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庭の木漏れ日


九州南部巡り旅④

    ミュートトランペットにも似たツルの歌声を背にしながら、夕闇迫る出水を後にする。その日の宿泊地は鹿児島市内。静かな山並みを走り抜けること1時間半。長崎でも見た路面電車が走る穏やかな街だった。

 鹿児島に行きたかった一番の目的は「桜島」。海の向こうに噴煙を上げながらそびえ立つ活火山をこの目で見て感じたいと以前からずっと思っていた。
火山は、人々の暮らしに恩寵も災禍ももたらす創造と破壊の神の化身のような、自然界のシンボリックな存在だ。元々島であった桜島は噴火によって陸続きとなったが、名前にはそのまま「島」が残った。活火山でありながら多くの人が住み、周辺にも街が広がっている。降灰による日常生活への不便さは住む人でないと分からないことだが、女性的な緩やかな稜線とたなびく噴煙の織り成すドラマティックな姿には畏敬の念と共に、なぜか郷愁に駆られるような不思議な魅力を感じる。

火山とともに人々が暮らす
桜島には約4,600人が暮らしています(2015年1月現在)。
古くは縄文時代から、人々はこの地での生活を始めていたそうです。
大噴火や土石流など、火山災害を受けながらもこの地に住むのは、火山のもたらす恵みがあるから。 桜島大根、桜島小みかんといったおいしい農作物、日々の疲れを癒す豊かな温泉、山や集落の美しい景観は、火山の恵みといっていいでしょう。 現在の噴火も日常生活の一部。 桜島の人々は、火山とともに暮らしています。

みんなの桜島




その晩は鹿児島中央駅に近いホテルに宿泊。夕食は近くの商店街を歩いて探すつもりでいた。ホテル一階にあるレストランは、フロントで尋ねると元旦だったこともあって予約でいっぱいとのこと。だが外に出ようとしたその時、レストランのレジ前に清算をする客の姿がちらりと見えた。すかさずレジ横に立っていた年配の男性支配人に声をかけてみる。

「ちょっとお待ちくださいね、中に聞いてみますので。」
という柔らかな応対の言葉が返ってくる。
すぐにロビーで待つ私たちのところに戻ってきて、
「どうぞ、お入りください。」という嬉しい一言。

テーブルにつくと、若い女性のウェイトレスが丁寧な接客をしてくれる。
ゆったりとした柔らかい声だ。
そう言えばフロントの女性も、レストランの支配人も、このウェイトレスの女性も、ほんの僅か、微妙にゆっくり、ゆったりとした話し方をする人たちだということに気づいた。

何て柔らかで丁寧な言葉使いなんだろう。
そして何て懐かしいような響きなのだろう。



その時注文したのは海鮮漬け丼。桜島の眼下に広がる錦江湾内は、年間平均水温22度前後と温暖で、しかも潮流が早く、黒潮が絶えず流れ込むために天然のプランクトンが豊富とのこと。今まで食べたことのない、とろけるほどに柔らかい海の幸に舌鼓をうつ。
また翌朝、同じ店での朝食バイキングでは、一見いたってシンプルなメニューだったものの、個々の料理は家庭の味のような心のこもった丁寧な味付けで驚いた。
また郷土料理の「鶏飯けいはん」という珍しい料理を食べることができたのがまた嬉しい体験となった。白飯の上に数種類の具をのせ、鶏がらスープをかける。これは農水省選定「農山漁村の郷土料理百選」で選ばれた鹿児島県の郷土料理で、薩摩藩のもてなし料理とのこと。

この店は、今まで宿泊した数百件の旅館やホテルの中でも印象に残る一つとなった。駅に近く、やや古びた建物だが、天然かけ流し温泉もあってとても寛げた。鹿児島旅行の際には是非おススメしたい三つ星ホテル。地方のホテルは本当に頑張っている。




翌日、朝食後ホテルの部屋に戻り、その日の行動予定を考えた。当初の計画では鹿児島市より南の指宿市にある砂蒸し風呂というものを体験したかったのだが、その日の宿泊先である宮崎市までの距離と時間を考慮すると、昼まで桜島見物に専念しようと判断。そして桜島を見るのにおすすめの場所を調べると「仙厳園せんがんえん」とあった。

鹿児島市の中心地から北へ車で15分。錦江湾沿いに突然大きな敷地の施設が現れる。
万治元年(1658)に島津家19代光久によって築かれた島津家の別邸だ。ここには雄大な桜島を築山、錦江湾を池に見立てた広い庭園があり、28代斉彬が愛し、篤姫など多くの人を魅了したとのこと。

目的は庭園から眺める桜島だったが、到着してみると庭園だけでなく大名が暮らした御殿や商業施設なども併設された規模の大きな観光地として運営されていた。
売店でさつま揚げと、薩摩武士に愛された両棒餅ぢゃんぼもちという2本の串がささった一口大の餅を食べる。どちらも思わず笑みがこぼれる美味さ。店員の女性の声はやはりゆったりと、餅のような柔らかさだった。

仙厳園
島津家歴代のくらしを体感
仙厳園の御殿は万治元年(1658年)、島津家19代光久によって建てられ、数百年の歴史の中で、立て直しや増改築が行われました。島津家歴代がこよなく愛し、幕末以降は国内外の賓客をおもてなしするための施設としても用いられました。
20代忠義は、仙厳園を本邸と定め、御座の間などを改築。30代忠重が後を継ぐと、住まいを東京に移したため、邸宅は縮小されましたが、鹿児島に帰ってきた時の邸宅として維持管理されました。
和の趣きの中にたたずむ風水を取り入れた作庭や、西洋風の調度品を通して、侯爵島津家の暮らしぶりを今に伝えています。

仙厳園御殿パンフレット

 仙厳園HP  https://www.senganen.jp/


およそ3時間ほど御殿と庭園を隈なく廻った。当時の優雅な暮らしぶりを垣間見た。大名が、ニコライ2世が、そして篤姫や西郷隆盛が歩いた庭。彼らもまた所々で立ち止まり、木々の間から覗く海と桜島の雄大な景色を見上げていたことだろう。

歩いている時にふと足元を見ると、地面がとても黒いということに気がついた。
「黒ボク土」と呼ばれるこの土は鹿児島を代表する土壌。主として母材が火山灰に由来している。生産高日本一のさつまいもはこの黒い土から生まれる。桜島の火山灰がもたらした恵みの一つだ。




このさつまいもは下記のような優れた特性を持つと言われている。

・雨や風に負けない
・暑さや日照りにも負けない
・肥料も多くを必要としない
・どこでも誰でも楽に作ることができる

甲子園球児が思い出に甲子園の土を持ち帰ります。あの黒土は鹿児島の黒ボク土や鳥取県大山の黒ボク土に砂を混ぜて作ったものです。では、黒ボク土とは何でしょうか。歩くとボクボク音がするというので、名が付きましたが、今では学術用語になっています。

さつまいも大学

桜島 黒ボク土 さつまいも 甲子園球児…

それらの背後にある接点は桜島の火山灰だが、そこにこの地で暮らす人々の精神性というものを加えてみてもまったく違和感がない気がする。人々の緩やかな言葉使いと物腰は、まるで桜島山頂からゆったりと噴き出してたなびく噴煙の写し絵のようでもあり、芯の強そうな雰囲気は黒ボク土に育った特産さつまいもの特性にも似た逞しさを感じる。




庭の地面を覆う黒ボク土を見ていると、ふと昔の記憶が蘇る。20年数前に知り合った鹿児島出身の男性のことだ。当時私が東京でヒーリングワークの施術をしていた時に、度々やってきたクライエントの一人Tさん。歳は30代だったが朴訥ぼくとつとした雰囲気は見た目より若干老けて見える印象を与えた。東京の介護施設で数年働いていたが、鹿児島訛りのゆったりとした柔らかい口調が残り、その言葉を知らない私にとってはいつも新鮮に聞こえたものだった。

Tさんはやってくる度に、決まって同じ昔話をした。それは彼の幼き日のささやかな思い出話だった。

「自宅の庭の地面に木漏れ日がゆらゆらと揺れてたんですよねえ。
それを子どもの頃の自分はただじぃっと見つめていたんですね。
それがすっごく綺麗でね…。
見惚れていましたね…。」

俯き加減にそう言って、時々うっすらと涙ぐむのだった。それ以上深くは語らない彼の気持ちの奥を詮索することなく、ただ耳を傾けた。




庭園にはあちらこちらで木漏れ日がゆらゆらと揺れていた。
じっと見つめてみる。
降り積もった火山灰が、大地を黒く美しく覆う。
静寂に揺れながら見え隠れする陽の光。
この地の食文化の豊かさ、そして人々の心の温もり。
Tさんが思い出していた故郷の木漏れ日には、何が写っていたのだろう。

目を上げると、煌めく海の向こうに、大地の深い懐から湧き上がるゆったりとした噴煙が再びたなびいた。
両手を広げ全てを見守っているような、大いなる存在だった。




仙厳園






















































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九州南部巡り旅⑤(最終回)に続く



岩崎宏美 渡辺真知子
あなたにだから





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