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沈黙のアート

(文5700字)


覚者を訪ねて

 若い頃に「覚者」を訪ね歩いた時期があった。
噂を聞いてはインドの田舎町まで出かけたり、また日本で会えると知ったなら何度でも出向いたりした。
覚者とは光明を得た存在。光明とは悟りの最終段階にまで到達したことを意味する言葉だ。悟りや覚醒という意識変容にもいくつもの段階があり、光明を得るともう二度と人間に生まれ変わることなく、宇宙の実存そのものへと溶けていくとも言われている。
光明を得た瞬間には、身体内で強烈なエネルギーが爆発し、肉体組織はそれに耐えきれず10人中9人は死に至る。突然の死を迎えた人の中には、そうした変容の結果として死に至るケースがあり、それは死因として特定されることなく、心臓発作とか脳卒中といった病死と判断されるとのこと。
生き残った人のうち10人中1人が、人々にその意識変容の真髄を伝授する役割を担う。マスター(師)と呼ばれ、それ故に光明を得て尚かつ生きているマスターの存在は百人中一人であり、奇跡だとも言われる。

こういう人は本人自ら光明を得たとは絶対に公表しない。しかし周囲の人たちがその「異変」に気づく。インドなどでは今も尚変容に対する理解が社会に残っており、徐々に噂で知れ渡ると、世界中から探求者がそれを聞きつけ集まってくる。特に多いのはヨーロッパの老若男女の人たちだ。
覚者のところへ出向いたところで、その人から何かご利益を得ようとしたり、秘儀伝授を乞おうとするわけではない。深い静寂を共にし、ただその神々しいエネルギーと共に在り、その場にただ寛ぐ。
それだけで至福の体験となる。

これまでに何人かの覚者と出会った。そのうち3人はインド人男性2人と女性1人。ポーランド人が1人。イスラエル人1人。もう1人イラン人がいたが、会う前に彼は亡くなってしまった。
私はそのうち1人のインド人オショウ(Osho)氏の弟子となった。オショウは1990年に肉体を離れたが、今も私の内面においては弟子であり続けている。
弟子となったところでそれは宗教的な信仰ではなく、また戒律や義務、制約など一切ないので、その後もいろいろな覚者の存在を聞きつけては会いに出かけたものだった。



ティオハとの出会い

その中の一人がイスラエル人のティオハ(Tyohar)氏。1997年に出会った時彼は29歳だった。21歳の時から世界中を巡る探求の旅に出かけ、やがてオショウの弟子となり、26歳の時にヒマラヤ山中での瞑想中に光明を得たと言われている。
90年代終わりの数年間、彼は瞑想を指南するワールドツアーを開催し、その途中、東京で開かれた彼のサットサング(瞑想を共にするひととき)に参加したのが最初の出会いだった。

彼は今現在コスタリカのジャングルに住んでいる。私はそこに行ったことはないが、そのジャングルの中に広大な「パチャママ」という名の探求者向けの施設を創設し、今現在も主に欧米からやってきた人々に向けて瞑想やセラピーなどと共に、様々なガイダンスを与えている。
彼のコスタリカでの活動は信者を集めて修行するというような宗教的なものではなく、誰でも滞在できる開かれた場だ。訪れた人が自分自身をじっくりと探求するための時間とスペース、そして必要とする人には彼のガイダンスを提供するといったリトリートスペースのような性格のものだ。
勿論日本人であっても、多少の日常的な英会話ができれば、まったく問題なく過ごすことができると思う。
またそうしたワークとは別に、彼はネイチャーフォトグラファーとしてコスタリカのジャングルに生息する野鳥や海の生き物たちの写真を撮り、自然保護運動にも携わっている。彼が撮影した熱帯の生き物たちの写真は息を飲むほどに美しい。
彼の本拠地「パチャママ」のサイトには活動内容の紹介と共に、フェイスブックとインスタグラムでそれらの写真が公開されている。



ティオハ 29歳の頃



覚者とは

最初に参加した1997年秋の東京でのサットサングで、すぐ目の前に現れた彼の姿を見た時、深い静けさとアウェアネス、そしてキラキラとした神々しさにすっかり見入ってしまったことをよく覚えている。

「覚者」とはネットで調べると「真理を悟った人」というような説明があるが、何を持って悟りを得た覚者とするのか、悟っていない私にはわからない。そういう人は自ら「私は悟りました」などとは絶対に言わない。しかしながら実際に目の前で直接会ってみると、明らかに同じ人間とは思えないような威厳と静寂、受容性、愛、神々しさに満ち溢れている。

ティオハが覚醒について、ある時こう語っていた。

覚醒には若いも年寄も関係ない
ただ人格のみが年齢と身体を持っている
覚醒の瞬間
時間は消え去る
覚醒した人は若さゆえに覚醒したというわけではなく
また歳をとったがゆえに覚醒したわけでもない
彼は歳のない状態となり
時間を超えてゆく
マインドはまだ時間の中で考え
意味や理由を探す
覚醒が起こるとき
「私」は存在しないという事実に目覚める
その瞬間あなたは時を超えて
全体、源、そして神聖なるものと出会う
あなたは永遠の海に消え去る
そこに時間というものは存在しない


シャクティパッド

その当時私はヒーリングワークの仕事をしていた。またそれとは別に都内や地方の研修施設などを借りて、毎月定期的なワークショップを開催していた。インドで過ごした2年間の間に経験した様々なセラピーや瞑想を日本でもシェアしたいと考え、心と体のリラクゼーションを探求するという目的で行っていた。

ティオハの瞑想会に初めて参加した直後、彼に「是非私の開催しているワークショップにも来て瞑想をシェアして欲しい」と伝えた。するとその場ですぐにOKの返事をもらうことができた。ちょうどその数日後に東京郊外にある研修施設での1泊2日のワークショップを予定していたところだったので、タイムリーな展開となった。
そこでは共に瞑想し、質疑応答や参加者一人一人へのシャクティパットをしてもらったりと、とても貴重なひとときを過ごした。

シャクティパット(Shaktipat)とは光を受け取るための準備だ
ここに10ボルトのパワーを受け取るウォークマンがあるとする
しかし電流の供給が100ボルトあったならば
そのウォークマンは燃えてしまうだろう
このパワフルなエネルギーを受け取る者の容量に合うよう
調整するためにアダプターが必要だ
マスターはそのアダプターのように機能する


ティオハの言葉

その後私は、1998年、99年と2年続けて彼を東京に招いて数回の瞑想会や、数日間伊豆の温泉付きの研修施設を借り切ってのリトリートなどをオーガナイズすることになった。そこで彼は瞑想やセラピーに助言したり、見守ったりした。また質疑応答や一緒に森の中を歩き、静かな竹林の中に座って長い時間瞑想を共にしたりした。
またその翌年2000年には、インドで行われた10日間のリトリートに参加した。世界中から80名の参加者が集まった。街からは遠く離れた断崖絶壁の上に建つ高原リゾートホテルを借り切り、10日間誰とも会話することのない完全な沈黙を貫くことで、自分自身の静寂の中にただただ深く降りてゆくという神秘的かつ強烈なエネルギー体験となった。

 スピリチュアルな探求者に対するティオハのメッセージには難解さはなく、いつも極めてシンプルかつダイレクトだ。言葉の上では難しくはないが深遠な内容を語っている。

覚者と共に在る体験を言葉で表現することは不可能だ。
ところがそのことこそ覚者の存在の最も重要なことで、何を語っていたかは補足的なものでしかない。それ故にこうした記事を書くことのジレンマを感じ、今まで投稿を躊躇してきたのだが、何も伝えないということにももどかしさを強く感じることになった。だからせめて彼の語った言葉だけでもここに引用したいと思う。

それはハウツーの類のものではない。むしろ何もしないことへの「誘い」の言葉だ。何もしないことの深遠から自分自身の真実が浮かび上がってくる。

東京三鷹で行われた瞑想会と伊豆修善寺でのリトリートでの質疑応答の内容が保存されているので、その一部分をいくつか書き出してみよう。私がここで何か彼の言葉についてコメントを書くのは意味をなさない。
何か心に残る言葉を一つでも感じて頂けたなら、たいへん嬉しく思う。






あなたが探しているものは
あなたの内側に存在している
あなたが自分自身のエネルギーを
自分の内側に方向づけるのは
とても大切なことだ
私たちの「感覚」というものは
私たちを外側に連れ出そうとするが
それは「存在」とのとても表面的な
コミュニケーションにすぎない
私たちの眼は常に
些細な外側の情報を求めている
他の人は私のことをどう思っているか
他の人は何をしているだろうか
というように常に外に向かっている
内側には「沈黙のアート」というものがある
それが起こったならば
外側に探し求めることはなくなる
やって来るものはやってくるし
やって来ないものはやってこない
だからこのアートに熟達するのは
とても大切だ



 
人間は
たくさん経験し学ぶ必要がある
肉体に宿ることによってのみ
学ぶこと
成長することができるからだ
あなたが肉体を離れると成長は起こらない
そのためにあなたの魂は何度も何度も
成長し発見するという機会を持つために
肉体に戻ってくる
発見するためには
「生」があなたを乗っ取るということを
許さなければならない
それは一歩退くということではない
恐れはあなたが何も失いたくないということ
過去の何かにしがみついているということだ
こうしたやり方では
あなたは発見することができない
それを手放す必要がある




「探求者」は
最も大きなリスクのある
しかし最もエキサイティングな旅を歩む
それは「あなたは誰か」
ということを発見する旅だ
それを見つけた時
真実を見出し認識する時
あなたは「存在」の別の次元に動いてゆく
そして全面的な変容が起こる
あなたの「過去」はあなたの一部ではなく
あなたの「人格」は
あなたから離れたものになる
そうした変容が起こったときには
この世にやってきたときと同じように
あなたは「無垢」になる
無垢とはエゴがないということであり
自己同一化していないということだ
理想や凝り固まった考えというものがない
人生から貪ろうとする気持ちや要求もない
こういったものすべてから自由だ
そしてもう一つ別の次元へと動いてゆき
マインドを通じて人生と繋がらなくなる
これが「目覚め」であり
「解放」だ
そして光が突き抜けてゆくことを
妨げているものを剥がす
それを助けるために私はここにいる




「愛」は
あなたの中に棲んでいるのではない
あなたの身体が
愛の海の中に棲んでいる
あなたが受容的であるとき
あなたはそれと一つになる
あなたの身体が愛を体験することはできない
身体は快楽を体験することができるだけだ
あなたが愛そのものだ
しかしまだ外には現れていないものだ
それは太陽のもとにさらされ
花開くことを待っている
自分自身を曝け出せば
あなたは花開くだろう
人格の背後に
あなた自身を隠してしまっていたら
愛は実現には至らずに
美しい夢のままで終わってしまうことだろう
あなたがすべての防御を失ったとき
あなたは
あなた自身が愛であることを知る




すべての人間のなかに存在している「沈黙」
しかし誰もが
この尊い沈黙を見出すわけではない
ほとんどの人々は
この沈黙を探求しようとはせず
またそういうことが
存在することすら知らずにいる
彼らが探し求めていることは
とても些細な事柄だ
お金とか財産とか尊敬とか
その他様々な事柄だ
探求者とは
沈黙を探求し始めた人のことだ
しかしそれを探求することには
何の保証もない
それを認識することができるかどうか
それが自らの姿をあなたの前に現すかどうか何の保証もない
それでもあなたの持っているすべてを
その探求に捧げる必要がある
知性のすべて勇気のすべてが
この問いに全面的に向けられる必要がある
あなたは誰か?
この人生であなたは何をしているのか?
この肉体が終ったなら
あなたは何処へ行くのか?
人生とはただ食べて飲んで
そしてただ
通り過ぎてゆくだけのものなのか?
或いはそれよりも
深いものがあるのだろうか?
それは貴重な旅となるだろう
あなたは今がその旅の一部であることに
感謝するだろう
それは時に
心地よいものではないかもしれない
また別の時には心地よいものにもなる
それはあなたの我が家へと向かう旅
あなたの永遠の沈黙へと向かう旅だ
あなたのハートは
これ以上のものを求めることはない
そこで初めてあなたは
全面的に満たされることだろう




世界とは
完璧ではない現象だという事実を
私たちは理解し受け入れる必要がある
完璧な状況があって初めて
瞑想ができると思い浮かべながら
その状況が来るのを待つ必要はない
瞑想は「生」のダイナミックな動きに
自分自身を明け渡し
それと一つになった時に起こる
ある心理学者によれば
人間の本性とは
完璧な状況を作ろうとすることであり
それは私たちが
子宮の中にいる時の状態に由来するという
何故なら子宮の中は
すべてが完璧だったからだ
私たちはすべてが自分のために
整っているという経験をしてきた
そして日常生活の中で何度も何度も
この完璧さを再び作り出そうとしている
その完璧さとは大抵の場合
沢山のお金を手にすること
尊敬されること
何らかのパワーを手に入れること
良い人間関係をつくるということ
良い環境を整えること
そういったすべて「良い」ことを
意味している
しかし私たちの「自由」というものは
それらを超えている




真実は
言葉を通しては伝えることができない
真実をあなたに与えることはできない
それはあなたの中心そのものから
花開く必要がある
マスターの機能とは
その中心を刺激することだ
その中心の周りに張り巡らされた防御の壁を壊すことだ
あなたの中心そのものには
「静寂」そして「空」がある
この「空」のなかで
あなたは愛だ
あなたの風土そのものが愛だ
静寂を覆い隠しているものは
人格や条件付けといったものであり
それは社会によって
あなたに与えられたものだ
あなたは内側に向かう自分の道を探している
それは素晴らしいことだ
あなたが内側の静寂を見出すとき
初めてあなたは
我が家を見つけることができる
その動きを続けていけば
やがてあなたは祝福されるだろう

愛と光は
探し求めているすべての存在に届くだろう



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