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ホン雑記 Vol.648「生そのものの衝動よりも死を回避する衝動が前になっているから」

とうとう安全地帯の一角が欠けてしまった。

昨日たまたま観たNHKの「SONGS」で、ドラムの田中裕二氏が外人さんに変わってたんで「そういや最近調子悪かったんだよなぁ」なんて思ってたところだったのだ。

そしたらいまさっき、ヤフニュで彼の訃報を知った。そうか~。


オレはホントに人に興味がないんで、好きなバンドって言っても全員メンバーの名前覚えるなんてことがない。だいたいボーカルとギターぐらい。全員言えるのは、ブルハとボウイと安全地帯ぐらいだったのだ。

安全地帯の中で、ドラムの田中氏は玉置浩二に次いで好きだった。
なんかね、同じニオイを感じるんだな。中性的というかユニセックスというか。あ、オレは見た目はまったくユニセックスじゃないけど、メンタル的に。メンユニ。

5人で適当に音合わせしてる時でも、ずっと玉置のほう見てるんだよね。楽しそうに。成人男性であんな顔する人あんまり見かけない。
「うわぁ、すごいボーカルがいるー」ってな感じでハート目になってるんだよ。ライブなんかでも何回か目がウルウルしてるのを見たような気がする。

これって地味にすごいことだ。最近オレが提唱している「接触不可視の法則」ってのがあって、まぁそのまんまで、触れてるものは認知することができないって法則ですわ。その最たるものは「幸福」だわね。自分の能力とかもそうだわね。
永ちゃんの奥さんとか、たぶん家で「キャーッ! YAZAWAが居るわーっ! 家の中なのにYAZAWAが居るーっ!」ってなってないと思うんだ。もう接触しちゃってるから。すごさがわからなくなっていく。もちろんそれは本能なんだけどさ。それがなかったら「次第に緊張がほぐれる」っていう事象も起こらないんだと思うしね。

でも田中氏はずっと「うわぁ、玉置、歌うんめー」って感じなんだよね。もうライブ映像ひとつ見ただけで朗らかな気分になると思うわ。

オレはこういう子供のままの部分を残した大人って、すんごい艱難辛苦を超えて、そうなったんだろうなぁと思う。
「オトナになれよ」って人はわりと子供だとオレは思うし、コドモっぽく見える人は大人だったりするんだろうと思うんだけど、結構顔には逆に出るよね。難しそうな厳つそうな顔したオジサンやヤクザ屋さんなんかは子供っぽいなぁと大人になってからのどこかでオレは思ったさ。



これはまったく批判ってわけじゃないんだけど、コメントで、そして世間で見かける訃報への「残念です」がだんだん違和感湧くようになってきた。
これはオトンが死んでからかもしれんけど、人が死んだら、地獄か普通か、って感じになった。
当事者は地獄のようなもんだし、そうでない人は普通に物語に見える。なので「残念」って言葉を見かけると「え、それホントのホントにそう思ってる? それってホントに『残念』であってるの?」って思えてしまう。これ、そっち側の人にはどう考えても批判に見えるな。自分でもそう思う。

でもよ、もし「死ぬことが」だったり「まだ若いのに」だったりが本当に残念なら、「葬式の参列者は多いほうが良い」ってテーマに「真である」と答えてるのと同じラインにそれはあるってことだ。
そんなわけないわな。承認欲求モンスターならいざしらず、数字の多寡だけでわかるもんじゃない。オレたち人間はな(byベジータ)。

いかん、フザけてぼやけてしまう。ホント友達の数とか、楽しかった思い出の数とか、成功体験の数とか、そんなもんは幸福に一切関係ない。
楽しかった思い出の数、は自分でも言ってて揺らぎそうになるけど、これも実はまったく関係ない。普段接触してる社会の価値観からすると不可視になりやすいけど、良き思い出すらも関係ない。
みたいよ、どうやら。遥けき境地だねぃ。



がばいばあちゃんが幼い日の洋七少年に、
「全然かわいそうじゃなか。あの人はあの歳で逝くのがちょうど良かったんよ」
と言って聞かせたというけど、ホントにその通りだと思う。

素晴らしい一冊の本を読み終えて、残念という感情はオレはあまり湧かない。




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