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004 ピーノ アプリーレ「愚か者ほど出世する」

日本語タイトルから、「昭和なサラリーマンが居酒屋で会社の愚痴で盛り上がる」ような内容をイメージしそうだが、なかなかどうして、内容は、シニカルでユーモラス、そして鋭い。

やたら理性を軸に置きたがる哲学書などとは逆に、本書は「愚かさ」についての考察であり、いくつもの思考の糧が詰まっている。



無能な上司が威張るのも、脳味噌空っぽの女子高生がモテるのも、モテない男子がキレるのもみんな理由があった!

出典:文庫版、帯

んーん…中央公論社は、おもしろおかしい「バカ本の決定版!」で売ろうとしようとしているようだが…



本の流れ


イタリア語のタイトルは、
Elogio dell’imbecille: Gli intelligenti hanno fatto il mondo, gli stupidi ci vivono alla grande   (愚者礼讃:知性が世界を作り、愚か者がそこに住んでいる)

どうしてバカがこんなにたくさんいるのだろうか。わたしはそのことをどうしても考えないではいられなかった。なにしろわたしたちは、ばかげた行為を平気な顔をして見ているのだ。わたしは自問せずにはいられなかった。われわれが習慣的にしていることのなかには意味のないことがごまんとあるのに、みんなはそれに気づいているのだろうか、それとも気づいていないのだろうか。みんながみんなバカであるわけではないのだから、そんなことはどうでもいい、なんてことはありうるのだろうか。

p14

冒頭の一文。これが作者の思索の出発点である。リアルにバカなことをする人の話ではない。一流企業やエリート達の行動を揶揄しての発言。


話は、著者が、動物行動学の大御所コンラート・ローレンツとの対談をきっかけに、ローレンツの知人である哲学教授と往復書簡で議論を戦わせる。著者は「知性は自然淘汰に必要だったその役目をもう終えており、一種の文化的な選択により、人間は、知性を利用しない方向に進んでいる」のではないかという説を主張するのに対し、哲学教授は、人間の知性を信頼し、より明るい未来へ進むと信じている。

ネアンデルタール人の昔に遡って、進化論的な必然とし、知性の退化について哲学教授と論戦を戦わせていく。このあたりが、読みものとしての面白さなのだろう。(学術的な観点で批判するのはお門違い。あくまで「読みもの」として捉えるべきと思う。)

ここまでがこの本について。
ここからは、文章を引用しながら、あーだこーだ考えてみた軌跡を残す。

この本で、魅力を感じたのは、読みものとしての面白さよりも、作者の表現力だった。


「創意工夫」と「反復」


人間の知恵は必要があれば(ほとんど)いつでも出口を見つけ出す。しかしひとたび問題の解決法を見つけてしまうと、もう知能を使う必要はなくなる。ただまねだけしていればいいわけだ。
ところが反復は創意工夫とは違う。そこで知的資質は衰えてしまう。刺激がなくなるからだ。

p29

「創意工夫」と「反復」が対比される。

並はずれて知的に恵まれただれかが自分の才能を共同体のために使ったとする。すると共同体はそれまでよりもっとバカになり、バカを量産してしまう。なぜならほかの人たちはただその人のまねをして、その人が考え出したことをせっせと利用するだけで、自分の知力を使うようにはならないからだ。

p98

そんな訳で、

利口なやつはバカのためにせっせと働き、結果としてバカを量産する。

p101

というところに帰結する。

作者は、意味のないばかげた行為を習慣的に行うだけの「バカ」たちに、いらだちを感じている。
なぜ奴らは「バカ」なのか?
奴らは、知的な人たちが成果を模倣(反復)するだけだからだ!


模倣(反復)を助長するメカニズムとその帰結


だれかが、あたらしい料理をつくる。
   ↓
その料理をレシピ化。
   ↓
レシピとおりにつくれば、その料理をいつでも供給できる。
   ↓ 
繰り返し料理を作りつづけることが、会社の売り上げにつながる。
   ↓  
繰り返し料理をつくることに専念する。
   ↓  
時がたち、今までの料理は陳腐化。
   ↓
あたらしい料理が必要だ!
   ↓
だれが作れるの?

反復は、短時間で、目に見える成果が期待できる。時代は、目に見える数字となって現れるものを過度に重視し、しかも短期間でそれを要求する。
いわく、「今年度の売上」「中期経営計画(と言ってもたかが3年)」 。

かたや、創意工夫を担う「社員の力量」なんて、すぐには育たないし数値化もできない。ましてや、それを育む文化などというものは、さらに曖昧。

なので、反復による成果を求めることが、合理的で効率的だとされる。
そして、長期的には「社員の力量」は弱体化していき、それを育む文化は破壊されていく。

バブル崩壊後、合理化と効率化に傾いた日本企業が弱体化していく理由が見えてくる気がする…


「模倣」の効用と弊害


考えてみると、われわれの文化は、先人の知恵の上に成り立っている。

科学技術は、今日のフロンティアが明日のノーマルになるかたちで、発展を続けている。

さらに、もっと根本的なところの例として、「ことば」も先人が事物・事象・観念にことばをあてはめることで、思考の幅を広げていく創意工夫の蓄積であり、われわれは、これらを受け入れることで、はじめて、文化を継承することが可能になる。まわりで使われている「ことば」を受け入れることが重要で、自分ひとりで考え出したりはしない。(してもいいけど)

人間文化の発展の核心は「模倣」にある、ともいえる。

人間文化の発展の核心は模倣にあるが、作者がいうように、
模倣(反復)するだけだと知的資質は衰えてしまう。
「刺激がなくなるからだ」というのは、少し違う気がする。知的資質を使うのは「技能」であって、ふだんから使う努力をしていないと、うまく使えるようにならないからだと思う。

文化が準備した「常識」を身にまとうこと、と、個々人の創意工夫。
ここにジレンマが生じる。ジレンマというか、バランスの問題。


「社会」とのかかわり方


階級社会がばかばかしいのは、それを構成するメンバーがそろってバカだからではなくて、機能上ほかのやりかたが不可能だからだ。
集団内の行動は単純な一般原則によって決められている。
いちばん大切な法則は、規律と習慣を守るべし、というものだ。

p123

知性は、人間社会では歯車のなかの砂みたいなもので、動きを止めてしまう恐れがある。切れ者がはた迷惑なのは、規則を守らずにそれに反発するだけでなく、そうすることによって官僚機構全体のスムーズな動きを妨げてしまうからだ。

p124

社会や組織は、規律と習慣によって円滑に動いている。
一見ばかげた規律や習慣であっても、それを捨てるわけにはいかない。
集団内の行動の一般原則(規律と習慣を守るべし)の下、人間の頭の性質(疑ったり、批判したり、新しいものを求めたりする)は、抑圧されざるを得ないという一面がある。

有能なものの多くは、自分が置かれた社会の構造が救いがたくばかげていることがわかると、じゃあ直してやろう、と誤ったことを考える。そして社会を少しはましにしようと努力するうちに、結局自分をだめにしてしまう。
けれどもなかには、そんなもくろみは失敗に終わることを知っている者もいる。彼らには見え見えなのだ。そんなもくろみは、ばかばかしいからこそ機能しているその組織ほど自分はバカにはなりたくない、というひどく見当はずれの願望から発していることが。

p126

社会人経験のある方なら良くわかると思う。
すでに習慣化された業務のやり方に異を唱えたり、変えてやろうとすると、ろくなことがない。どんな真っ当な改善に対してでも、必ず反対派が現れる。生理的に変化を嫌う人が意外なほど多いことに驚かされる。「社会を少しはましにしよう」とする努力は、なかなか報われないものである。

ましてや、世間の習慣や常識と戦うとなると、個人の力ではほとんど勝ち目がない。

学問の自由を守ろうと行動を起こしたスピノザ。
(そして、総スカンを食らう)

そんなもくろみは失敗に終わることを悟っていて、積極的行動を避けたデカルト。

人がふたりなら議論できるが、10万人では無理だ。スローガンを叫ぶことはできても、ひとつの概念を説明したり、ある考えをわかりやすく表現したりすることはできない。思索したり推論したりするには、ひとりでいるか少数でいるかしかないのだ。
言葉を変えれば、集まって多数になると、知的能力の開発が妨げられるだけでなく、たんにそれを使うことさえ満足にはできなくなってしまうのだ。
人間は寄れば寄るほどバカになる。
そして人は社会的動物であるから、結論は目に見えている。

p160

社会の中にあって、個々の知性はどう生かせるのか?
議論を通して、個々の知性をより良く活用する道はあるのだろうか?


おわりに


本書で扱われているのは、既存の習慣や価値観と個々人の持つ知性との軋轢とみれば、ギリシャの時代から繰り返し議論されてきた、普遍的なテーマともとれる。

大きな組織を合理的に管理しようとすると、個人の持っている(であろう)能力や知恵はスポイルされてしまう。本来もっと有能であるべき人物でも、組織に順応していく中で無能化されてしまう。

この、なんとももったいないシナリオ、なんとかする方策はないのだろうか?


『おかしくなっちゃった』と他人に思われるくらいのことでないと、新しいことなんかできやしないのだ。

糸井重里さんの名言集




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