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お金とモノから解放されるブッダの知恵

最近、20代の子たちの話を聞いたり相談にのったりすることがあり、当時の自分自身のことを振り返る機会がありました。今日のタイトルと内容は最後の最後でしかつながらないかもしれませんけれど、興味がある方はお付き合いください。

わたしは決して裕福な家庭で育ったわけではない

わたしは周囲の方からはわりと自由奔放にやっている、豊かに暮らしているイメージがあるのではないかと思います。日頃から実は成功よりも失敗のほうが多い、というお話はよくしているのですが、マルチリンガルで最終教育やキャリアが海外だったりするので、わりと恵まれた環境で育ってきたお嬢さんなんじゃないか、と思われがちです。

でも実はわりと不遇な人生前半だったと思います。それを晒すつもりも、隠すつもりもなかったので、特に話してきませんでしたが、裕福な家庭で育ったわけではありません。ランドセルも貰い物を使っていたし、どちらかというとかなりビンボーなほうでした。

わたしは父を9歳で失くし、母子家庭で育ちました。父は糖尿病で入退院を繰り返し、職を失い、闘病生活に疲れて、死にたいと手紙を残して行方不明になったこともありました。母は当時父よりもずいぶん若かったので、そんな環境に疲れ果てて実家に身を寄せ、父が病死する数年前に離婚するという形になってしまったりで、当時の両親は二人とも相当まいっていました。

ですがわたし自身は祖父母に大変可愛がられて育ったので、辛い思いばかりではありませんでした。ふつうに大学まで行って、そこから自力で留学したり、海外で起業したりと、今思えばかなり強引で、自立心が旺盛な娘だったと思います。

18のとき、はじめて留学したロンドンで得た価値観が今でも大切。

高校生の時、ニュージーランドの姉妹校に友人たちがホームステイに行ったときも、行きたかったけれど、わたしの家庭環境では当然行けません。その時母は、頭ごなしにお金がないからダメなんて言わずに、『大学生になったらバイトができるから、自分でがんばって行きなさい。本当に行きたかったら絶対行けるから。』と言ったのです。

わたしは母のことが大好きで、負担をかけたくないといつも思っていたので、その言葉を素直に受け取って、本当に大学1年の時に猛バイトしてロンドンに短期留学しました。ニュージーランドではなくて当時憧れの欧州を選んだので、予算はギリギリ。着いてみると留学仲間はみんな裕福な家庭の子ばかりでした。わたしは貯金を全部はたいてやっと1か月の留学だったので、遊ぶ余裕なんてありません。

当時(1999年ですよ!)1ポンド160円代で物価もむちゃくちゃ高い。日本人の子たちがみんなでつるんでかっこいいクラブなんかに繰り出している間、わたしはホームステイ先の子供の世話をしていました。おかげで日本人グループからは自然と仲間外れ。外れたことがきっかけで英語がみるみる上達して、英語学校のクラスも毎週のテストでどんどん上のクラスへ上がってしまい、いつの間にか日本人なんて一人もいない環境になっていました。

余談ですが、ホームステイ先の家族の名前がキャサリンとマシューとジョナサンだったんです。みんなTHが付いているのできちんと発音できなくて、お父さんだけがマーティンだったので、呼ぶと振り返ってくれました。しかも住所がスートンヒースというロンドンのサウスエンド(今思えば治安良くないよね)で、これまたTHが二度も出てくる。もうどうしようもない環境で、THが言えるようになりました。その数年後同じ家族を尋ねていった時、家を買ったとかで引っ越していたのですが、引っ越し先の住所がサンダーステッドで、またTHからはじまる名前だったので呆れました(笑)

そのうちわたしは、スペイン人やフランス人のクラスメイトとつるむようになりました。欧州では親が留学費用を負担するということのほうが珍しいみたいで、みな自力のビンボー学生ばかりでした。ラテン系の学生と一緒に小銭をかき集めて安いワインを探しに行って(イギリスの飲酒18歳からです)、ホームパーティを開いたり、地元イギリス人の友人にセカンドハンドのお店やマーケットを教えてもらって、1ポンドでカッコいい洋服を買ったり、ということをして遊ぶようになり、それはそれは今思い出してもワクワクするような思い出ばかりです。

わたしにとって大切な価値観とは、お金とモノから解放されていること

当時の日本の若い子たちはブランド物を買ったり、洋服・バッグ・靴にお金をかける子ばかりでしたが、わたしは全身無印でした。(というのも、猛バイトしていたのが無印良品だったから)。リサイクルショップでフランス人の可愛い女の子とキャーキャー言いながらセカンドのものを試着したり、山積みの服を漁ったりしている自分がとても不思議でした。それから見た目も日本では決してぱっとした感じではないのに、ブロンドで青や緑の目の子たちからすると、超和顔(塩顔)のわたしは貴重な存在のようでした。お化粧もパーティの時しかしないので、みんな基本すっぴん。その刺激的な環境にどこか心底ほっとしたことを覚えています。

当時流行っていた音楽はダフトパンク。ダフトパンクはフランス出身なので、フランス人やスペイン人の友人がヘビーローテーションで聞いていました。この時点でone more timeはまだ世に出ていなくて、翌年大ブレイクしたので良く覚えています。しかもミュージックビデオが松本零士だったので、わたしの友人はしかり、当時のフランス人の日本カルチャー大好きっぷりが伺えるなあと感じていました。

今日わたしが何が言いたいかというと、格差化していく社会の中を生きる若い子たちに対して、ビンボーだから、お金がないから、資格がないからできない、なんてことはないということです。わたしはそんなに格差がなかった時代に、あまり裕福ではなかったですし、そんなに離婚率が高くなかった時代に両親が離婚して母子家庭でした。なので担任の先生が心配して、『学校では無理してみんなに言わなくていいよ、先生は黙っておく』と言っていたくらいです。

だけどそれが悪いとか、かわいそうだとか、恵まれないとか今でも思いません。そういった環境だったおかげで、わたしはお金がなくても遊べることや、モノだけではない豊かさをみつけることができました。みつけたときは、新しいものばかりに目移りして疲れていた自分を見つけて、正直ほっとしました。『お金を稼ぐ』ことが唯一の豊かになる方法ではないという確信を得たことが、18歳のわたしには、なんかゲームの攻略法を得たような晴れ晴れした気分で、ほくそえんだことを覚えています。

その後、母が井形慶子さんの本をおもしろい、素敵!と言って読んでいたので、わたしも読みました。それが『お金とモノから解放されるイギリスの知恵』という本で、わたしのホームステイ先の家族も本当にモノの少ないさっぱりした人たちだったり、100年以上前のボロボロの家を買って喜んで遊びにきて!と言っていたり(遊びに行ったら改装が終わってなくてボロボロで、バスルームのノブが取れて、1時間中に閉じ込められたり)だったので、『この本に書いてあることは本当だよ。』と言いました。今でこそ古民家や田舎移住ブームがありますが、当時2001年とかで、『お金とモノから解放される』というフレーズはすごく魅力的で、井形さんの本を親子で数冊読んで憧れていました。

それ以来、わたしの目標はもっぱら、井形慶子さんの本のタイトルのとおり『お金とモノから解放されること』になりました。歳を経るにしたがって自分の中でタイトルはどんどんシンプルになって、単純に『解放されること』に特化されていきました。

わたしはそれまで外側のしがらみから解放されることを目指して世界のいろんな所で暮らしたり、働いたりしてみました(言語や文化を習得するのが好きな現地密着タイプなので旅はあまりしてません)が、ヨガや瞑想をするようになって、だんだん動くペースがゆっくりになっていきました。それは世界のどこに行っても『自分』がいつもついて来るから。

ヨガの目的はモクシャ=解放です。ヨガの言うモクシャが何から解放されるのかというと『自分』から解放される、もっと細かく言うと、『自分が自分だと思い込んでいる概念』から解放されることです。

確かに昔は、やりたいことがあっても自分には才能がないから、美人じゃないから、お金が足りないからなどいろいろな理由をならべてしり込みしていました。当時はそういうことが『固定概念』から起こってくる思考だということを知らなかったので、目をつぶってバンジージャンプするような勢いで、イチかバチか!という感じでいろんなことに飛び込んでいっていました。

そしていつも、結果が失敗でも成功でも『自分を覆される』とか、『価値観が変わる』ということがもれなくついてきた。つまり固定概念剥がれるということが最終的に起こっていました。やり方は荒かったと思いますが、そうやって少しづつ『自分』から解放されていきました。

わたしに自信や安心感があるのは、才能があったり、成功を収めているからではなく(ということは何者でもないわたしを見たら誰でも承知だと思う)、『自分』から解放されている自由度が高いからだと思います。大体気にとめたり、悩んだりしてしまう時というのは、『自分』にとらわれてしまっているときですから。

わたしが仏教を選んだ理由は、究極のリベラルであるため

ブッダは『自分』は実体のないものであり、概念の集合体を認識することで、自己が形成され、意識が活動することで、世界が発生していると説きます。般若心経に出てくる『五蘊皆空』は日本人にとっては馴染みのある言葉だと思います。これは五蘊はみな実体のない空だという意味なのですが、五蘊とは、姿カタチ、すなわち物質であるルパ、その物質を認識したときに起こる反応、すなわち感覚であるヴェーダナ、その反応が起こるための装置、すなわち概念であるサンニャ、その概念をパターン、仕組み化しているサムスカーラ、それらを集積しているヴィンニャーナの5つです。ひとつひとつ分解していくと、なにも残らないというのです。

正見というのは、正しくものごとを見るという意味ですが、善悪を正しく判断するという意味ではなく、五蘊をしっかりとらえて世界の正体を見るという意味です。見えてくると『観自在』になっていく、つまり自由になっていく。わたしは、この『自分が自分だと思い込んでいる自分』を知っていくたびに、解放されていくことが生きている中で何よりも価値があることだと思っています。

他のことに惑わされずにそこに価値を置ける『自分』であるためには、五蘊がどんな風にはたらいているのか観察して、固定されている概念を剥がしていけばいいのです。今は21世紀、こころの時代とか風の時代とか言われています。だから内観も解放も変なことではない世の中です。

きみはわたしみたいに、イチかバチかでわざわざ気張ってバンジージャンプする必要はありません。自分をみつめることで玉ねぎの皮を剥ぐようにスルっと剥がれていくはず。今の時代を生きるきみはとてもラッキー。

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