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そこは見渡す限りの青だった。断崖にぽつんと点在する小さな家が、二人のただ一つのユートピア。
そこで夢を見て食べて笑って、時々泣いて時々怒るどうしようもない僕たちの、この世の終わりのような数日間は果てしなく長く、そして信じられないほど呆気なく過ぎて行った。

一ヶ月分の食料と燃料と、頭痛薬や風邪薬や絆創膏その他色々を車に詰め込んで、食糧の終わりと共に僕らのこの世の全てが終わるプランだった。全財産をそれとなく都会の子供たちに託し、それぞれが身一つであちら側に行けたらそれで良かった。
全てを忘れ、思考が停止してそのまま永遠の時の中で眠り続ける夢がようやく叶う。

おそらく人はそれを「心中」と呼ぶのだろうか。だがそれとも違う安らかなこの世の終わりを楽しむ旅に出たいと、君が言い出した。そんな悲しい目的を持つ旅を果たして本気で心の底から楽しめるのかどうか、正直僕はとても不安だった。だけどそれが僕への最初で最後の我が儘だと君があんまり真顔で言うから、もうその思いに従う以外の途が見つからなくなってしまった。

都会の部屋を引き払うまでに一ヶ月を要し、その間に会いたい人達に会い、呑みたいワインを山ほど呑んで、そして君は腕を振るいありったけのご馳走を作ってくれた。
髪が抜け落ちて30キロも痩せて、それでも君は微笑んでいた。そのままいつ永遠の眠りに就きそうな程足元が少しふらふらしているのに、君の目は少しも泣いてなかった。

君のいない人生なんて考えられない。君が往くなら僕だって、同じ場所へ往きたいと願い、その証しに二人は無言で遺書を書いた。
二人の思いはいつも同じ。だから何の打ち合わせも約束もしないまま、黙ってテーブルの上に薄い便箋を出して、青の万年筆で一つ一つ丹精込めて文字を刻んで行った。

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アイスランドの夏は日が長く、夜を知らない。うっかり時計を見ないで気の赴くままに時を過ごしていると、明るい日の中で徹夜をする事などざらにあったけど、そんな事はお構いなしだった。だってこれが二人にとって、最後の31日間になるはずだったから…。
君の目のように空は青く澄んでいて、その青に今すぐ吸い込まれて行きたいと何度思っただろう。

君に与えられた最後の31日間がこの世で最も美しい思い出になるように、僕はなりふり構わず無謀な時を送り続けた。次第に段々と僕の方が痩せ始め、どちらが不治の病を持つ人なのか最後には分からなくなる程にお互いが同化し始めた。

最後の夜はワインとシチューにするんだと、君は既に決めていた。医者の話ではもうその頃にはだいぶ体力も弱って来て、酸素吸入をせずには自力で呼吸をする事もままならないはずだった君は至って元気で、この雄大な草原の中を楽々と走り回っていた。


その夜、二人は濃い緑色の薬瓶を挟んで、無言でテーブルで向かい合っていた。さっきまであんなに楽しかった時間が嘘のように君の表情は険しかったけど、不思議とエネルギーが枯渇するどころか益々目は力に満ち溢れ、余命と言う言葉が何かの間違いではなかったかと思うほど君はエネルギッシュだった。
だが僕たちは約束通り、その日の午前零時に最後の旅に出る事に決めていて、その気持ちが揺らぐ事はなかった。

尋常ではない量の錠剤を、せーの!で一気に喉に流し込み、二人はそのまま静かに眠りに就いた。枕元でカチカチと時計の音が聞こえて、それは次第に大きくなってそして数秒後にすーーっと消えて行った。

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そしてあれからどれだけ眠っただろう…。長い長い時が過ぎて行ったような気がする。
目が覚めると、そこは見渡す限りの青だった。断崖にぽつんと点在する小さな家が、二人のただ一つのユートピア。

そこで夢を見て食べて笑って、時々泣いて時々怒るどうしようもない僕たちの、この世の終わりのような数日間は果てしなく長く、そして果てしなく自由で安らかだ。
空腹が来ないのはなぜだろうと尋ねると君は、僕にこう言った。
「それはね、私たちが光になったからよ。」…

だけど体の感覚はいつも通りで君に触れるととても暖かいし、細い君の首筋を流れる汗もあの日と変わらずきらきらと陽の光に輝いて、ほのかに花の匂いがした。僕の味覚はずっと、いつか口にしたビーフシチューとワインの味を捉えたままで、時折海から吹く風の味が混ざり込む。

「ねぇ、あそこにある葡萄を食べたいな。」

教会の脇の小さな石に積まれたマスカットや巨峰を両腕に抱えて、無邪気に微笑む君は死んだみたいに身軽で美しくて、その両腕に抱かれた葡萄の山を押し潰さんばかりの力で僕は君を抱きしめた。
プツン…と音がして葡萄の汁が空に弾けると、真昼の太陽が一瞬だけ夕暮れ色に染まった。

二人はこれからも、明日も明後日もその後もずっとこうして風の中を揺らめき続けるだろう。幽霊のように、そして精霊のように。

これは、アルバム「Wheel of Fortune」より「Evolution」からのインスピレーションで綴ったエッセイです。

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