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オタクだからでは無い、君だから

どうも。

絶賛就活中だが2次面接にすら行ったことない系大学生です。

早速だが、これを見てほしい。

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某侍系少年漫画「〇魂」のとある1ページだ。

面接における「尊敬する人は?」という質問に、二次元のキャラクターを回答することの是非を問うている。

これに対し、銀○の作者である空知英秋氏は、面接官は実在する(もしくはした)人間を聞いているのであって、二次元のキャラクターを回答するのは質問の意図と合致していないとの返事を出している。

(ちなみに個人的には、俺も空知氏と同じ立場だ。面接に限らず「尊敬する人」を聞かれたら大抵は三次元の実在する人間を回答するのが想定されているだろう。それに、二次元のキャラクターを出すとしても、何の漫画のどんなキャラクターなのかを相手に説明する必要がある。相手が「銀魂」を知っていたり、アニメ漫画好きで興味を示している場合なら良いだろうが。それでも、一々説明するのは時間がかかるし、面接の回答として無駄に長くなるので、やはり二次元のキャラクターは面接の回答として適切では無いだろう。)


さて、何であの写真を引き合いに出したのかというと、俺自身も「コミュ力低い」=「自分が肥大化」ではないかと思うようになったからだ。


今回は、その「コミュ力」について綴っていく。




それ、本当に「コミュ障」??


統計をとったりしたわけではないので、あくまで俺の印象だが、巷で「コミュ障」というと口数が少ない、寡黙、関わりの無い人と上手く喋れない、人見知り、みたいな意味合いで使われることが多い気がする。

ざっくりまとめてしまうと「喋らない」といった具合だろう。

確かに、人と関わる上で喋らないのは致命的だ。

しかし、だからといって単に「喋らない」を「コミュ障(=コミュニケーションに差し支えのある人)」と、安易に括ってしまうのはいかがなものか。 


高校3年の4月、新クラスになった日だ。
新クラスの初日は大抵自己紹介がある。一人一人前に出てきて、名前や部活などを言うやつだ(さすがに、3年にもなって一発ギャグをやりだす奴はいなかった)。

そこで、ある生徒が「自分コミュ障なんすけど、一年間宜しくお願いします」と話していた。
(ちょっと笑いが起こった)

彼とは3年で初めて同じクラスになり、後に同じ美化委員会に入った。別に、仲良くなって一緒に入ったわけではない。たまたま同じになった。 

彼と関わったのは委員会がある時だけであったが、彼とコミュニケーションで齟齬を感じるようなことは一度も無かった。

なんなら俺のことは最初からあだ名で呼んできたし、委員会から持ち帰ったことをクラスに報告する役割も彼がやってくれた。クラスに報告するというのは、帰りのHRの時に手を挙げて、40名近いクラスの中で一人で話すということだ。話す内容が予め決まっているとはいえ、集団の中で喋るというのは簡単にできることではない。

また、コミュニケーションとは少し異なるが、俺は委員会があることを忘れがちだった。彼は、委員会があることを忘れている俺に、今日は委員会があると毎回声をかけてくれた。(だらしない…)
彼は委員会があることを忘れずに覚えており、そのうえ委員会の存在を忘れている俺に喚起までしてくれるというなかなかの社会性・責任感の持ち主だった。

特別彼と仲良くしていたわけではないが、お互いに必要なことを必要な分だけ話し、適切な距離感を保っていた。彼とのコミュニケーションにおいて困ることなど全く無かったし、むしろ委員会がある時には毎回声をかけてくれたのはマジでありがたかったし、優秀だ。

確かに、彼は口数は少なかった。俺も彼も、積極的にお互いと仲を深めようとはしなかった。しかし、必要なコミュニケーションは過不足なくとることができた。

そんな彼を本当に「コミュ障」と言っていいだろうか??





不愉快です、正直


先程は、「コミュ障」って言ってるけど本当は違うんじゃね?といった例を提示した。

今度は逆にコミュニケーションに齟齬を感じた事例である。齟齬を感じたというか…まぁもうちょい工夫できないの?と思った話だ。


①口はあるけど耳が無い

あまり具体的に話すと個人が特定できてしまうので、抽象的に話そう。

皆の周りにも何人かいるだろう。自分の好きな話題だけを捲し立てるように喋る人間、無駄な口はある人種だ。そして、同時にこういった人種は人の話は全く聞いてない。耳が無いのだ。
自分の好きな話題しか喋れないのに、トーク力があるなどという思い込みをしていたらもう手遅れだ。

特に二人でいる時はきつい。互いに共通した話題ならまだしも、全く知らない趣味なんかの話をされた時にはもう地獄だ。 

本来であれば、「その話全く知らんから止めてくんない?」とでも言えればいいのだが、人の心が雀の涙ほどでもあれば、楽しく話している人を前にそんなことは言いづらいだろう。

じゃあ、あからさまに興味無いという適当な相槌を返してればよいのかといえば、そうとも限らない。そもそも、口あり耳なし人種が問題なのは、相手の反応を察する能力が低いという点である。

適当な相槌を打ち続けても、口あり耳なし人種は永遠と喋り続ける。聞いている相槌と聞いていない相槌を識別する能力が低いからだ。相槌を打つという行為は原則「私は貴方の話を聞いています」という意思表示であるが、口あり耳なしはその例外を識別する能力をもち合わせていない。そのため、ひとたび相槌を返せば、相手が自分の話を聞いていると思いこんでひたすら喋る。(もしくは、相手が話を聞いてないと分かってても、話すという自分の快楽のためだけに喋りつづける。)

(補足しておくと、これはあくまで俺の印象論である。エビデンスなどは無い。)

これがまともな人間なら、相槌から相手の反応を分析することができ、聞いてないor興味無いと分かれば、自然と話題を変えたり、相手に話を振ったりできる。

ここまでは、口あり耳なしの「口あり」の部分である。「口あり」は、言い換えれば「自己主張が激しい」ということだ。

自己主張が激しいということは、裏を返せば人の話を聞かないということである。
「口あり」とは「耳なし」だ。

こちらが話している時、話題にもよるが、口あり耳なしは大して聞いていないケースが多い。

個人的には、どうでもいい話を延々されることよりも、話を聞いてくれない方がキツい。

彼らの相槌は、一応相槌を打ってはいても、全くもって話を聞いていないタイプの相槌である。先程、口あり耳なしは相手が話題に興味を示しているかどうかを察する能力が低いと述べた。逆もまた然りで、彼らは相槌が下手くそだ。興味の無い話でも、「ちゃんと話を聞いてますよ」という相槌を返せない。

よって、口あり耳なしは話を聞いてもつまらないし、話をしてもつまらない(ことが圧倒的に多い)。

それに加え、中には自分はトーク力があると思い上がっている人間も一定数いる。地獄。


コミュニーケーション(会話)は、言葉のキャッチボールといわれている。

キャッチボールはある程度続けて楽しむものだ。

投げる時は、相手が取りやすいボールを投げねばならない。

相手が取りずらそうなら、投げ方を工夫せねばならない。

相手が気持ちよくボールを投げれるように配慮することや、どんなボールでもまずはキャッチしようという姿勢も必要だ。

しかし、これらはかなり面倒くさい。
それに難しい。

が、これがきっと「コミュ力」なのだろう。



②私は私は私は私は

過去にある同級生とLINEを交わした時のこと。

何かでバイトの話になり、当時宅配ピザのアルバイトをしていた俺は、「雨の日のデリバリーはキツい」という旨のLINEを送った。

もし皆なら、これに対してどう返事をするだろうか。

まぁ大体は「大変だね」とか「頑張れ」といった内容だろう。


しかし、その同級生は

「屋根ついてるから平気」


と送ってきた。


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(ちなみに宅配ではこういうバイクを使っていた。確かに雨には濡れない。)


どうだろう。

一見、何気ない一言のように思うだろう。

(あ。先程の発言が惰性で適当に返したものなら、俺のしている話はまるで無意味なのだが、ここではある程度本気の返事だとしよう。)

さて、先程の発言の何が問題なのかというと

まず、俺は端的に「雨の日はキツい」と言っただけなのに、向こうはそれを「雨に濡れることがキツい」と勝手に深読みし、「屋根ついてるから平気」という頓珍漢な返事をしたことだ。

先程の口あり耳なしのように、人の話をちゃんと聞いてないのだ。

一口に「雨の日はキツイ」といっても色々なキツさがある。勿論、雨に濡れるのはキツイ。しかしそれ以外にも、①メガネが曇る、②屋根があるせいでかえって水滴やくもりで前が見づらい、③手が濡れるのでレシートやメニュー、お札を濡らしてしまう、④地面が濡れてるので転倒のリスクが高まる、などなど様々なキツさがあるのだ。

それに、雨の日が「濡れるキツさ」に限らないのは、デリバリーをやった事が無くてもある程度想像がつくだろう。雨の日にバイクに乗るわけだから、転倒のリスクぐらいは容易に想像がつくはずだ。

雨の日の何が具体的にキツいのか。そこが分からないのに、勝手な思い込みで決めつけた返事をしてしまう。それを「悪い」とまでは言わないが、話を聞いてないことが相手に伝わってしまうので、気をつけた方がいいだろう。

いや、話を聞いていないというより、相手の話をちゃんと理解しようとする姿勢に欠けている。
といった方が妥当か。

(細かすぎ!と思われるかもしれないが、こうした何気ない返答は、その人がどういう人なのかを知る材料となる。意外と返事というのは、無意識に自分の価値観やその話題に対する関心の有無が出てしまう。ように思う。)



ここまで述べてきたが、一番の問題は別のところにある。

先程の「屋根ついてるから平気」を言い換えると

「屋根が着いてるバイクなら、雨の日のデリバリーなんてキツくない」

そう言っているのだ。ちなみに、彼にデリバリーの経験は無い。

さて、この発言にはなかなかの「コミュ障」が現れていると俺は思っている。

では、何がコミュ障なのか?

それは

相手の主張を否定(無視)し、自分の主張をしている

ことだ。

この例では、主張ではなく価値観といった方が正確だろうか。

俺の「雨の日はキツい」という言葉、特に「キツい」という部分に注目して欲しい。「キツい」とは、主観的な言葉である。「キツい」か「キツくない」かは人によって異なる。


そいつがキツいと思えば、そいつにとってはキツいのだ。


逆も然りで、そいつがキツくないと思えば、そいつにとってはキツくないのだ。


そして、雨の日の配達は俺にとってはキツいのである。

なので、それに対して「屋根ついてるから平気」と返事をするのは、俺のものの感じ方、すなわち価値観を否定しているのである。

更にその言葉を少し過激な形にすれば

「こんな程度でキツいなんておかしいよ。」

極端ではあるが、このようになる。

そしていずれは

「俺の方がもっとキツいことしてるよ」

というようなマウント取り(自己主張)に変わっていく可能性も孕んでいる。

あのLINEは、ただの雑談なので、どちらの価値観が正しいとか、どちらの方がキツいことをしているかなど問題ではない。

相手は雨の日の配達をキツいと思っている。

その事実を受けとめた上での返事をするべきなのだ。

キャッチボールで言えば、俺の投げたボールを彼はそもそも受け取ってくれてないのである。





自分の主張や価値観を否定されるのは、とても気分が悪い。

だが、それだけではない。

先程も書いたように、相手を否定してしまうことの一番の問題点は、相手を無視した自己主張に繋がるということだ。

先程の口あり耳なしと同じである。

「雨の日はキツい」という俺の主張を退けて、「屋根ついてるから平気(雨の日の配達でも、屋根があるなら俺にとっては苦じゃない)」と、自分の話をしているのである。相手の価値観を無視して、自分の価値観を話しているのだ。

相手の話を聞いているように見えて、結局自己主張に走っている。

激しい自己主張の下では、コミュニーケーションというキャッチボールは成り立たない。

またキャッチボールで例えると、俺が投げたボールはその辺に放って、勝手に自分の投げやすいボールに持ち替えて投げ始めているのだ。




最後に


ここまでの話をまとめると

・口数が少ないからといって所謂「コミュ障」とは限らない

・むしろ自分のしたい話を喋りすぎたり、相手の話を適切に聞けないことの方が問題

・話を聞いているつもりが、いつの間にか自己主張をしてしまっていることがある。

・コミュニーケーションはやっぱり言葉のキャッチボール

といった感じだろうか。






とはいっても、自分の話をするのが楽しいのは間違い無いし、興味が無い話を聞くのは辛い。

俺がInstagramに投稿したり、noteを書いたりするのもいわば自己主張である。SNSは自分勝手に自己主張ができるので楽しい。相手に無駄な相槌をさせることもない。

しかし、その楽しさを追求する場面は間違えないように気をつけたいところだ。




それでは。

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