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「性的求愛」行動としての芸術とビジネス

1.性的求愛のための身体・行動

誰もが知っているクジャクの美しい羽根、雄鹿の巨大な角、これらはメスに対する性的なアピールであり、繁殖のための競争を勝ち抜くためのディスプレイだ。多くの動物において、その目的のために驚異的な形やサイズになっており、これらは、実は一般的な生存条件において大きなハンディキャップになっているのである。例えば、クジャクの装飾は、飛行にとって不利であり、尚且つ敵への視認性を高めることになる。

ダーウィンはこれを「性淘汰」と呼び、自然淘汰のモデルと峻別した。そして、装飾以外に、多くの動物たちによる歌やダンス、複合的な表現を、「性淘汰の行動」として説明をした。オスは自らの力と美を誇示したり、競争相手と戦って勝利することで、メスとの性交を勝ち取ろうとするわけである。どの動物においても、自らの子孫を残すためにたいへんな犠牲をはらうのである。

もうひとつ性淘汰で重要な点は、もう一方の性(多くの場合はメス)が配偶相手を「選択する」という行為である。メスが特定の身体的特性をもったオスや特定の行動を行うオスを好み、選択するためにこのような性淘汰が成り立つ。メスは自分の子供たちの生存にもっとも有利だと思えるオスを選択する。それは、メスとの性交をめぐってオス同士が戦いをした場合、メスは必ずしも勝ったオスを選ぶわけではないという事実からも分かる。

2.暴走的淘汰

性淘汰は常に自然淘汰と対立関係にある。雄ジカの角の発達はひとつの例である。この角は、ただ(他の雄と戦い)セックスする機会を増やすためだけに巨大化しており、環境に全く適応していない。迫ってくるヒョウから逃げたり、新しい食料を見つけ出すという点でよいことなどひとつもないのである。場合によっては自らを傷つけ命を落とすこともあると言う。

ロナルド・フィッシャーは、このプロセスを「暴走的性淘汰」と呼んだ。配偶相手を見つけるために、生存にとってハンディキャップであるような華麗な特性を作り上げ、なおかつそれを加速していく循環的なプロセスのことである。

3.人間における「性淘汰」と歌

人間における性淘汰に関しても、ダーウィンは、人間が他の霊長類と大きく異なる点として、体毛の不在、つまり露出した肌を性淘汰によるものと考えた。そして自己彩色を施し、刺青を入れてきた。また8万年~12万年前より、人間は貝殻や動物の歯などの装飾品を身に着けてきた。

またダーウィンは、歌に注目した。鳥類、とくに鳴禽類と人間との間で音楽に対するいくつかの生理学的類似性を指摘した。鳥の「歌」は交尾期間のみつくられ、音楽能力と調音器官はオスしかない場合が多い。また多くの昆虫、両生類、水棲哺乳類においても高い調音器官を有しており、典型的に性的求愛のために利用されている。ダーウィンは、「音調」「リズム」「抑揚」によって独特の感情を引き起こすと考えた。

しかしながら、陸上の哺乳類はこのような歌を歌うケースはほとんどない。霊長類においても人間だけがこの技能を進化させてきたと考えれている。現在残る人骨から、人間が明瞭な発声ができるようになったのは、50万年から160万年前と推定されており、ネアンデルタール人が音楽をすでに持っていたと推測する学者もいる。いずれにせよ人間が言語より先に音楽ができたというダーウィンの仮説は正しいとみなされている。

ただ、ダーウィンは人間の場合は、音楽に関して、オスが求愛のために歌うというほとんどの動物のパターンではなく、女性も異性を魅了するために音楽の力を獲得し、男女両方による「相互求愛と相互競争」の仮説を立てるに至る。そして次のように述べる。

情熱をこめた弁士、吟遊詩人、音楽家などが、その音楽的調べによって聞き手に強い感情を引き起こすとき、彼らが、人間の祖先がはるか昔に、求愛と競争においてたがいの情熱を喚起させるために使っていたのと同じ手段を用いていることには、ほんの少しの疑いもない。

「人間の由来」(チャールズ・ダーウィン)

4.芸術や社会における「性淘汰」

ヴィンフリート・メニングハウスは、上記のダーウィンの文章から「声と音楽の力」のみならず、弁論術あるいは修辞学にも新たな隠れた性的な意味を付与していると解しており、さらに「誌的な言語使用もまた・・・性的求愛の実践への無意識の連想的な参照から感情のエネルギーを引き出し続けている」(「ダーウィン以後の美学」)と指摘している。

また、メニングハウスは、音楽と言語の類似性を語ると同時に、性的求愛に代わる「商業的求愛」の事例として「広告」を挙げており、画像、音楽、発語を組み合わせて欲望の注入を行う際に同じメカニズムを利用し、性的連想を組み込んでいると言う。

さらに進んで考えるならば、小説、詩、短歌のみならず、すべての音楽、映画、ドラマ。広告やTV番組など商業的なメディアにおいて、性的な求愛活動の影響が多く見られることも偶然ではない。

また、現代の人類においては、オスの求愛活動の重要な点は、装飾を華麗に施すことよりも金銭的な成功を見せることかもしれない。それに加えて、その金銭的な成功をもたらすことのできる能力を示すことかもしれない。それは、スポーツや芸術の才能であり、学歴であり、強靭で健康な肉体などであろう。

芸術家が、自らの技術や知力を日々高める努力をして少しでもパフォーマンスを上げようとする意識において、その芸術のオリジンが暴走的性淘汰、つまりセックスの機会を増やすための死に物狂いの人類の本能であったとしても、その芸術の価値が変わるものではない。

5.ビジネスにおける性淘汰

言うまでもなく、音楽や小説、ドラマ、CMにおいては、今なお性的な連想は重要なファクターである。しかしながら、ビジネスにおいてはそのような直接的な関連を感じる場面は一見無いように思える。ところがよく見ていくと、必ずしもそうは言えない。

1.同種間の戦いを性淘汰というならば、同じ業界での競合状態、そして勝つための戦略は、動物のオス同士の戦いに類似しており、「暴走的性淘汰」を生み出す可能性がある。例えば、商品やサービス間の競争が激しくなってくると、質を高めたり、価格を下げたり、CMで差をつけようとする。会社や社員がそれに集中することで回りが見えなくなる。やがて一部の企業が倒産するまで過度な競争が進んでしまうのだ。

2.金銭的な成功は明らかに「性淘汰」の勝者を生み出す。その勝者になるために、人びとは働く。日々のビジネスパーソンの仕事はこれに尽きる。もちろん合法的に収益を上げるために日々奮闘しているわけだ。ただ一方では詐欺や横領などの不正な手段を使って利益を上げようとしたり、ギャンブルにて一攫千金を狙ったりする人々ももちろん出てくる。

3. M&Aにおける会社の買収提案や企業間の様々な協業提案などにおいて、複数社が競うケースが多くある。その際の提案書は、まさに性淘汰の雄ジカの角だ。ストレートに配偶者を求めるメッセージとともに情熱を示すわけである。多くの場合、契約書などに最終的に落とし込まれるが、あまりにも高い買収価格を提示したため、その後大きな問題を抱えて倒産したり、売却を余儀なくされるケースもある。まさに「性淘汰」と「自然淘汰」の対立関係である。

4. 財産的な状態、能力的な優劣は、たとえ「性淘汰」から発生したものであっても、社会に間違いなく深刻な格差を生み出す。しかもそれはその後も「性淘汰」として親から子、子から孫へと直接的に継続していく。いわゆる親ガチャという不平等を生じさせているのである。

メニングハウスは、進化論において、ダーウィンの自然淘汰の理論(「種の起源」)が多くの研究者をひきつけ数多くの調査が行われ、またその理論も成熟してきたのに対して、性淘汰のプロセスに関する理論(「人間の由来」)はまったく手を付けられることもないまま放置されて来たという。

芸術および社会、ビジネスにおいて「性淘汰」がどのように関わってきたのか、また現在どのような関係性があるのかを探求することで、新たな視点が生まれるはずである。それは、私たち人間すべてが、猿人の時代から今に至るまで、「性淘汰」の強い影響を受けて毎日をおくってきているという事実からも明らかではないだろうか。

               【完】

    参考文献:
    チャールズ・ダーウィン「人間の由来」
    ヴィンフリート・メニングハウス「ダーウィン以後の美学」
    ロバート・ウィンストン「人間の本能」