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教育とは、洗脳である。

この記事は、性的な表現、性暴力に関する記述を含みますのでご注意ください。

「教育」とは、一体何なのだろうか?

この問いに答えてくれるような新聞記事が、私の目に飛び込んできた。

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中国が実質的に支配している新疆ウイグル自治区では、少数民族であるウイグル族の監視や統制が行われている。

学校は自らの言語で教えることを禁止され、民族浄化だと非難され続けている。

そして、その統制の方法とは、中国による女性らへの性的暴行、虐待、拷問を行うというものであった。

そして、このような仕打ちを中国は何と呼んだだろう。

「再教育」である。

私は「ああ、教育とはこういうことだったよな」と歴史を思い返した。

教育政策というのは、必ず「国家」や「権力」にとって都合の良いように作られている。

教育政策の第一人者であった元東京大学教授の宗像は、権力は常に自己の維持に役立つ教育を欲するのだと言っている。

教育と国家権力は切っても切り離せない存在だ。

教育を、多くの教育学者は「人が他者を変えること」とか、「他者の学習に対して意図的、組織的に働きかけること」と定義している。

ここで大切なのは、教育によって変えられた人が、良い方に変わったか、あるいは悪い方に変わったのか、は問題になっていないということだ。

つまり、私たちからみて、ウイグルの人々が明らかに人権を侵害され、中国にとっての「良い」状態へ、私たちからしたら「悪い」状態へ変化しているが、

これは全て立派な「教育」なのである。

そもそも良い悪いという判断そのものが主観的なのだから、当然こうなる。

戦前の日本もまさにそうであった。

国のために死ぬことが「良い」ことと「教育」されていたのである。

それは今に私たちにとっては正義ではなくとも、当時の彼らにとっては正義であり、「良い」状態だったのだ。


これを読んでいる方々は、教育をどう捉えていただろう?

人をよりよく導くとか、もっと抽象的にキラキラした良いものとして捉えていなかっただろうか?

私が思うに、教育とはもっと残酷な行為である。

それは歴史を見れば明らかである。


しかし、一方でこのような抑圧された状況を変えてきたものもまた教育なのだろうと思う。

つまり、ウイグルの人々が「これはおかしい!」と声を上げるには、おかしいと思えるだけの教育を、解放されるための教育を受ける必要がある。

ここの教育というのは、学校で教えるとかそういうものではなく、人々同士で集まり、議論したり、誰かの演説を聞いたり、様々な知識の伝達を「教育」と呼ぶこともできるだろう。

少なくとも私は、そういう抑圧された状態、言論の自由も、集会の自由もない状況からしか、「教育とは何か」という問いに答えられないのではないかと思う。

ユネスコ学習権宣言は、学習権を「歴史をつづる権利」とも表現している。

こうした残虐な民族浄化の歴史が、かいざんされることなくつづられ、後世に語りついでいくことこそが本当の「教育」なのかもしれない。


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