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「保守」とは何か?ー教育と絡めてー

保守主義とは何か。保守とは一般的に右派のことを指す。しかし、近代保守主義の祖と言われるエドマンド・バーグは、実は保守党ではなく自由党に入党していた。そして、バーグの思想の根底にあるのは、常に人間の理性を疑うことであった。フランス革命を批判したことで知られるバーグは、革命を推進する一部のエリートが机上の論理を過信していること、人間は間違える生き物であるから、生活の中で培われた暗黙知(伝統)こそ大切にしながら漸進的に変えることを提言した。このような懐疑主義、絶対的な理性を疑うことこそが保守主義である。したがって、日本における「保守層」と呼ばれるような右派はバーグの定義には当てはまらず、むしろ真逆と言える。保守主義者であるとは、つまり自分をも疑うということであり、疑うからこそ反対の立場の者の意見も聞き、合意形成を取ろうとする。これは一般にリベラルとか、寛容と呼ばれる立場でもある。

私が思うに、教育に関わる人々はこの本来の意味ので保守主義の精神がかなり抜け落ちている。教育に対して誰しも思うことがあるし、持論を中心に教育を行っている。だからこそ、誰かが学ぶ内容を他の誰か(教師、専門家)が決めるという自由主義とは逆行した介入主義が平気で成立してしまう。自分が教えることは、あるいは教えることの意義は正しいと信じてやまないのであるから、教育することにためらいの気持ちは生じるはずがない。イリッチはこのことを「他人にとって何が必要な教育であり何がそうでないかを区別することができるとする妄想を抱いているのである」と批判している。そもそも教育という行為それ自体が、介入主義の極みであって、これを自覚しないからこそ学校を国家権力として認識できないのではないのか。

そして、保守主義の反語は近年著しい台頭を見せるテクノクラシー(専門家支配、エリート主義、あるいは科学信仰)だろう。生活知や暗黙知を信じるのではなく、専門家の意見を誰もが真っ先に求め、それは正しいと思い込んでいる。学校もテクノクラシーに陥っている。教師は教える立場を独占し、教師に教えられたこと、教師が教えるべきと選んだ教育内容こそが学ぶに値し、価値あるものだと誰もが信じている。しかし、イリッチの言う通りそれは「妄想」である。我々は学びの99%を学校ではなく、生活の中で行っているからである。
学校のテクノクラシーはついに道徳(道徳の教科化)や各人の思想信条まで「正解」を提示し、トップダウン方式で我々に押し付けるようになった。バーグ保守主義の思想は、このような学校にNOを突きつける重要な発想ではないか。

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