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005 “PEAK” by Anders Ericsson and Robert Pool

アンダース エリクソンらの “PEAK” を読んでみた。
”PEAK How to master almost anything", Vintage, 2016


邦訳が「超一流になるのは才能か努力か?」というタイトルで文藝春秋から出ているが、タイトルが怪しげ(販売数が見込めるビジネス本として売りたいようだ)なので、ここでは上記英語版による。

引用文は英語版からのわたしの訳(というかGoogle翻訳先生訳)。


主題


アスリート、音楽家、科学者、ビジネスマン、それぞれの分野で並外れたパフォーマンスを発揮する人がいる。それはどこからくるのか?

A:もって生まれた才能
B:努力の結果

世間では、そういう人を「素晴らしい才能に恵まれた人」だとという。
でも、エリクソンらは、Aの立場をとらない。
いくつも実例を示しながら、これを否定する。

私たちは今、事前に定義された能力などというものは存在しないことを理解しています。脳は順応性があり、トレーニングにより、絶対音感など、以前には存在しなかったスキルを生み出すことができます。

人々が一定の可能性を持って生まれてきたと考えることはもはや意味がありません。むしろ、可能性は拡張可能な容器であり、私たちが生涯を通じて行うさまざまなことで形成されます。

Introduction

さりとて「願望と努力だけでパフォーマンスが向上する。」
これも間違いだという。

練習すれば改善できること、そして多くのことを改善できることを人々に知らせることは確かに重要なことだ。しかし、これらの本は、心からの願望と努力だけでパフォーマンスが向上するという印象を残すことがある。
「それで作業を続けるだけで、そこにたどり着くことができる。」
これは間違いだ。

Introduction

「これらの本」の中の一つに、Malcolm Gladwell の Outliers (2008) が含まれるであろう。この本では、エリクソンらの研究も紐解きながら、卓越した存在になるには、10,000時間(週20時間で10年)の努力が必要だとする「10,000時間ルール」を主張。

何かを成し遂げるには、生まれ持った才能ではなくて努力なのだ、という主張は、多くの人に勇気を与えるであろうし、「10,000時間ルール」というキャッチーなフレーズは、頑張ろうとする人々に一定の目標を与えるだろう。(だからベストセラー書になる)

でも、エリクソンらは、「これは間違いだ」という。努力だけではだめで、必要なのは Deliberate Practice (慎重な練習)だという。(後述)


記録は伸び続ける


1908年、オリンピックでマラソンの世界記録を樹立したヘイズの優勝時間は、2時間55分18秒。100年後の現在、マラソンの世界記録はヘイズの記録時間よりも30%近く速い2時間2分57秒。
腕立て伏せの世界記録は、ノンストップで10,507回。
円周率を暗記する競技での記録は、1973年:511桁→2015年:10,000桁。
それぞれの記録は驚異的で、しかも伸び続けている!

私たちは、人類の歴史上、他のほとんどの時代の視点からは不可能と見なされていたであろう、並外れた能力を持つ人々でいっぱいの世界に住んでいる。
しかし、その能力は並外れたものだが、これらの人々がどのようにそれらを開発したかについてはまったく謎はない。20世紀の後半に見られたのは、さまざまな分野の人々がトレーニングに専念する時間が着実に増加し、トレーニング技術の高度化が進んだことでによる。

Section 1. The Power of Purposeful Practice

上記の驚異的な記録は、天からの「贈り物(gift)」などではない!
多大な時間を掛けた努力と、トレーニング技術の高度化によるものだ。


適応性


正しいトレーニングを積むことで、身体はその能力をどんどんとあげていく。(腕立て伏せの例で、普通の成人男性はよくて数十回なのに、ギネス記録はMinoru Yoshidaの10,507回)
言い換えると、人体は信じられないほど順応性がある。

脳も、身体と非常に類似した程度と多様な適応性を持っていることが種々の研究から示唆されるという。この種の適応性、または神経科学者が言うように「可塑性(plasticity)」の初期の観察のいくつかは、視覚障害者または聴覚障害者の脳が、通常は脳の部分の新しい用途を見つけるために自分自身を「再配線」する方法の研究で垣間見れる。

なぜ人体と脳はそれほど順応性があるべきなのか?
皮肉なことに、それはすべて、個々の細胞や組織がすべてを可能な限り同じに保とうとしているという事実に由来している。

Section 2. Harnessing Adaptability/ADAPTABILITY

生き物(または生き物の一部)には、自身の安定性を維持するように動作する傾向(ホメオスタシス)があり、高い負荷が継続すれば、それに順応するフィードバックメカニズムが働く。

例えば、
ジョギングを継続する
   ↓
(ジョギング中)脚の筋肉に供給する毛細血管の酸素レベルが低下(恒常性が乱された状態)
   ↓
足の筋肉細胞により多くの酸素を供給しそれらを快適ゾーンに戻すために、新しい毛細血管を成長させる(恒常性を取り戻す反応)

このように、われわれの体は、負荷に順応するように、身体を変化させている。

ここで注意すべきは、負荷が一定なら順応した時点で安定(快適ゾーン)になり、それ以上の改善は生じない。このため、持続的に改善を行うためには、持続的に負荷を上げ続けなければならない。

脳では、課題が大きければ大きいほど、変化も大きくなる。
最近の研究では、新しいスキルを学ぶことは、すでに学んだスキルを単に練習し続けるよりも、脳の構造変化を引き起こすのにはるかに効果的であることが示されている。
ただし、強く押しすぎると、燃え尽き症候群や効果のない学習につながる可能性がある。

(効果的な)トレーニングは、本質的に、脳と体の適応性を利用して、他の方法では手の届かない能力を開発する方法である。

Section 2. Harnessing Adaptability

ほとんどの人が「並外れた身体能力」を持っていない理由は、彼らがそれらの能力を持っていないからではなく、むしろ彼らは恒常性の快適な轍に住んでいて、それから抜け出すために必要な努力を決してしないことに満足しているからである。


「一流」になるためには


本書の中で、マルコム・グラッドウェル(Malcolm Gladwell)が 『アウトライアーズ(Outliers)』で提唱する「1万時間のルール」を、以下の点を挙げ否定している。

  1. 「10,000時間」という値に、特別なことや魔法のようなことは何もない。
    その時間は分野ごとに異なる。(当然目指すレベルによっても異なる)

  2. 事実(エリクソンらの研究内容)を誤解し、そのグループのすべてのバイオリニストが1万時間を超えて蓄積したと誤って主張している。

  3. 慎重な練習 (Deliberate Practice、DP)と、広い意味での「練習」を区別していない。

  4. 多くの人々が、ほとんど誰もが1万時間の練習をすることで特定の分野の専門家になることができるという約束としてそれを解釈したこと。


エリクソンらは、「一流になるには、相応の時間が必要である」ことは合意するが、「時間をかければ一流になれる」ことは否定する。一流になるには、相応の時間をかけ「慎重な練習(Deliberate Practice)を行うこと」が必要だという。


慎重な練習(Deliberate Practice)


「漫然と練習していると上達には限界がある。それを超えて一流になるためには『慎重な練習』が必要だ。」エリクソンらは、そう主張する。

では、「慎重な練習」とは何か?

deliberate は、「よく考えた、熟考した上での」「〔行為などが〕意図的な、計画的な」という意味なので、ここでは「慎重な練習」としておく。邦訳版では、「限界的練習」と翻訳されているらしい。

「慎重な練習」の特徴として、以下を挙げている。(Section 4. The Gold Standard)

  1. エキスパートパフォーマーの能力とそれらの能力を最もよく開発する方法に精通している教師またはコーチによって設計および監督されるべき。

  2. 常に自分の現在の能力を超えたものを試す必要がある。

  3. 明確に定義された具体的な目標が含まれ、多くの場合、目標パフォーマンスのある側面を改善することが含まれる。漠然とした全体的な改善を目的としたものではない。

  4. 意図的なもの、つまり、人の完全な注意と意識的な行動が必要。

  5. フィードバックと、そのフィードバックに応じた取り組みの変更が必要。

  6. 効果的な心的表象(mental representations)を生み出し、それに依存する。

  7. 以前に習得したスキルの特定の側面に焦点を当て、それらを具体的に改善するために取り組むことによって、それらのスキルを構築または変更すること必要。

クラシック音楽の演奏、数学、バレエなど、トレーニング方法が確立されている分野なら、一流の指導者のもとで練習するべき(1)だし、前出の適合性の観点から、常に負荷を上げ続けるべき(2)。

そのほか、3、4、5、7も、きっとその通りだと思う。
30年にわたる研究の重みはあるものの、言っていること自体は普通に思える。

ここで、注目すべきは、6の「心的表象(mental representations)」である。

ここでは、”mental representations” を「心的表象」と訳すことにする。
つかみとりにくい概念であるが、「慎重な練習」の鍵となる概念ではないか。


心的表象(mental representations)


肝心なのはあなたができること(スキル)であり、あなたが知っていること(知識)ではない。

Section 5. Principles of Deliberate Practice on the Job

そして、知的な課題、特に認知的に複雑な課題においては、「心的表象」がカギを握る。

しかし、「心的表象」は客観的に捉えられないし、本人自身もその存在を(あえて探ろうとしない限り)意識することができない。だからこれまで、「スキル」とか「勘」とか「経験」とか、曖昧な概念でしか語られてこなかったし、科学的な研究対象としては捉えられてこなかった。
本書では、これを「心的表象」というタームの元に、そのいくつかの側面を描写してくれている。

チェスのグランドマスターは、チェス盤を数秒見ただけで、ほぼ完全に駒の配置を再現できるという。でもそれ以上に、進行中のゲームを一目見るだけで、どちらの側が有利なのか、ゲームの方向性は何か、良い手は何かを即座に把握することができる。研究によると、他の人たちとチェスをプレイするのに費やした時間ではなく、ゲームの分析に費やした時間こそが、チェスプレイヤーの能力を予測する最も重要な指標であることがわかっている。

こんな例が示される。

犬を見たこともない人がいたとして、この人が「犬は毛皮で覆われていて、4本足で、肉を食べ、群れで行動し、訓練することができる」と犬の概念を紹介されたとしても、それぞれは単なる孤立したデータでしかない。

しかし、徐々に犬の周りで時間を過ごし、犬を理解し始めると、このすべての情報は、犬というコトバで表される1つの全体的な概念に統合される。今、その言葉を聞いたとき、犬に関するさまざまな詳細をすべて覚えるためにメモリバンクを検索する必要はなく、代わりに、そのすべての情報にすぐにアクセスできる。あなたはあなたの語彙だけでなく、あなたの心的表象のセットにも犬を追加したのだ。

Section 3. Mental Representations

わたしたちにとって「犬ってなに?」これは愚問である。
「犬は犬だろ!そんなの常識!」というところの「常識」が、心的表象なのだろう。

コトバが命題の形をとらず、画像だけでもなく、総合的なイメージとして把握されている。
意識的とはいえず、でも、意識的な活動を陰で支えている、そんなものが「心的表象」なのだろう。

心的表象が、それなりに形成されるにはそれなりの時間を要し、しっかりとした安定した質の高い心的表象に育つには、適切で、かつ、相応の長い時間を必要とする。

慎重な練習で脳の中で正確に何が変わっているのか?
専門家が他の人々と異なる主な点は、彼らの長年の練習により脳の神経回路が変化し、高度に特殊化された心的表象が生成され、その結果、特定の専門分野で優れているために必要な驚異的な記憶力、パターン認識、問題解決、その他の高度な能力が可能になったことです。

Section 3. Mental Representations

心的表象があまり発達していない人々にはランダムまたは混乱しているように見えるものでも、訓練された専門家には、意味のあるパターンを見いだすことができる。これが専門家のパフォーマンスの特徴であり、言い換えれば、「素人が木だけを見ているときに、専門家は森を見る」。

専門の診断医は、最初は密接に関係していないように見えるかもしれない事実でさえ、一度に多くの異なる事実を考慮できるようにする洗練された心的表象を構築している。これは、高度に発達した心的表象の主な利点であり、一度に多くの情報を吸収して検討することができる。

専門の診断医に関する調査によると、症状やその他の関連データは、孤立した情報ではなく、より大きなパターンの断片として見られる傾向がある。これは、グランドマスターがランダムな組み合わせではなく、チェスの駒のパターンを見るのとほぼ同じである。

診断医学の心的表象がまだ初歩的である医学生は、症状を彼らが精通している特定の病状と関連付け、すぐに結論に飛びつく傾向がある。複数のオプションを生成できない。

Section 3. Mental Representations

頭脳を用いる分野で、専門家が専門家たる所以は、時間をかけて経験の中で培った「心的表象」をもっているからであるとしている。

なるほど、誰もが思い当たる節があるのではないだろうか。
どんな分野であれ、ベテランと新人の違い、一流と二流の違いは、言語表現しにくい何か、センスとか勘とかのあいまいなことばで表される何か、これを本書では「心的表象」ということばで示し、その断片をいくつか描写してくれている。


おわりに


本書でも触れられた外科医をはじめとし、技術者でもビジネスマンでも、そのような職種には知識や決められた手順だけでは対応できない認知的複雑さ(cognitive complexity)が存在する。

認知的複雑さが高い職種では、仕事の出来栄えは、その人のなかに育まれた「心的表象」の質に依存する。逆に、必要な知識と決められたスキルを学べば対応可能なような単純な業務では、「心的表象」の重要性は高くない。

したがって、多くの業種で、(重要度合いには差があるものの)どのように健全な「心的表象」を育むかが、組織のパフォーマンスを左右する重要な課題となる。

しかし、「心的表象」はどこまでも個人的なものなので、客観的な評価は難しく、したがって「科学的」な「合理的」な議論にそぐわない対象である。

ここで、プラトンの「メノン」における、「知(knowledge)」と「正しい思わく(right opinion)」の対比が思い出される。

行為の正しさということに観点を置くなら、正しい思わくは、導き手として「知」になんら劣るものではないことになる。正しい思わくは、知識になんら劣らない。

(では、なぜ知識は、正しい思わくよりもずっと高く評価されるのか?)
正しい思わくというものは、我々の中にとどまっているあいだは価値がある。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから、それほどたいした価値があるとは言えない。ひとがそうした思わくを原因(根拠)の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。

プラトン「メノン」、岩波文庫、P117

西洋思想の歴史においては、公共性のある「知(knowledge)」を追い求め、今日の科学技術の目覚しい発展に繋がっていった。

逆に、主観的で捉えどころのない「正しい思わく」、もしくは、「正しい思わく」を支える人間の思考メカニズムについては、知的議論の表舞台に現れることはすくなかった。

ところが、20世紀中頃から、ようやくこの「客観的とは言えないが、どうやらとても重要らしい」人間の思考メカニズムに関する議論が活発化してきている。ポラニーの「暗黙知」は、その一つと言える。

プラトンの「正しい思わく」、ポラニーも「暗黙知」、本書での「心的表象」は、それぞれ異なった意味合いを持つタームではあろうが、これまで「knowledge」の陰で脚光を浴びることのなかった概念が、ようやく表舞台に登場してきたことを嬉しく思う。




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