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「フォースと共にあれ」と言う師匠は、今の時代を生きる私たちにこそ必要?

「俺の若い頃は“目で盗め”だったから、今の若い子にそもそもどう教えたらいいのかわからないんだよね」

だから、あまり教えない。

最近、父とよく仕事の話をするようになって、ふと父が言った言葉だ。

私の父は根っからの職人気質だ。
この言葉を聞いた瞬間、「日本の伝統的なものはこうやって消えそうになっているのか。」と思った。

今の時代はなんでもネットで調べたら出てくる。わざわざ先生や上司に聞かなくても、世界中の情報にアクセスできるのだ。

「Google先生に聞いてみよう。」
私も何度もこの言葉を使った。

今の時代を生きる私たちにとって、“師”とは何なんだろうか?

この人について行きたい!
この人のもとで学びたい!

まだ社会に出たばかりでよくわからない20代の時に、Google先生やSNSで何でもかんでも聞いて、出会う人々にすぐ白黒付けてしまっていないだろうか?

20代にはわからないことがある。経験していないのだから、当然のことだ。

わからないことをGoogle先生に聞いて、知ったように振る舞うのは簡単だ。だけど、知っただけで、経験はしていない。

人生の先輩たちに学ぶことは多い。

たとえ、時代が変わっても“生きる”という本質は変わらないのではないのだろうか。

私たちが「良い師だった」と思うのは、きっと経験した後だ。
なんだよ!偉そうに!と不満を抱えて、その時は、その師のもとにいるのが辛いことも多い。気づいたら自分が成長していて、改めて師の存在を実感する。

“とにかくこの人を信じてついて行こう”

そう思えるのは、その人の本質が見えた瞬間ではないだろうか。それは、浅い会話や時間だけではわからないものだ。

ネットにあるのは情報だ。
その情報を解釈するのは自分。
浅い経験しかない自分は、まだまだネットにある情報は、浅い解釈しかできないだろう。

人生の先輩たちは多くを語らない。

それは話しただけでは、ネットに落ちている情報と同じだからかもしれない。

話を聞いただけでは、その経験の月日は実感できない。

“身をもって学ぶ”

こうやって考えていると、この言葉がすごく重く感じてきた。

師とは、身をもって学ぶ弟子を、ときに導き、ときに見守る存在なのかもしれない。

ネットに囲まれた世界で、私たちがもっと生き生きと人間らしく、ネットに支配されずに生きていくには、

いつもそばに居てくれるGoogle先生ではなく、 “師”のような存在が必要なのかも。

教えて欲しい!ではなく、
学ばせて欲しい!という姿勢は、全然違うものに思う。

冒頭の“目で盗め”は、弟子の立場でいったら“学びたい”という姿勢ではないだろうか。

Google先生が何でも教えてくれるからこそ、この“学びたい”という気持ちが、ネットに囲まれて育った私たちには薄れていってしまってるのかもしれない。

知りたい!ではなく、学びたい!と思うことがあるだろうか。

私はすごく短期間であったが、師と呼べる人に出会えて、その期間はものすごく成長できたという実感がある。

その時は、とにかくこの人について行こうと辛くても我武者羅にやっていた。
手取り足取り教えてもらったわけではなく、その人から学び取ろうと必死に喰らいついていた感じだ。

「フォースと共にあれ」という、師匠と弟子は、映画や物語の世界だけのものではない。

情報過多な今の私たち、じつはとても必要な関係性なのかもしれない。

“情報”はあくまでも“情報”。

そう、まさに“フォース”だ。その扱い方がまだ未熟なままでは、私たちはまだ“情報”の操り人形なのだ。

あっという間に私たちは、“情報”の暗黒面に囚われてしまうだろう。

私が地に足がついていない感覚があるのは、もしかしたら新たな“師”を求めてるのかもしれないと思った。

それは執着や頼る・教えてもらうという自分が受け身になるではなく、こいつから学び取ってやる!という攻めのエネルギーを感じられる存在だ。

#フォースと共にあれ #師弟 #情報社会

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