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歴史を教える

近々、採用試験があり、論文を書くので、一旦思っていることをここにnoteしたい。テーマは、クリスチャンの僕が、社会科を、歴史を教える意義。

キリスト教の歴史観をもって、歴史を教えることは、二つの事を大切だと感じている。
1つ目は、歴史を「探究する」こと。2つ目は、歴史を「国際的な視点」で見ること。キリスト教的歴史観とは、キリスト教は正しいということではない。一言でいうなら、神の見る視点で真理を追究すること。

まず、「探究する」こと。
探究するとは、正しい歴史観に基づき、物事の真相・価値・在り方などを深く考えて,すじ道をたどって明らかにすること。探究は一見目に見えない神を信じる宗教の敵のような存在に見える。歴史的には、自然科学の探究により、ニーチェは、「神は死んだ」といったくらいだ。しかし、キリスト教は、探究をさまたげない。神を知ることは罪ではなく、それこそ信仰なのだ。探究の一番の敵は、思想と感情だ。探究を進めると、自分の求めていた答えではない答えにいきつく。残酷な真実にいきつく。そのときに、それを否定してはいけない。否定するのは、思想であり、感情だ。

いま、日本の歴史教育は、思想の介入が起きている。教科書問題だ。教科書に政治的圧力がかかり、歴史教育が、探究者の育成ではなく、国を盲目に愛する日本人の育成を目的にし始めている。「従軍慰安婦問題」などの日本の負の歴史を認めずに、素晴らしい日本を愛する日本人を妄信的に育てようとしているのだ。いま、歴史とは?日本とは?愛国とは?が問われている時代だ。だからこそ、真理の探究にたつ歴史教育が強く求められ、その姿勢こそが、日本の教育を守ることにつながると信じている。

次に、「国際的な視点をもつ」こと
国際的な視点をもつとは、国際人の育成である。国際人とは、海外で活躍する人のことではない。自分の最も大きな共同体が世界であり、その国際の視点で物事をみることができる人材のことである。一言で述べるなら、世界平和を担う人のことである。私たちは、自分の最も身近な共同体に目を向ける。最も大きな共同体を、世界にするのは、意識し変えられていかなければ身につかない。それが、社会科のもう一つの役割だ。歴史も、日本も、日本人の視点でみるのではなく、国際人の視点でみる。それを授業でまず、実践していく教師でありたい。世界の人々を隣人として考えられる授業を目指す。これが、キリスト教の歴史観です。

私は、このように社会科・歴史を教える教師になりたいです。


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