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誰かの土台になるということ

タンポポが満開の季節になりあちこちで黄色い花が見られるようになった。

私はタンポポの花が好きだ。

息子が小さな頃は、たくさん一緒に摘んで家に持って帰ったり、ふーっと綿毛を飛ばして遊んだりもした、そんなホッコリとするひとときを思い出させてくれる。

13歳になった息子はもう一緒にタンポポの花を摘んではくれないが、今はもっぱら家で飼っている2匹のリクガメ用に摘んで持って帰る毎日だ。

タンポポの花って、一般的には良く踏まれても踏まれてもそこに根をはり、毎年咲き誇る強い雑草として表現される。

たっぷりの太陽を浴びて、凛と咲き誇る立派なタンポポの花は、青空に向かってスクッと真っ直ぐ伸びていて、それだけで美しい生命力を感じさせてくれる。

そんなタンポポの花のように、自分もまた踏まれても踏まれてもそこで凛と胸を張って花を咲かせて行ける、強さと柔軟性を持ったしなやかな生き方に憧れていた。

土手でも河原でも、荒れ果てた土地でも、どんな過酷な場所であったとしても、今与えられた場所で花を咲かせる。そんなちょっと控えめだけれど力強い、タンポポの花のような生き方に憧れていた。

でも、きっと私が50代の人生折り返し地点に差し掛かったからなのかもしれない。少し違った見方が出来るようになってきたのだ。

タンポポの花は、大きなヒマワリやダリアのように、豪華で華麗な姿をしていない。だけれど、小さなその黄色い花は、見るものにほっこりとした温かい気持ちを与えてくれる。

誰しも子供の頃フーッと綿毛を飛ばして遊んだ、自由で明日のことなど何も考えていなかった、あの頃の子供時代を思い出させてくれる。

そんなふうに、目立たなくとも、自分がいることで何か回りがほっこりするような生き方が出来れば、そんな人格が築ければ素敵だなぁと思うようになってきた。

そして、忘れてはいけないのが、タンポポの持つまったく違う側面だ。

道端に咲くタンポポは、そこで精一杯自分の花を咲かせて咲き終わり、そして自らの命を込めて綿毛を付ける。

その新しい命の種は風にのって遠くの地まで飛んでいき、そこでまた土に潜り、根をはり、その場所で花を咲かせる。

人生の折り返し地点を迎えた私は、そんなタンポポの種をたくさん付けれる花になりたいと思うようになった。

自分が咲いたその場所で、静かにそっと花を咲かせ実をならせ、そして種を沢山付けてその種を飛ばせるたった一輪の"自分"と言う花。そんなふうに生きて行けたら素敵だなぁと思う。

誰しも生きている限り、自分の命がいつか枯れ果てる時がやってくる。

自分を咲き誇らせようと、無闇に競ったり誰かを蹴落としたり。また自分の花を誰かと比べてみたり。

そんなことに時間を使うにはタンポポの人生はあまりにも短すぎる。

それならば、精一杯そこで自分らしく生き抜いて、そして、新しい誰かの花を咲かせられる立派な種をたくさん飛ばせる、どっしりとした大きなタンポポのようになりたいと思う。

そんな風に、人生の後半戦は、誰かの土台になれるような生き方が出来る自分になりたいと思うのだ。

ここnoteで活躍されている、沢山のクリエーターさん達も、それぞれの持つ素晴らしい知識や技術や経験を他に分け与えられる、そんな土台精神の方が多いように感じている。

そんな人がこの世の中にたくさん増えて行くことで、1人1人の個性がもっと輝きを増して、争いのない世界になっていくのかもしれない。

例えそのタンポポの花がリクガメに食べられようとも^^;…それは彼らの身体と活動を支えているのだと思えばそれもまた尊い…(;'∀')

母は1人でリクガメ用のタンポポの花と葉っぱを摘みながら今日はそんな事を考えた。


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