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宗教が政治や経済に介入する時代に大切なすることがあるのでは? 10月17日 The Conscience of Society 社会の良心

10月17日 
The Conscience of Society
社会の良心

今日のテキスト、 #経済人の終わり は、ナチスが勢力を拡大する1932年に書かれ、1939年に出版されたドラッカーのデビュー作。日本で翻訳紹介されたのは出版から24年後の1963年でした。

今日のACTION POINT は、

社会において宗教は、政治勢力ではなく良心たるべきものです。
今日の宗教の役割をどう見ますか。

 統一教会の政治介入をマスコミは話題にしています。しかし、天理教、創価学会、生長の家といった新興宗教のみならず、本願寺派などの仏教系、そして、キリスト教系、さらには、宗教ではないものの、労働組合、共産党系、無政府主義者の集い、そして、経団連や商工会系といった経済団体など、さらには、朝鮮総連、民団、孔子学園など諸外国が外郭団体を作り、その他数多くの多種多様な団体が己のイデオロギーの実現を目指して政治介入し、政治家も票を目当てにそうした団体に擦り寄り、団体の要望に応えるべく法案や省令づくりに奔走して、結果的に国を売ってしまっている。

 現在の政治情勢や政治家たちの行動を俯瞰してみると、そんなふうに見えてしまいます。

 多数の利害関係者の調整、それこそ政治の役割であるのですが、「国益」という軸があるのかないのか。国民をなんだと思っているのか。それが大事と思います。今日もやっていきましょう。

#宗教は神の王国を捨ててまで社会を受け入れることはできない


 二つの大戦の間、宗教はヨーロッパの社会と政治に基盤を与えられなかった。当時の人たちが教会を無視したわけではない。キリスト教は個としての人間の絶望と苦しみに対しては答えを与えたが、大衆としての人間の絶望に対しては答えを与えられなかった。このことは今日も変わらない。西洋だけでなく、今日ではあらゆる世界の人間が、この世を捨てることができなくなっている。救いを求めるとき、彼らはこの世における救いを求める。
 宗教とくにキリスト教は、福音を説くことはできる。説かなければならない。しかし、祝福をもって政治に代え、贖罪をもって社会科学に代えることはできない。しかも代えてはならない。
 宗教は、いかなる社会においても良心たりうる。しかし宗教は、神のみとともにある魂の王国、神の王国を捨ててまで社会を受け入れることはできない。この点にこそ、社会における良心としての宗教の強みがあるとともに、社会における政治勢力、社会勢力としての、いかんともしがたい弱みがある。

(『「経済人」の終わり』 1996年版への序文)

ACTION POINT
#社会において宗教は
#政治勢力ではなく良心たるべきものです
#今日の宗教の役割をどう見ますか

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