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「わかりにくさ」というわかりやすさ〜なぜ哲学書は難しいのか〜

哲学書はなぜわかりづらいのか

哲学書を一度でも手にとった人であれば、「ああ、なんで哲学書はこんなにも難解な文章なんだろう」と思うであろう。しかし、数年間経った後に同じ本を読むと、あまりの理解しやすさに驚くという場合もある。これはその哲学書に関連する知識や当時の社会情勢、著者の大まかな思考の枠組みを理解したあとだから何を言っているのかわかるという具合に、むしろ理解しやすい文章に思えるのだ。

こういう経験を、私は何度もした。わかりづらいと思っていた文章が、わかりやすいと思うようになる。それは、わかりづらい文章だからこそ、余計にわかりやすいという現象だ。特に哲学書において、このように感じる機会が多い。癖のある文章に慣れてきた哲学者であればあるほど、その「癖」がやたらと分かりすい文章に変えていく。

原典を読まないと、考えていることは伝わらない

私の感覚、想像していること、読んだ本で得た価値観を言葉にして伝達することは不可能である。伝達を試みる時、できるだけ分かりやすい言葉を選んで語る。しかし、分かりやすい説明をしているのだから、相手からは直感的な疑問や反論は無数に出てくる。というか、私の伝えたいことと実際に伝わっていることにはかなりの乖離があるからそうなるのである。

以前、ダルビッシュ有投手が前田健太投手にアドバイスする際に「俺はマイケンの体になって、マエケンの感覚でボールを投げたことがないから、正確なアドバイスはできないけど、、、」と前置きをしていた。これは哲学の世界でも同様のことが当てはまると思う。私は他の者が考えていることを正確に理解することはできない。どれだけ分かりやすく説明してもらっても、その者と同じ経験をした上で、同じ本を読んだわけではないのだから、口頭での説明で納得できるはずなどないのである。この事実は、自分の価値観や考え方について「わかりやすく」伝えようとすることが、むしろ逆効果になり得ることも意味している。逆に、わざとわかりにくく文章を構成することで、場合によっては分かりやすい文章になり得る。だから、この文章も分かりづらく書いている。結局は、少なくとも同じ哲学者の思想を理解しようと思ったら原典を当たるしかないわけだ。

そういう意味では、哲学書はわかりづらい方が良いのかもしれない。最近売れている思想系の本として『人新世の資本論』が有名だが、この本もわかりづらいと言われている。しかし、好評でもある。そもそも、共産主義陣営が冷戦で敗北してからマルクス主義者への社会的信頼は地に落ちていた。それをここまでマルクス思想の汚名返上をした斎藤幸平氏は、本当に大したものである。私としては、この本が売れた要因の一つに、「わかりづらかった」ということがあるのではないかと思う。わかりづらかったからこそ、わかりやすかった。わかりづらかったからこそ、批判にさらされづらかった。などの理由があるように思う。わかりやすさも考えものだ。わかりづらい文章も嫌なのだが、それでも魅力は確かにある。

私は今後、このダルビッシュのいう感覚を意識したいと思う。この感覚が少しでもあるならば、相手の言っていることを理解できないことは当然であるという前提から考えることができるし、それはすなわち同意形成をしやすくなる。

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