運先生には樽見沢は若い時分随分と世話になった。だから山本忠志のことは小さい頃から知っているが、「坊ちゃま坊ちゃま」と周りからチヤホヤされ過保護に育てられたせいだろう。外見だけはいいが中身のない軽薄な政治家に育ってしまったという印象が強かった。しかも「軽薄」というイメージを実践するように風に飛ばされて死んじまう最期を遂げるとは……これでは亡き恒運先生も浮かばれない。樽見沢がそんなことを考えていると――

「あとは……」と言って北沢がポケットからメモを取り出した。
「え! あとって、昭さん、他にもまだいるのか?」
「ああ、財務大臣の古沢、外務大臣の柏木、防衛大臣の牛島、この3人も今連絡が取れない状況で、かつフロートのヘビーユーザーだったことが確認されているらしい」

「あ、あ、あ……」思わず入れ歯が外れそうになった。財務大臣に外務大臣って……重要閣僚じゃないか……。

 終わりだ……。もうこの内閣は終わった。
 総辞職は免れないだろう。

「だから言ったんだ、あんな若造たちを起用するなって……」樽見沢は両手で頭を抱えて言った。
 この非常時に大臣が飛ばされるとは何事だろう。イメージ優先で若手ばかり起用したからこうなるんだ。厚労大臣の木下と防衛大臣の牛島はいずれも40代前半当選2回の若手で、財務大臣の古沢も当選回数こそ5回だったがまだ52歳。70過ぎの樽見沢や北沢からすればヒヨコのような存在だった。

 現政権の小林内閣は相次ぐ閣僚のスキャンダルと失言によって総辞職に追い込まれた御手洗内閣の後を受け去年の夏発足した。総理である小林光秀自身が72歳と高齢であることから年寄りくさい政権のイメージを払拭するために当選2回の若手と女性議員を多数入閣させたのである。

「まったく、あんなミーハーな薬に手を出すなんて」樽見沢が言った。
「最近の若い奴らは言葉も責任感も、何でも軽いんだよ……」北沢が吐き捨てるように応えた。

「お待たせして大変申し訳ございません」

 そこへ官房副長官の松本重文が数人のスタッフを連れてやって来た。松本は政治家ではなく財務次官を経験した官僚出身で、3人いる官房副長官のうちの事務担当――いわゆる事務方のトップだ。

「おお松本君、どうなっているんだね? まったく……閣僚のほとんどが風で飛ばされているらしいじゃないか?」樽見沢は聞いた。
「はい、すいません。それが大変情報が混乱しておりまして……」
「で、どうなんだ被害の実態は?」北沢が聞いた。
「はい、午前10時現在、死者2500、行方不明者5万人と推定されますが、詳しいことはまだ分かりません」松本が答えた。
「分からないって君どういうことよ?」北沢が苛立った声を出す。
「それが、被害状況を把握する役割の官僚たちもだいぶ飛ばされている模様でして……」

「全くどういうことだね君! 全く危機管理がなってないじゃないか! 日本の官僚は世界一優秀じゃなかったのかね!」
「は、申し訳ございません……」

 怒鳴り散らす北沢に松本はただただ頭を下げるだけだった。まったく総理も大変だ。こうなったら我々長老議員が全力で総理を支えなければ――そう思い樽見沢は右手で杖を強く握りしめた。

「で、総理は今どこで指揮を執っておられるの?」
 樽見沢の問いに松本の表情が曇った……。
「それが大変申し上げにくいのですが……」

 嫌な予感がした。
「……おい、君、まさか……?」樽見沢は思わず言葉を詰まらせた。

「さきほど総理公邸の監視カメラで中庭から小林総理が風で飛ばされる姿を確認いたしました……」

 松本の言葉に樽見沢の全身から力が抜け、そんな御主人様をからかうように彼の杖が閣議室のフカフカの絨毯の上でコミカルにバウンドした。


 
 
 官房長官の記者会見が終わり画面がスタジオに切り替わると、フロートのパッケージを手にしたニュースキャスターの五十嵐貫太が怒りまくっていた。

「全く大変な被害ですよ。私から言わせればね、これはもはや天災ではなくて人災ですよ。大体、誰がこんな薬を認めたの! 政府でしょ、どうなの藤原さん!」

 与党・民自党の国会議員、藤原一太は苦しい言い訳に終始した。

「いや、確かに政府の責任は重いと思います。しかしね、貫太さん、テレビをはじめとするほとんどのメディアがこの薬を絶賛していた……」
「そんなこと聞いてるんじゃないんだよ、藤原さん! いいですか? 私が言いたいのはね、こんなフロートとかいうふざけた薬をはびこらせた責任を、一体誰がどうやって、この責任を取るんだ! ということですよ! ねえ、曽我畑さん」
「アメリカやヨーロッパではまだ認可されていないんですよ、それだけ危険な薬だということは分かっていた訳ですよね、それを政治も官僚も一体となってこの薬の利権にワッと飛びついた、その犠牲になったのが無実の国民ですよ、まったく、これは犯罪と言ってもいいでしょうね」

 貫太に続きエッセイストでベテラン女性コメンテーターの曽我畑恵子がたたみかけた。
 
「ろくでもない奴らね」画面を見ながらみどりがつぶやいた。
「ああ」誠も頷く。

 こいつらだって絶賛していた。それを棚に上げて……誠もそう思う。こいつらは手のひらを返すことを全く恥と思っていない。みんなが政権交代だ、と言えばそれに同調してアホみたいに騒ぎたて、数ヵ月後にはこんなひどい政権はないと被害者ぶる。コロコロコロコロと意見を変えることに何の疑問も持っていない。

「あ! 見て! ほら、あれ!」

 突然みどりが画面を指差した。
 画面には引き続き怒りまくる五十嵐貫太が映っている。

「いいですか藤原さん、広島長崎の原爆投下以来ですよこんな被害は! あなた方与党の議員さんはどう責任取るんですか! この事態の!」

「ほら! 足元!」みどりが言う。
「あ!」 
 誠もようやくそのことに気付いた。

 五十嵐貫太の足が床から数センチ浮いていた……。

 絶叫するたびに五十嵐貫太の身体が少しずつフロートしていく。その姿を不思議そうに他の出演者たちが見つめている。

「貫太さん、偉そうなこと言いながら、あなただってフローターじゃないですか」
 国会議員の藤原一太が立ち上がり五十嵐貫太の足元を指して言った。
「何をバカなこと言ってるんですか、大体政府はね、え? あ!」

 政府を批判することで頭がいっぱいだった五十嵐貫太はカメラの横にいるADが出した「貫太さん浮いちゃってます」というカンぺを見て初めてその事実に気が付いた。モニターで自分がフロートしている姿を見て激しく動揺したのだろう。貫太は「そりゃ浮かびますよ私だって、こんだけ頭にくりゃ誰だって浮かびますよ」と訳の分からない理屈を叫んで「大体政府はね、何やってるのこの事態に!」と力技で政府批判にもっていった。
 
「いやー貫太さんまずいなこれ、視聴者からクレーム殺到するぞ」

 スタジオの調整室でプロデューサーの長田は苦い表情でつぶやいた。
「そういう長田さんだって浮かんでるじゃないですか?」隣にいたディレクターの川辺が言った。

「あ? お前何バカなこと言って――」そう言いかけて長田はハッとした。自分の身体がフロートしている。椅子の上にフワフワと浮いている。なぜだ? 今日はまだフロート飲んでいないのに。あまりに驚いたので長田はバランスを崩してしまい、スペースシャトルにいる宇宙飛行士のように身体が宙でクルクルと回ってしまった。

「何だこれ、おい、まずいぞ、これ、何だお前もかよ!」
 気が付くと隣にいた川辺の身体もフロートしている。

「長田さん、大丈夫っすかね? 番組進行できますかね、これで?」
「とりあえずやんなきゃまずいだろ。はい、いいですかスタジオ、それじゃCMあけたら……」

 スタジオに向け指示を出そうとして長田は驚いた。スタジオに誰もいない。スタジオを映すモニターに誰も映っていないのである。さっきまでコメンテーターたちが座っていた椅子が全て空になっている。

「おい! 出演者どこいったの!」マイクに向かって長田は叫んだ。
「長田ちゃん、上、上! カメラ上向けて!」五十嵐貫太の声が聞こえた。

 モニターにまるで無重力状態になったかのようなスタジオの様子が映った。司会の貫太がフロートしている。作家でベテラン女性コメンテーターの曽我畑恵子も、ゲストコメンテーターの国会議員・藤原一太も、アシスタントの女子アナも、カンぺを持ったADも……みんなフロートしている……。
「貫太さん! なにやってんすか!」長田が叫んだ。

「身体のバランス取れなくなっちゃって……長田ちゃんどうすんのこれ? こっから放送する?」

 フロートしながら長田は頭を抱えた。終わりだ。これですべて終わりだ。役員昇格の可能性もこれで100%無くなった。泣きそうな声を絞り出して長田は貫太に告げた。

「貫太さん……もう本番入ってます……」

 新宿アルタの巨大スクリーンにはこの生放送の映像が映し出されていた。フロートした五十嵐貫太の情けない表情が大画面に映る。その貫太の顔に風に飛ばされた何人ものフローターたちが激突していった。


 
        バージニア州マクリーン、CIA本部


「あの国を滅ぼすのに核兵器はいらない。君が言ったことは正しかったな」

 長官室でコーヒーを飲みながらCIA長官・ロバート・ジョンソンはテレビ電話でつながっている東京のビル・マクリーに言った。

「あんなものは野蛮人が使う道具ですよ。イラク戦争で馬鹿なネオコン連中が行ったオペレーションは大失敗だった。兵士の犠牲者もたくさん出たし、財政も大赤字になった。あのときの教訓から我々は世界を制するにはソフトパワーこそが重要だと主張し続け、ようやく今回それを実証することが出来た。今も昔も最も必要とされているのはインテリジェンスです」
「台風を起こすのに使った以外は一発のミサイルも使っていない。こんな低コストで占領が成功すれば我が国始まって以来の快挙じゃないか?」
「そう思います」

 全ての計画は5年前、今目の前のモニターに映っているビル・マクリーが提案して始まったものだった。ロバートはこの優秀な部下を味方に持ったことを誇りに思うと同時に、この逸材を他の組織にとられなかった幸運に感謝した。

 「Fプロジェクト」と名付けられたこの計画のきっかけは、ある日たまたま日本の三橋製薬にもぐりこませていた諜報員の一人からフロート発明の情報がもたらされたことだった。

 CIAは世界中のあらゆる企業や政府に情報網をもっている。一時期政府の財政難から予算が大幅にカットされその情報収集能力が著しく低下したことがあったが、ソフトパワーの重要性をホワイトハウスに訴え続け国防省との予算の分捕り合戦に勝利したことが、このCIAの栄光の歴史に残るであろう華麗なるプロジェクト――「Fプロジェクト」の成功につながった。

 国の借金が15兆ドルを超えたというのにあの国は何の改革も出来ないでいた。財務省の話ではあと半年以内にも日本はデフォルトの危機に陥る可能性が高くなり、すでにウォール街の連中は日本国債のCDSや円に大量の売りを仕込んでいるという。もしあの国がデフォルトの危機に陥ったら奴らは保有している米国債を売って借金を帳消しにしようとするだろう。

 そんなことされたら今度はこっちが困る。おまけに太平洋における中国の脅威が増してきているのにも関わらずあの国の政治家たちは安易なポピュリズムに走って「米軍には出ていってもらう!」なんて発言をする始末だ。尖閣諸島で問題が起きると我々に助けを求めておきながら米軍よ出ていけと平気で言う。あの国の幼児性にはあきれかえる。

 ホワイトハウスが懸念していたのは次の二点だった。日本のデフォルトによりアメリカ経済に悪影響が及ぶこと。もう一つはハイパーインフレが進んだ日本で極右政党が政権を握りまた昔のように無謀な戦争を隣国相手に始める可能性があることだ。 

 資源もない国が通貨も暴落してエネルギーも食料も買えない状況で戦争を始めて勝てる訳がないのだが、あの国の世論は暴走しやすい。CIAが得た情報では、中国人民解放軍情報部では日本国内で嫌中気分を煽り尖閣諸島付近で自衛隊及び海上保安庁の船舶への挑発を重ねることで日本からの一撃を誘い、それを機に自衛権を発動し一気に与那国島と石垣島を占領するというシナリオが極秘に進んでいた。

 このような中国のアジアにおける勢力拡大は米国にとっても許すことの出来ない状況だ。
 それにもしも中国が日本と戦争となった場合、米国は日米安保を発動し日本を支援することにはなっているが、今中国と一戦を交えることは全く米国の国益にならないことは子供でも分かることだ。14億人の市場にアメリカ製品を売りつけることでアメリカ経済は好調を維持出来ている。そんなおいしい市場に向かってなぜミサイルを撃ち込まなくてはならないのか? ナンセンスだ。

 マクリーが提案した「Fプロジェクト」はこうしたホワイトハウスが抱えていたあの国への懸念を見事に解決するものだった。中国があの国を占領する前にこちらがあの国を平和的に、一切の財政負担なしに、国連からも世界の世論からも評価される形で占領してしまうというものだ。そんな魔法のようなことが出来るのか? 最初は誰もがそう思ったが、マクリーの緻密な戦略を見て誰もが「これはいける」と判断した。

 CIAは三橋製薬のフロート発明の情報がもたらされた時点でフロートの徹底的な解析と人体実験を行い、いち早くフロートの致命的な副作用について把握していた。そこで出来るだけ早くフロートが日本で承認されるようにあらゆる人脈を使って厚生労働省に工作をした。そして次は「フロートブーム」を起こすための仕掛け作りだったが、これはこちらの予想に反し全くと言っていいほど必要なかった。あの国の連中はこちらの想定をはるかに超える呆れるほどの熱狂ぶりでフロートに飛び付いた。

 あとは簡単だ。NASAが開発に成功していた人工的に台風を発生させるミサイルを東シナ海に撃ち込んで、気象衛星の情報を我が国の優秀なハッカーたちの手で操作するだけだ。こんなことは朝飯前だ。欲を言うならばもう一、二カ月先――フロートの副作用の症状がさらに広まったところで台風を発生させれば被害をより拡大出来たはずだ。しかしまあ、それは欲張り過ぎだろう。

 長官室のモニターには米軍のヘリが撮影した東京上空の映像――沢山のフローターたちが飛ばされていく様子――がリアルタイムで映し出されている。

「しかしアホな国民だね。人間がゴミみたいに飛んで行く……」ロバートは心の底からそう思いつぶやいた。

「しかし、まさか総理大臣までも飛んでいくとはさすがに想定外でしたがね……」マクリ―が笑った。確かにあの間抜けな総理大臣が飛んでいく映像を見た時にはロバートも思わず大笑いしてしまった。ユーチューブにUPさせたいほどの傑作だった。

「経済機能は麻痺したし、政治も官僚機構もほぼ壊滅状態だ……あとはわが国が善意の救済者を装ってあの国をのっとるだけだ」ロバートはモニターのマクリ―を見つめて言った。

「ええ」マクリ―が答える。
「大統領も喜んでいらっしゃった」
「光栄です」
「まるでゲームだな」
「そうです、全てはゲームです、ここでやるね……」

 モニターの中でマクリ―が頭を指して笑った。

 

               江の島

 江の島の向こうからまた人が飛んで来る。カモメの数より多いかもしれない。
 彼らはどこから飛ばされてきてどこまで飛んで行くのだろう?

 強い風に吹かれながら誠とみどりは稲村ケ崎公園から江の島の方角を見つめていた。
 しっかりと足を踏ん張っていなければ飛ばされそうだ。

「この国は滅びちゃうのかな……?」みどりがつぶやいた。
 風はやまない。

 みどりの問いには答えず誠は黙って西の空を見た。晴れた日にはそこにくっきり見えるはずの富士山が今は見えない。見えるはずもない。空は雲に覆われ霞んでいる。靄の中に江の島が海の上にあぐらをかいたように座っている。

 誠はなぜか小さい頃父親とよく行った銭湯のことを思い出していた。銭湯は湯気でモクモクと曇っていた。頭を洗うのは苦手だった。目にシャンプーが入るのが嫌だった。シャンプーを洗い流す時は絶対にシャンプーが目に入らないようにきつくきつく目を閉じた。でも目を閉じている間に父親がどっかに行ってしまって自分一人になっちゃうんじゃないかと不安になってちょっとだけ目を開けた。その時湯気でモヤーっとした視界の中に銭湯の椅子に腰かけた父親のブヨブヨしたお腹と毛がいっぱい生えている太ももとすねが見えると安心した……。

 なんで今こんなことを思い出したのだろう……? 

 そんなことを考えながら「江の島よ浮かないでくれ」と誠は祈っていた。江の島が浮いてしまったら日本の全てが浮いてしまうように思えた。

 鎌倉の山々が恐ろしい唸り声を上げた。突風が吹きつけ、それと同時に何百ものフローターの群れが江の島の向こうから飛んできた。

 その一瞬、江の島がフロートしたように見えた。

 みどりが誠の手を握る。誠もみどりの手をぎゅっと強く握り返した。
みどりが言うようにこの国は滅びるのかもしれない。

 その昔ある評論家が言った。増え続けるフリーターがこの日本を滅ぼすと……。
 しかし彼は間違っていた。
 日本を滅ぼしたのはフリーターではなくフローターだった……。

 その昔あるSF作家は日本が沈没して滅びるというストーリーを書いた。
 しかし実際に起きた事は全く逆だった。
 日本は浮遊していったのだ――
 日本全体がフロートして滅びたのだ……。

                              《完》

#創作大賞2023  

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