見出し画像

「春が来たよ」と思わせて


 二十四節気の小寒に入り、これからが寒さの本番。被災された方々にはどうか暖かな環境をできるだけ確保して、御自身の心と体を冷やさぬようお過ごし頂きたいと思う。


 北九州の街の景色もすっかり冬枯れ色に包まれている。しかしながら春の訪れの中に夏の気配が隠れているように、秋の訪れの中に冬が潜んでいるように、冬の真只中にあっても、そこにはすでに春の息吹きが見え隠れしている。

先日、冷たい雨が降りしきる朝に、よく出かける市内の植物園に行ってみた。重く垂れこめた雨雲の下は光が乏しい。それでも思いがけなく、園内の小道沿いには早くもスイセンや菜の花、チューリップ、そして早咲きの桜が一輪二輪と小さく、奇蹟のように咲いていた。

この時期は冬牡丹の花も展示されている。
冬牡丹は春に咲く品種を温度管理によって、
「春が来たよ」
と思わせて咲かせたものとのこと。

霜や積雪を防ぐための「わらぼっち」と呼ばれる藁囲いをかぶり、寒さに耐えながら、静かにじっと祈りを捧げているような姿は、どことなく健気で愛おしい。
どれほど暗い夜であっても夜明けの来ない朝はないということを、一番よく分かっているのは冬の花ではないかと思う。冬の花たちは眠り込んではいるわけではない。小さな春の気配が訪れるのを日々心待ちにしているのだ。

人もまた心が重く暗い時には、光の兆しが何処かに潜んでいないか辺りを見渡し、遥か彼方の地平線上にうっすらと光の気配が現れていないか、暗い道端に名もない花が一輪咲いていないかを探してみる。
もしもその兆しが見えたなら、
「夜明けは近いよ」
と自分で自分に言い聞かせる。
これは自己暗示というよりも、決心というものに近い。他の誰かが言ってくれる訳ではなく、自ら言葉にするしかないからだ。

すると蝋燭の芯に炎が乗り移るように、新たな希望の光が生まれる。固い蕾が膨らむように、中から力が沸き出てくる。命の炎を蘇らせる起爆剤となる。

冬の花たちは───
密かに、そんな私たちを勇気づけようと、そっと傍らで寄り添っているようにすら見える。もしも花の明るさ陽気さ軽やかさが人を元気づけたなら、その人の反応を敏感に感じ取り、花は祈るように喜んでいるのではないだろうか。

「春が来たよ」
と思わせて咲いたとしても、それは結局花から人へ、
「春が来たよ」と逆に言われているような気がしてくる。


***



人には自然との触れあいが必要です
わたし達はみな宇宙の一部なの
宇宙を傷めることは自分の体を傷つけているのと同じことよ

ターシャ・テューダー著
「思うとおりに歩めばいいのよ」



***



北九州市 日野江植物公園

































































































































***







A Flower Is Not a Flower
Ryuichi Sakamoto



暖かくしてお過ごしください



🐭🐮🐯🐰🐲🐍🐴🐑🐵🐔🐶🐗😽🐷🦝🦊🦁🐺🐸🐨🦧🐬