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社会人MBAから博士課程というルートについて考える②

前回の振り返り

 前回の記事では、社会人MBAから博士課程に進もうとする社会人が増加傾向にある点に言及しながら、彼/彼女らが抱く進学への「問い」と、それを相談された指導教員や、その他専任の研究者の職にある人達による「問い」が清々しいほどに噛み合わない点について指摘しました。

 前回の記事について、やや厳しい指摘だと感じられた読者もいらっしゃるかもしれませんが、このシリーズ(社会人MBAから博士課程というルートについて考える)の1回目で、敢えて厳しめの指摘を持ってきたのにはきちんとした理由があります。それは、社会人としての勤務を続けながら研究を行い、学術誌に査読付き論文を何本か通し、博士論文を書き上げるというプロセスを完遂することは、ほとんど”無理ゲー"(注:クリアすることが非常に困難なゲームを表すネットスラング)と言ってもけっして過言ではないくらいに、能力と努力は当然のこと、周囲の理解や身を置く環境とのめぐり合わせ(すなわち運)などが関係するからです。

 考えてみてください。フルタイムの大学院生ですら、3年間で博士論文を書き上げられないことが決して珍しくない状況下にて、フルタイムの社会人を続けながら、どうやってフルタイムの大学院生と戦って勝てるのでしょうか。ましてや、社会人MBAから博士課程進学を選択する人の多くは、それを選択肢に入れる時点で、既に現在の仕事もバリバリ、そして社会人MBAの同期の中でも自他共に認める優秀な成績であったことは間違いないはずです。事実、僕の経験上では、そうした方々が、仕事のキャリアアップも視野に入れながら博士学位の取得を目指すも、出世をしたり、転職に成功したりと、本業の方で成功しながら博士課程からフェードアウトしていく方々が大半であったように思います。

 ・・・と、今回も厳しめの論調での書き出しになってしまいましたが、決してこれが僕の作風ということではありません。僕が社会人MBAから博士課程へ進むことを視野に入れた11年前は、こうした相談ができる対象に、社会人としての勤務を続けながら博士学位を取得した人も、専任教員のポジションを得た人も皆無でした。(あくまでも僕の周辺の話に限りますし、そうでなくとも、経営学領域限定の話だとご理解ください)
 そこで、今回の記事では、前回の記事の次回予告通り、僕が社会人MBAから博士課程に進むことになったきっかけについて開示していきたいと思います。

「修士までは知の消費者、博士からは知の生産者」

 「修士課程までは知の消費者、博士課程からは知の生産者にならなければならない。その覚悟はあるか?」
 
このお言葉は、どうやら木川がD進を検討しているらしいぞ!?という噂を聞きつけたK先生(都立大のビジネススクールの実質的な創設者であり、都立大の経営学系の組織を引っ張り続けた偉大な先生で、現在は定年退職され名誉教授)から投げかけられた言葉です。今思い返しても痺れる問いかけですが、いつ何があったのかを振り返ってみましょう。
 以下では、①博士課程進学を視野に入れたきっかけ、②博士課程進学を視野に入れてから修士論文を書き終えるまで、③修論の指導を通じて垣間見ることができた「博士課程の心得」、の3つに分けて整理していきたいと思います。

①博士課程進学を視野に入れたきっかけ

 前回の記事にて、『「博士課程に進んで何をしたいか」を考えるのではなく「博士学位を取得して何がしたいか」を念頭に置くべき』などという、偉そうな主張をしてしまいましたが、僕が博士課程進学(以下、D進)を選択肢に入れたのは、M2の夏のことでした。それは、割と単純で受け身な動機で、単に当時のゼミ同期から誘われただけなんです。それゆえ、大変恥ずかしながら、博士学位を取得して何がしたいかなどの明確なプランも別に持っていませんでした(だからこそ、自分の反省を踏まえ、こうして媒体に記事としてまとめているわけです)。

 話を戻します。当時のゼミ同期のS氏から博士課程進学を誘われた僕は、完全な受け身の姿勢ながらも、修論の指導教員であるM先生とS氏と僕の3人でランチを取りながら進学の相談をしました。今でも覚えているのは、ランチをしたお店が、当時の都立大は東京都庁にキャンパスがあった関係もあり、都庁の近くの今半だったことですね。
 D進を考えているということを伝えたM先生からの回答は次のようなものでした。※かなり意訳しています。

 学位取得を目指すのはいいと思うし、不可能ではないと思います。諦めなければいつかは取れます。いずれにしても、まずは修論の出来を見てからですね。あとは、今年のゼミ同期4人のうち、修士で終わりの2人と君たち2人については指導の仕方を変えないといけませんね。

 このコメントを頂いた時に僕が想像したことは、D進を視野に入れたS氏と僕に対しては修論の指導が一層厳しくなるのだろうなということでした。しかし、蓋を開けてみると実際に起ったのは真逆のことだったのです…。

②博士課程進学を視野に入れてから修士論文を書き終えるまで

 D進を視野に入れることを正式に指導教員のM先生に伝えた直後、M2の夏休みに突入しました。当時の僕が取り組んでいたテーマは、知識の吸収能力(Cohen & Levinthal, 1990)に影響を与える要因が技術のライフサイクルの各フェーズによって変化するということを、製薬会社とバイオベンチャーの提携データや特許データを用いて実証するということでした。
 このテーマに取り組むためには、統計分析や社会ネットワーク分析の知識が必要なのですが、それまで全く取り扱ったことがありませんでした。それにもかかわらず、当時(29歳)の僕は、分析に必要なデータセットに25万前後の大金を支払って購入してしまうという無鉄砲な男でした。もちろん、25万円という金額は当時の僕にとっては(今もですが)かなりの大金です。購入してしまったからには絶対に活用するしかありません。
 そんなこんながあり、M2の夏休み(8月〜9月)は、統計分析の勉強を独学で行う毎日が続きました。唯一幸いだったのは、初心者の場合、データセットの加工を独力で行うことはほぼ不可能、もしくは膨大な時間が必要なのですが、僕はSQLをゴリゴリ書くことができたので、それがボトルネックにならなかったという点でしょうか。
 10月に入っても分析の試行錯誤は続きます。アライアンスデータだけだと自らが主張したいことがうまくモデルに当てはまらないことが分かると、今度は特許データを入手してきてそれをクリーニングする日々が始まりました。その次にバイオベンチャーの所在地の情報が必要になったため、確か1300社近くのバイオベンチャーを1件ずつ全部ググり、所在地(国や州)をリストに書き記す日々が続きました。

 このような試行錯誤を続け、最終的にある程度納得のいくモデルが出来上がったのは11月の最終週でした。その時の先生の言葉が『「思えば遠くに来たもんだ」という感じですね』だったということは今でも覚えています。ただし、喜びも束の間、まだ一文字も書いていない修論の締切が1月10日に迫っている現実に気がつき、一瞬で我に返りました。
 修論執筆の具体的なプロセスは割愛しますが、執筆の過程で先生に原稿を見せても一言二言の短いコメントを頂くだけで、基本的には自分で進めろという感じでした。試しにD進をしない同期2名の修論原稿を覗いてみると(当時、先生とゼミ生全員で修論原稿をDropboxで共有していた)、彼らの原稿には、先生からのコメントがびっしりと書き込まれていました。
 この時、僕は、ようやく先生にD進を切り出した時の先生のコメントの真意に気がつくことができたのです。

③修論の指導を通じて、垣間見ることができた「博士課程の心得」

 上述したように、指導教員の先生にD進を切り出して以降、先生の僕に対する対応は、基本的には放任というか、やりたいように進めてみろという感じでした。誤解のないように申し上げておくと、完全に放置されたわけでもなく、全てを独力でやり遂げなければならないと言われたわけでもありません。恐らく、僕がSOSを出したら即座にサポートすべく準備をしてくださっていたのであろうということを確信しています。
 以下は、指導教員の先生から直接投げかけられた言葉ではありませんが、その後の先生との長い付き合いの中で教えられた事を総合すると、D進を視野に入れた当時の僕らへの修論の指導方針の真意を次のような内容にまとめることができるでしょう。
 博士課程に進むということは、いずれはプロの研究者になるということ。独り立ちした後は、当然指導教員の助けは得られない。遅かれ早かれそうなるのだから、まずは指導教員の手をあまり借りずに修論を書いてみてくれ、お手並み拝見。といったところでしょうか(かなり乱暴な意訳かもしれませんが)。
 事実、D進後に先生から常々言われていたのは、「指導教員を超えていかなければ学位は出せませんから、木川さんが研究を進める上で必要となる知のリソースは自分で探索して自分で切り拓けなければだめですよ」ということでした。

おわりに(中間まとめ)

 本記事で示したきたような、僕の指導教員の方針が唯一最善の方針かどうかは分かりません。きっと全く異なる指導を受けて博士学位を取得し、立派に大成した研究者もいらっしゃることでしょう。この記事で主張したいことは、あくまでも「こういう考え方もあるよ」ということです。これが全てだと申し上げるつもりはありません。
 他方で、これまで述べてきたようなエピーソードに代表されるような方針で指導を受けてきた僕が、僕より先に学位を取得した同門の先輩はおろか、同じ研究者出身の先輩もいない中で、こうして研究者として食べていくことができているのは、本記事で述べてきたような僕の指導教員の先生による指導方針のおかげだと思っています。

次回予告

 なお、後日談ですが、(修士論文を無事に提出した翌日か翌々日だったとおもいます)先生とゼミ生4人で打ち上げを行いました。二次会で他のゼミ生が喫煙所かトイレに行き、先生と僕の二人きりになった数分がありました。博士課程の願書の出願締め切りを4日後に控えた日のことでした(すなわち、当然合格発表は行われていません)。
 「昨日提出した修論、来年編集し直して『組織科学』に投稿してね」。この指示が、どれほど大きなことか、当時の僕は知る由もありませんでした。さらに、情報を小出しにしてしまい申し訳ありませんが、僕がD1に進んだ年度に指導教員の先生はサバティカルを取得する年度でした(当然、もともと予定されていた)。
 かくして僕は、指導教員不在の中、修論を組織科学に投稿するために大幅に編集するというミッションを背負いながらD1を迎えたのであります。

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