蛙化現象は優柔不断な無能の言い訳
蛙化現象とは、あけすけな言い方をすれば、好意を抱いていた相手に幻滅してしまったことについて、自己弁護的に用いられる言葉だ。
「冷めちゃったけど蛙化現象だから仕方ないよね」というニュアンスでしばしば使用される。
流行語と化している今、必要かどうかは疑問だが、一応改めて蛙化現象の意味を引用しておこう。
この蛙化現象だが、要因について様々な考察がなされている。
その中で最も支配的なのはこういった説明だ。
「自己肯定感の低さに由来する」
「相手を理想化しすぎたために、現実とのギャップが発生して冷める」
「相手が自分を好きだとわかった瞬間に、『自分を好きになる程度の人間なんて大したことがないな』と判断してしまう」
肯定的に「蛙化現象」という言葉を使う人々からすれば「自己肯定感の低い自分」に対して憐憫を抱くことができ、否定的な人々は「なんだただのメンヘラか」と納得させることができる。
という風に、どちらの陣営(というのもおかしな話だが)もこれで概ね納得しているようだ。
しかし、その納得はさらなる掘り下げを妨げている。
蛙化現象は自己憐憫と自己弁護としての用途の強い言葉だ。
そのため、この言葉の使用者が自らの体験について語るときには、人の顔色を窺わなければならない。
そして、人の顔色を窺った語りは要領を得ないのが常だ。
ドタキャンする奴は蛙化現象が起こりやすい
俺は蛙化現象の経験がある。
冷められた経験ではなく、冷めた経験の方だ。
「自己肯定感の低さに由来する」
「相手を理想化しすぎたために、現実とのギャップが発生して冷める」
「相手が自分を好きだとわかった瞬間に、『自分ごときを好きになる程度の人間なんて大したことがないな』と判断してしまう」
さて、自己憐憫や自己弁護を抜きにしたとき、当事者からこれらの解釈はどう映るのか?
正鵠を射ているだろうか?
大外れではないが、微妙だ。
蛙化現象を理解するにあたってとても明快な例を用意した。
先に断っておくが、これは男女関係とは全く別問題のエピソードだ。
だが、それでいい。理由は後でわかる。
俺はそのとき、とある観光地が気になっていた。
そんな話をしたところ、友人のYも同様なのがわかり、何週間後の休日に二人でそこへ行こうという風にふわっと話がまとまった。
予定の数日から一週間ほど前のことだ。
ヘラヘラと弁解しながら、俺は「やっぱり行くのをやめる」とのたまい始めた。
別に外せない用事が入ってきたというわけでもなく、正真正銘ただのお気持ちだ。
これは一見、「何に冷めたか」というのが「男」とか「女」から予定に置き換わっただけだが、実際にはそれ以上の意味がある。
理不尽なキャンセルをした俺の中で一体何が起こっていたのか。
俺は、
「もっといいお金や時間の使い方があるんじゃないだろうか」
「Yと一緒にいるのは本当に楽しいだろうか」
「やっぱりそれよりもあのゲームの続きをやりたいかも知れない」
これらのような不安によって決定を下した。
はじめ、俺は待望の観光地への憧れで浮かれていた。
だからぺらぺらと人前でそのことについて話したのだ。あわよくば旅の道連れが見つからないかと期待して。
しかし、「予定」が「現実」となる日が近づいてくると、幻想は色褪せ始める。
旅行や観光には、何かしらの幻想を持ち込んでいくものだ。
だが、自分が見ている夢は、本当にそこで叶えられるのだろうか?
資産と時間は有限だ。果たして、これから自分のやろうとしていることは、コストに見合った価値を提供してくれるのだろうか?
待っていれば、もっと自分に相応しい何かが訪れるのではないだろうか。
「好きになってもいい人間なのか」を吟味する作業
「観光をドタキャンしたという経験で、当事者面をしているんですか?」と思われるかも知れないが、本来の語義通りに異性に幻滅したこともいくらでもあった。
メカニズムとしては、双方に大差はない。
例えば、「相手から好意を向けられた瞬間」というのは予定が現実になる兆候だと見なせる。
Twitterで蛙化現象がトレンド入りした折に、「好きな人に冷めるなんて考えられない。好きな人の仕草はどんなものだってかわいいし、好かれたら嬉しいに決まっている」と言っている人もいた。
しかし、このような人たちが蛙化現象の予備軍である可能性は十二分に考慮できる。
「好き」という状態が確定された想定をしていれば、その感情は揺るぎないと信じてしまうだろう。
だが考えてもみてほしい。
この世界に確定した「好き」や「愛」なんてものがあるか?
感情は不変ではない。物事への評価などコロコロ変わるものだし、恋愛と結婚が必ずしもイコールではないにしろ、日本の離婚率は35%だ。
カップルが別れる確率はそれよりも遥かに高い。
蛙化現象とは何か。
「好き」が「嫌い」や「キモい」に反転することではない。
好きになる前に、好きになってもいいかどうか品定めをする段階があるとイメージしてもらえるといい。
世の中に溢れている「好き」とはほぼ全てがこの段階だ。「好き」は多くの場合確定することはないので、永遠にこの品定めの段階が続くこととなる。
蛙化現象の『お姫様』は自分という唯一無二の財産をできるだけ高く売りつけたい。
手に入る限りで最高峰の相手と交際し、婚約したい。
『お姫様』の目的は人を好きになることではない。それはあくまでも手段だ。
幸せになりたい、とか上位の人間になりたい、キラキラしたい、とかそういう願望があり、それを叶えてくれる人間であれば、私の「好き」を捧げてやることを考えてもよくてよ、という順序だ。
やっぱりもっといい人と付き合いたいです
だが、一度に選べる条件はひとつであるにも関わらず、世の中には無数の選択肢がある。
それも、その選択肢の横にわかりやすく「幸福度 70」とか「幸福度 100」なんてバロメーターが書かれているわけでもない。
その中で一番いいものを選び取る工程とは、金はあるけど顔がなあ、とか、性格はいいけど貧乏だしなあ、とか、金はあるけどキラキラしてないしなあ、とか、優しいけど覇気がないしなあ、とか、無限にある優劣の組み合わせの中から「一番ましだと思うものを選ぶ」という結果にならざるを得ない。
そもそも、「彼は本当にハイスペなのだろうか?」「彼は本当に性格がいいのか?」など、定かではない。
「私はハイスペだと思っててたけど、井の中の蛙だったらどうしよう」とか疑いだしたらきりがない。
だから、選択というのは不安な作業なのだ。
AとBのメリット、どちらを重視すればいいのか。
自分に最良の判断ができているという保証などない。細部に気を奪われて肝心な部分を見過ごしてしまうかもしれない。
商品を選ぶとき、人間は「一番最後に残るのが一番いいものだろう」という見立てのもとに消去法を使う。
好意を持っていた相手に冷める瞬間とは、消去法が作動した瞬間だ。
「彼氏が小銭を出しているところを見て急激に冷めた」というのは苛烈な粗探しの結果だが、消去法はまず粗探しから始まる。
「彼氏が小銭を出しているところを見て急激に冷めた」という経験の持ち主は、何がそんなに面白いのかというほど楽しそうにその経験を話す。
粗探しが目的化しているからだ。
俺も随分身に覚えがある。
ドタキャンは「観光地へ行く」という予定に対しての粗探しから起こったものだし、挙げればきりがないので割愛しているがもう何個か同じような経験をしている。
小銭と同等くらいの理不尽な理由で異性に幻滅したこともある。
好きになられるのは面倒だしキモいけど無関心でいられるのも嫌
蛙化現象には本来の意味と誤用の二つがあり、二通りの意味を持ってしまっているが、この記事では両方をひっくるめている。
「自分に好意を向けてきた人間を気持ち悪いと思ってしまう」
「フードコートでキョロキョロしている姿を気持ち悪いと思ってしまう」
これらは確かに別の意味を持つが、ある程度どちらかの経験はどちらかと相関しそうだし、結局は同じメンタリティからもたらされた結果だと推察しているからだ。
蛙化現象とは、どんな人が引き起こすのだろうか。
それは、優柔不断な無能だ。
運命が「最も素晴らしい選択肢」を授けてくれるのを待っている、そういう他力本願な人物に蛙化現象は起こる。
以前に知人が「明日友達と遊びに行くんだけど、いつも直前に面倒くさくなってくるんだよね」と漏らしたのを聞いた。
「蛙化現象はこういう人間がなりやすいのか」というに合点がいったのはあのときだった。
俺はその人物が蛙化現象を起こしているのを見ていた。
異性への冷めやすさは、それだけでは完結しない。それはあくまで発生した問題のひとつだ。
男女関係は期待や齟齬が大きくなりやすい分、問題もそれに乗じて大きくなりやすいだけだ。
自分から進んで参加した集まりを面倒くさいと思うことと、アピールしていた好意に対して好意が返ってきたときに気持ち悪いと思ってしまうこと、これらはとても似ている。
その身勝手さを恥ずかしげもなく吹聴しているのを含めて似ている。
「集まりに参加する」という選択肢や、「好意を受け入れる」という選択肢を選びきれない。
だが、「集まりに参加せず一人で過ごす」のも「好きになれるかもしれない人を見つけるのを諦める」というのも受け入れられない。
「やめる」のも選べない。
何も選べない。それが蛙化現象だ。
だから「面倒くさくなっちゃうんだよね」とか「蛙化しちゃうんだよね」などと言いつつ、何度も飽きずに同じことを繰り返す。
都合のいいときにどちらにでも転べるよう、選択肢をキープし続ける。
おそらく不義理や不貞を働くリスクも高いだろう。
「自己肯定感が低い」
「相手を理想化しすぎたために、現実とのギャップが発生して冷める」
「相手が自分を好きだとわかった瞬間に、『自分ごときを好きになる程度の人間なんて大したことがないな』と判断してしまう」
これらの理由は、全てオマケだ。
「選択に自信が持てない」というのが全ての根幹にある。
フリマアプリで出品した商品がすぐに完売したとき、我々は「もっと高く売れたんじゃないか」と後悔する。
あるいは、「これから梱包してコンビニや郵便局に持っていかなきゃいけないんだ。嫌だな、面倒くさいな。トラブルが起こったらどうしよう」と不安に駆られる。
好意が返ってきたとき、これと同じことが起こる。
「もっといい男が落とせるんじゃないか」
「これから付き合ったり、結婚したり、義務や責任を負っていかないといけないんだ。嫌だな。楽しくなさそうだな。自由でいたいな」
加害者であることに耐えられない
蛙化現象はただのヤリ捨てだ、と言われているのを見た。
全くもってその通りだ。
ヤリ捨てと違うのは、何故か加害者が自己憐憫に浸っているところだ。
まともな神経をしていれば、そんな自分が他人からどんな風に見られるかくらいはわかりそうなものだ。
では、被害者の視点で語ってしまったことで、他人にどう見られるかを意識できた場合はどうするのか。
ひとつには、もちろん、被害者の視点で語らないという方法がある。そもそもこの問題について口を閉ざすということもあるだろう。
だが、この旗色の悪さを認識してもなお、じっとしていられない人々が存在する。
責められるのが嫌なのであれば黙っていればいいのだが、わざわざ自分が蛙化女なのをばらして釈明を始めてしまう。
よく見るのは、「確かに私にも問題はありましたけど」と形だけの反省から始まるやり方だ。
「確かに自分からアプローチをしかけてその気にさせたのは悪かった」と四行くらい語って、その後ひたすら相手の問題点を指摘し続ける。
なんというか、信号無視がおまわりさんに見つかって注意を受けたことに腹を立てている人たちみたいだ。
彼らは「世の中に溢れる凶悪犯罪が見逃されているのに、こんな小さなルール違反に目くじらを立てている暇があるのか。警察かこんなに怠惰だから社会はよくならないんだ」と話をすり替える。
そして経験を改竄するというやり口もある。
自分から粉をかけた事実をなかったことにして、「そんなつもりじゃなかったのに告白された」とか、「ちょっとからかってやっただけなのに本気になってて笑う」と言い始める。
正直、これの実例を見たときには驚いた。
「私、相手が自分に振り向いた瞬間に冷めちゃうんだよね」と自分で言っていた人間が、同棲相手と破局したときに「最初から利用しようとして近づいただけなのに本気になってて間抜けだったわ」と言い始めたのだ。
「女性が過去の交際相手をボロクソに言っているときは話半分に聞かなければならない」なんていうことは分かりきっていたつもりだったのに、それでも面食らった。
さらにもうひとつに、自虐風自慢がある。
被害者の視点で蛙化現象を語らない人々は散見できる。
言葉の上では「あのときは悪いことをしました」と言っている。
だが、その実その中のほとんど全ては、「自分はいかにイケメンやハイスペと懇ろになって、彼らを袖にしてきたか」という話に終始している。
語りや記述の熱量が、「悪いことをしました」の部分と「イケメンやハイスペのお眼鏡にかないました」の部分で明らかに違う。
この場合、「被害者の面構えをしていない」というよりも、「マウントを取る心地よさが被害者でいる気持ちよさを上回った」といった方が正しい。
そんなまわりくどいことをやるか? と思うだろう。
まあ、やるだろう。なんといっても蛙化現象を起こす人間だ。その内面は複雑怪奇極まりない。
おわり
「優柔不断な無能」とはえらく過激だが、これは自分を鑑みて出てきた言葉だ。
優柔不断なのは、品定めが度を越えて慎重だからだ。こうやって蛙化女を評価しているのも品定めの結果のひとつだ。
お読みいただきありがとうございました。
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