ましお

日本人として正しい感性を持ちたい人です.

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最近の記事

戦後政治4

中曽根康弘は戦前内務省に入省し主計士官として志願.横須賀で終戦を迎えた中曽根は内務省に戻るがGHQによって解体され警視庁に配属される。この間、熱海の徳富蘇峰を訪ねて「対米従属という現実を十分に理解しつつ将来の対米自立へ向けて布石を打つ」というリアリズムの立場を確固とする。   47年衆院選で芦田民主党から、出馬し当選。朝鮮戦争が、終わった53年に渡米しハーバード大学での、セミナーに参加する。そこで院生であったキッシンジャーと知り合う。  このセミナーは米国が同盟国、従属国

    • ガソリン税について

      道路特定財源の仕組みの大元は、諸外国の制度を参考に田中角栄らの議員立法で作られた。 戦後の復興が進み高度経済成長の足がかりをつかもうとしていた1950年代、ワトキンス・レポートの"日本の道路は信じがたい程に悪い"に象徴される、貧困な状況にあった道路を迅速に整備する必要性があり、財源の確保が問題となった。 1953年(昭和28年)に衆議院議員、田中角栄らの議員立法により、「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」がつくられ、「揮発油税」が道路特定財源となった。 同法は、19

      • 学校では教えてくれない戦後政治③

        田中は太平洋ベルトの発展の裏で取り残された日本海側を大規模な土木事業によって新潟の発展を実現しようとした。 池田内閣においては日本道路公団の設立や道路建設の財源にガソリン税をあてる道路特定財源制などを提案する。 佐藤内閣においても大臣を歴任し福田赳夫の対抗馬として存在感を、強める。 岸派の福田は国家財政の均衡を重視して税収の範囲内で公共投資、均衡財政による安定成長を掲げた。 一方佐藤派の田中は赤字国債を出してでも大規模な公共投資を、続けて高度成長を維持すべきという積極財政

        • 学校で教えてくれない戦後政治②

          戦後政治2 吉田茂は外務官僚出身で自民党での仲間が少なかった。 そこで各省庁官僚や都道府県知事に声をかけて、政策チームをつくる。 チームは吉田学校と呼ばれ、池田勇人、佐藤栄作などを輩出。 池田は大蔵省出身で敗戦後に吉田茂に声をかけられて吉田学校へ入る。 吉田内閣の経済ブレーンとして働く。 GHQ下の日本でハイパーインフレなのにもかかわらず、GHQの命令でデフレ対策を施行。 住宅金融公庫の創設。大蔵省資金運用部の創設。通産省の発足。ニューディール型の修正資本主義である。

        戦後政治4

          学校で教えてくれない戦後政治①

          GHQの統治下で内閣を組織したのは東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎、吉田茂。 日本進歩党、幣原内閣の時にGHQは、幣原、吉田茂外相ら3名を除く全閣僚を公職追放し、日本政府自らが新憲法を起草するように圧力をかけた。 幣原内閣が作成した改正案は戦争放棄条項などはなくマッカーサーに、却下される。 結局はGHQ民政局のニューディーラーたちによって起草された。 マッカーサーは吉田に草案を受け入れるように圧力(公職追放をちらつかせ)をかけた。  その是非を問う衆院選が行われた。 46年

          学校で教えてくれない戦後政治①

          学校では教わらない共産主義3

          日本独立後1953年日中貿易促進議員連盟を設立。 自分たちの身分を隠して利益をちらつかせ保守派を仲間にするために全力をあげた。  共産党は工作員が足りないので工作員を作ることを考えた。 1954年から57年 中国共産党は北京郊外に日本人革命家を育成する学校(馬列学院)創設。 細川内閣官房長官務めた武村正義など輩出。 日本敗戦後、中国共産党は満州国の日本人指導者、軍人を戦争犯罪人として勾留したが1956年釈放さた。その日本人たちが中日友好を掲げる。彼らが南京大虐殺をしたと

          学校では教わらない共産主義3

          学校では教わらない共産主義2

          1920年 レーニンは資本主義国家同士を戦わせ相互に歪み合わせて新しい情勢を生む。日米戦争を内側から煽る。 と、演説。  負けた国を共産化する敗戦革命を戦略 1935年 コミンテルン決議   「平和のための闘争の中で組織された戦争反対者たちを率いて、帝国主義戦争を、資本主義の打倒を目指す内乱に転化するための闘争に、進ませることに努力するだろう」→現在でも米国基地反対 自演隊反対 などの沖縄でのデモ。  第二次世界大戦後はアジアは共産革命工作を、受けた。 1945年ベト

          学校では教わらない共産主義2

          太平洋問題評議会

          太平洋問題評議会(IPR) アメリカに本部を置く国際共産主義の牙城  コミンテルンは大3回大会において「統一戦線」「植民地の解放」を掲げ社会民主主義勢力と、協調し民族主義運動を支援。 アジアを共産化する上で日本への工作が焦点となり工作活動が活発になる。 1920年コミンテルン極東書記局がシベリアにできて1921年中国共産党、1922年日本共産党が結成。 この動向の上にIPRが位置する。 IPRは排日移民問題による日米関係から悪化の緩和が設立の直接的な動機。 1925年にホ

          太平洋問題評議会

          学科では教わらない共産主義 1

          第二次世界大戦以降中国共産党によって滅ぼされた国  満州国 、 東トルキスタン(ウイグル) 、 チベット 。 モンゴルは国土の半分を中国に奪われた。 日本ももちろんその一つになる予定であった。 日清戦争勝利後 日本に中国人留学生が増え、日露戦争を勝利するとさらに数は増える。 日本も大亜細亜主義を掲げて中国を民主国家にすることで、欧米列強に立ち向かう信念を抱いていたため中国人留学生のための学校を設立、名門大学も留学生を受け入れて支援していた。 日露戦争後、日本で

          学科では教わらない共産主義 1