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我が心の名車

(文4900字)


 
 車で街中を走っていると、綺麗にレストアされた60~70年代の車とすれ違うことがたまにある。ノスタルジックなデザインはいたってシンプルだが、とても優美に見える。眼に優しく、そして暖かいフォルムだ。

高校卒業後、運転免許を取得し、すぐに父親の車を借りて乗り始めてから、かれこれ48年。その間10数台の国産車を乗り継いできた。振り返れば若い頃に運転した昔の車には、不思議と絆のような親近感が今もからだの奥に残っているのを感じる。

最近の車はとても静かで快適、そして高性能だ。今使っている国産車は試乗したとき、その運転フィールに感動し即決した。インテリアもギラギラせず、落ち着いた印象。フルタイム4WDの走行安定性も素晴らしかった。
ところが5年ほど経過した昨年夏、突然エアコンが故障。ディーラーで調べてもらうと温度センサーが異常で、部品交換が必要とのこと。部品代はわずか2,300円。しかし驚いたことにその部品交換のため、ハンドルやらダッシュボードの脱着作業に2日間、その工賃が何と5万数千円。
メーカーの保証期間5年が過ぎた直後のことだった。


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我が心の名車1:スズキフロンテ360


 子供の頃から車好きで、小学生の頃はモデルレーシングカーを自作し、サーキットに通い続けていた。読むのは漫画本ではなくモータースポーツ雑誌とレースカーの運転教本。中学の部活はサッカーだったが、休日は1人で富士スピードウェイにレースを見に行くのが楽しみだった。高校生になるとライセンスを取り、バイト代を貯めて買った中古のレーシングカートを自分で整備し、サーキットを100キロを超える猛スピードで疾走した。

その頃のバイトは、某ディーラーの広いモータープールでの洗車作業。移動のため新車を自由に運転させてもらい、そこで運転をマスターした。高校を卒業後に通い始めた教習所では、教官に未経験ではないとすぐにバレる。卒業前の高速教習では、横に教官を乗せたまま、中央高速を150キロでかっ飛んだ。

免許取得の翌日、早速父のスズキフロンテ360を借りて乗り始める。バイクは高校生の時にずっと乗っていたが、車で公道を走るのは初めて。一人で運転したその新鮮なワクワク感は、決して忘れはしない。一人前の大人として、社会から認められたような気分だった。

友人と4人で乗り、高速を100キロで走ったのだから、これはかなり高性能な車だったと言える。コーラの瓶みたいだと友人たちにからかわれたが、なかなか可愛いデザインだった。
4速フロアシフトのシフトレバーを握ると、ギアチェンジの度に小さなコツンという音と共に、ショックが手に伝わってきた。2枚のクラッチ板がかみ合った時に若干の緩みがあったためだった。その感触が機械を操作しているというダイレクトなものだったので、それがまた妙に嬉しかった。

スズキフロンテ360。車体の軽量化を図り、高速性能・加速性能に重点を置いた。軽自動車初の2サイクル3気筒360ccエンジン。最高速度110km/h。デザイン面では車内の居住性を高めながらも、スポーティーさや軽快さを感じるセミファストバックとした。コークボトルラインと呼ばれる丸みを帯びた面構成を採用したことが特徴。駆動方式はRR方式で、4速フロアシフト。
(スズキ自動車HP参照)



我が心の名車2:1973年式ポルシェ911カレラ


 やんちゃ坊主は、その後歯止めが効かなくなる。スピード違反による免停は常習。真夜中に伊豆や千葉での懸賞山岳ラリーに参加し、林道の崖から落ちそうになったことが何度かある。仕事は委託での中古車の全国回送。年間千台以上、当時流通していたほとんど全ての国産車と外車に乗った。夜東京を出発し、一般道を走って朝までに大阪に着くというハードな仕事もあった。時々目的地寸前でガス欠を起こして、車を手で押したという滑稽な思い出もある。

そうした荒くれた時代に終止符を打つきっかけとなったのは、知人のポルシェとの出会いだった。
オーナーは仕事で知り合った当時50代の進学塾経営者K氏で、ポルシェを2台、911カレラとポルシェ928を趣味で所有していた。彼はまた当時、日本でも有名なオーディオマニアでもあり、数千万円を超えるオーディオ機器を所有していた。
どこの馬の骨だか分からないやんちゃな20代の若造をよく受け入れてくれたと思う。私がそれまでに撮った海外での写真を見て、彼はその2台のポルシェを写真に撮ってくれと依頼してきた。そしてどちらも自由に使っていいと言って、キーを私に手渡した。
美しい日光や戦場ヶ原などの風景を背景に撮影し、それらを10枚ほど大きなパネルに仕上げた。

撮影をするという名目で数日間乗り続けているうちに、ポルシェの魔力にすっかり魅了されてしまった若造は、その911カレラに乗り、夜中に日光いろは坂を猛アタックするという信じられない暴挙に出た。どれだけの走りができるのか、試してみたくてたまらなかったのだ。

上りでは当時噂されていたコースレコードを超えた。確か7分を切るタイムだったと思う。
しかし下りの逆バンクで木の葉が舞うように激しくスピン。道路脇に立っていた標識の柱に、車体の後部からせり出していたマフラーの先端が当たったところで停止。あと数センチ寄っていたら、車は大破していただろう。真っ暗闇のいろは坂で、死を意識し、足の震えが止まらなかった。

車のポテンシャルの限界領域が、自分の運転能力の遥か先にあることを思い知らされた。やんちゃ時代に決定的な終焉をもたらしてくれた、恩人ならぬ恩車となった。

壊れたマフラーの修復には、本国ドイツから取り寄せで総額30万円。そのうち20万円をK氏が肩代わりしてくれた。
パネルにした2台のポルシェの写真10枚は、塾の教室の壁にすべて飾ってくれた。また春に開かれた塾生の卒業パーティには、その後も毎年カメラマンとして呼ばれ続けた。
K氏のことも私は一生忘れない。

1973年式ポルシェ911。通称「ナナサンカレラ」。
空冷水平対向6気筒。2,7L、210hp、最高速250㎞/h。低速域ではいたってジェントル。しかし5,000rpmを超えた途端、甲高いエキゾーストノートを響かせ、獰猛な野獣へと豹変した。RRの極端な後方荷重のため、一度テールスライドが始まると、カウンターを当ててもまったくコントロール不能に陥る。当時、世界中で死亡事故が多発した。ハンドルもペダルもシフトレバーも歯を食いしばるほど固くて重かったが、これほど運転する情熱を掻き立ててくれる車は他にはなかった。



我が心の名車3:ホンダ ワンダーシビック


 ポルシェでのクラッシュ以降、車は狂気を発散するための道具から、やがて自然散策の旅の道連れとなった。

今と比べれば、昔の車は快適さと無縁。勿論ナビなど夢物語だ。常に数冊の地図をダッシュボードに入れ、見知らぬ土地に行った時は、何度も止まっては地図を見る繰り返し。
それでも迷った時は、地元の人に尋ねた。また思いも寄らず美しい風景と出会ったりもした。今では無駄と思えるようなそうしたひとときが、かけがえのない旅の思い出のひとコマとなった。

3代目通称「ワンダーシビック」。自動車としては初めて1984年度グッドデザイン大賞受賞。さらに1983-1984年 日本カー・オブ・ザ・イヤーにも輝く。性能・スタイルともに高く評価され、とくに若者から支持を得た。1.5L、CVCC(4バルブSOHC)エンジン。
(引用:Webモーターマガジン)


 そうした時期に乗った、最も思い出深い車と言えばこの一台、ハッチバックの真っ赤なホンダシビックだ。
エクステリアもインテリアも、虚飾や見栄を省いたシンプルなデザインが斬新でかっこ良かった。また軽快なフットワーク、ホンダらしいCVCCエンジンのレスポンスの良さ、FFのネガを感じさせない走行安定性なども、当時は目を見張るものがあった。

だが格安中古のオンボロを買ったので、すぐにあちこち不調をきたした。真夏の炎天下でエアコンが故障。深夜の山道でヘッドライトが片目。雨の日にワイパーが動かず。高速でメーターが停止。やがて窓枠から雨漏り。いずれも安い修理代で済んだことも昔の車ならではのこと。

そうした悲惨な思い出があっても、今懐かしく感じるのは、関東一円の山、海、湖、秘湯、キャンプ場、スキー場へと、自然を求めて彷徨った青春時代の良き相棒だったからだ。また当時の貧乏生活と、この車のオンボロ具合が妙に似合っていたことも、近しさを感じる大きな理由となった。




数年間で10万キロ走り、愈以ていよいよもって動かなくなりそうだと思った頃、ある知人が見兼ねて、所有していた車を、買い替え時にただで譲ってくれると言ってくれた。

そのことが決まった当日、このシビックは自宅の駐車場で突然エンジンが止まった。車体はボロでも、エンジンがかからなくなったことはそれまで一度もなかった。
「えっ、何? それって、もしかして抗議のサイン?」

廃車の引取り業者まで運ぶ予定の朝、レッカーを呼ぶしかないかと思いながら、
「頼む、今日が最後だから動いてくれ。」
と言ってキーを回す。

するとキイキイと悲鳴にも似たセルモーターの音をたてながら、エンジンが奇跡的にかかってくれたのだ。
引き取り業者まで途中止まることなく、無事に30分ほど走って敷地内まで辿り着くことができた。

「これでさよならだね、今まであちこち連れていってくれてありがとう。」
運転席に座り、ハンドルを握りしめながら、そう声をかけた。
その時だった。
エンジンがプスッと止まった。
力尽きるまで走り続け、やっと安寧の境地に辿り着いたかのような深い静寂が車内に広がった。
それからもう二度とエンジンがかかることはなかった。

洗車をすると、車の調子が良くなったように感じることはよくあることだが、こちらの言葉に反応するかのように調子が明らかに変化したのはこの車だけだ。偶然とは言え、人と車とが有機質と無機質の隔たりを超え、不思議な絆で繋がっていたのではないかと思えてくる。

見た目の派手さ、豪華さ、快適さ、便利さ、高性能といった今の方向性はそこにはなく、また電動化がもたらす電磁波による健康被害とも無縁。
人の生活に寄り添うような親近感と、生身の人間と共鳴する「味わい」のある車だった。
自分の所有車を「愛車」と呼ぶような執着や拘りはないが、私にとって赤いシビックは今でも「心の名車」である。


***




 冒頭に述べた今所有している車は「いい車」だとは思うが、見た目の良さと快適さを優先するあまり、目には見えないところに意外なリスクが潜んでいることを知った。最近の家電製品が5年前後で壊れ始めるのと同じだ。
海外へ部品調達することで企業の低コスト化は達成できた。しかし保証期間が過ぎてしまえば、品質悪化に伴う不具合は、どんなに費用がかさんでもオーナーの自己負担。
それが嫌なら買い替えれば?
とでも言わんばかりの殺伐とした利益優先の企業理念が、こうした機会に浮き彫りになってしまう。その結果、オーナー側もリセールバリューや故障リスクなどを勘案して、5年以内に買い替える人が多くなる。

今までの社会はこれでよしとしてきた。がしかし、流行り病やウクライナ情勢の悪化をきっかけに日本企業でもサプライチェーンの見直しを迫られ、海外から撤退する動きが加速。撤退を希望する企業への、政府からの補助金申請にも申し込みが殺到した。

様々な分野で企業の国内回帰が増え、サステナビリティやSDGsと相まって、その影響が今後、日本の伝統とも言える「長く使えるもの」の復活につながるのではないか。

また急速に拡大するネット社会において、個人や小規模の組織によって作られる「良質なもの」がさらに見直されていくに違いない。

使う人の心に寄り添う「もの」があるとき、それは生活に潤いをもたらし、人生に落ち着きや深みを与えてくれる。
「ものづくり」を通して、日本には明るい未来の兆候が見え始めている。


ありがとうございます






スズキフロンテ360


1973年式ポルシェ911カレラ


ホンダ ワンダーシビック






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