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【小説】静かな宴

 チャンネル登録者数が十五万を超えたあたりから頭打ちになり、いわゆる一軍たちが五十万で伸び悩んでいると匿名掲示板で嘲られるのを傍目に、むしろこのくらいの規模のほうが熱心なファンの名前を全員覚えていられるし、専用のアンチスレを立てられて執拗に誹謗中傷されることもないし、ボイスを録ったり、運営から送られてくる案件をこなしさえすれば、ひとまず暮らしていける収益を上げることはできている。いつまでこうしていけるのかは分からないが、いまはただこうやって生きていくしかない。そのようにして二〇二〇年六月十三日に艫綱詩(ともづな・うた)は二周年記念配信を行い、同時接続者数は五千人、同業者から十人ほどの凸を受けて、ネットニュースにもならず、トレンド入りもしないほどのささやかな、しかし幸せな夜を過ごしたのだった。その一ヶ月後、彼は本当の誕生日を迎え二十二歳になった。ネット活動歴は八年ほどになる。ニコニコ動画に『青鬼』の実況動画をアップロードしたのが最初だった。
『青鬼』はフリーゲーム実況ブームのなかで最も有名な作品の一つである。RPGツクールという市販のエディターによって作成された本作では、プレーヤーがなすすべもなく追いかけられる、コンシューマーでは『クロック・タワー』シリーズなどと同じジャンルに属していた。また『青鬼』には依然として面白フラッシュ由来のアンダーグラウンドな怪奇性を帯びていて、いわばインターネットの黎明期を締めくくる作品でもあった。
 その後継にあたる『Ib』や『魔女の家』はよりサブカルチャー色が濃い。主人公にあどけない無口な少女を採用したことで、どことなく寂しげで切ない印象を与えることになった。ここには『青鬼』とは一風異なるかたちでカルト的人気を得た『ゆめにっき』という、やはりRPGツクールで作成されたフリーゲームの影響が見られる。舞台である夢から断片的に主人公の少女の素性や性格を、あるいは過去に何が起きたのかをプレーヤーが想像する。物語の全体は一向に不明なまま静かに完結を迎える。解釈が多様であるがゆえに、トークに自信のある実況者に好まれたフリーゲームだ。当時は『青鬼』と『ゆめにっき』のどちらのゲームを選ぶかによってその実況者の方向性が決定づけられたと言っていい。
 艫綱は幼稚園のころから共働きの両親によって与えられたGBAの「ロックマン」シリーズや、従兄弟のお下がりのスーパーファミコン「ドンキー・コング」シリーズ「ロックマンX」など、とりわけ2Dスクロールを得意としていた。もちろん『ポケットモンスター』シリーズもやり込んだ。ルビー・サファイア世代である。友達たちと公園に集まって一人が持ってきた通信ケーブルを代わりばんこに繋いだバトルでも敵なしだった。
 ある日のことだ。最新のゲームを買った友達に「クリアできない難所を攻略してほしい」と家に招かれた。こういったことは初めが肝要だ。艫綱は見事にやってのけてみせた。あたかもこのゲームを全クリしたことがあるかのように振る舞ったのである。当時小学四年生の少年にとってこの出来事は自我の発達に大きな影響を与えた。多少の嘘をリカバーできる程度の技量が備わっていたのが幸いした。それから同じような依頼が何度となく舞い込んできた。しかも異なるクラスの友達の友達のような少年たちからも招聘されるようにもなる。彼は一度も失敗しなかった。失敗したくなかったから父親が仕事用に買ってきたテレビよりも大きなデスクトップのPCで攻略情報を検索して、自由帳に書き取ってから何度も繰り返し読んで暗誦した。実際には誰も彼がこのゲームをクリアしたことがあるなどとは信じてはいなかったのだろう。しかし予習の成果である淀みのない攻略解説と物語のちょっとした豆知識を披露すると、みんなが喜んでゲームの世界に惹き込まれていくのである。

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 昼休みになると、校庭の朝礼台に集まって『ドロケイ』をするのが習慣だった。グーとパーで〈警察〉と〈泥棒〉の二つのグループに分かれ、前者が後者を追いかけ回し、捕まえられた者は朝礼台の上に収容される。そして〈泥棒〉側が監視の目を掻い潜り朝礼台に上れば仲間を解放することもできた。〈泥棒〉全員を捕まえると〈警察〉の勝利だが、昼休みの短い時間では条件を達成するのはきわめて困難だ。艫綱はこの会の旗揚げ人だった。仲のいい六人で遊んでいたのが、参加者が増えていくにつれ、いつしか見知らぬ顔も混ざり、なんとなくドロケイの会から足が遠のいていった。
 小学五年生のある春の晴れた日である。男子トイレで小便を足していると、隣に佐々木が立った。二人は今年から別々のクラスになってしまい、この日までおよそ一ヶ月のあいだ口をきいていなかったのである。彼はやはり小便をしながら言った。
「おー、トモじゃん。ひさしぶりにドロケイしようぜえ」
「よっしゃあ!」
 すぐさま昇降口へと下りていき、まだ真新しい白い上履きを脱ぎ捨て、稲妻を模したジグザグのマークのついたメッシュの青い運動靴に履きかえると、日差しに浸されて、まるで砂漠のように殺風景な校庭へと駆け出していく。そこで彼は彼女と初めて出会ったのだった。
 桜の木にはもう葉っぱが混じっていたけれど、幼い彼らの背丈で季節の移ろいを確認できたのは、おそらくみんなより頭一つ分だけ背の高い彼女だけだったであろう。見覚えのない顔だった。ドロケイの会から遠のいているあいだに学年の異なるさまざまな人々が参加していたようで、当然のように佐々木は詳しい紹介を挟むことなく、集まった顔を見回し、焦ってでもいるかのように左腕を振り上げて「グーとパーでわかれましょ!」と叫ぶと、いくつもの成長過程の日に焼けた手首に混じってパーの鮮やかな輪郭が輝いていた。一瞬のうち気遅れて、彼は自分が追う側なのか、それとも追われる側なのかわからず、しかし誰かの「逃げろ!」という号令に従い、右足の踵を可能な限り遠くの地点に向かって突き立てた。左足をさらに遠くに向かって振り上げながら、右足の親指と人差し指で運動靴のソール越しにしっかりと地面を捉えると、躍動する下半身に置いてかれないように上体をぐっと前に傾ける。いつもそうやって走ってきた。艫綱は足が速いことに確かな自信を持っていた。運動会の徒競走ではいつも一位、四年生最後の五十メートルのタイムは9秒を切った。なにより走ることが好きだった。風を浴びると胸に幸福感を覚える。まるで自分が風そのもののように。
 とつぜん振り返り、〈警察〉が一挙に散じるのを確かめ、方向転換に踏み出すと、ゲンちゃんが背後についたのが声で分かった。「まっちやがれえ!」と息を切らしながら、でたらめな走り方でついてくる。そんなんで追いつくもんか。もっと速くできるんだ。体育館のほうへ一直線に走り抜けようとすると、どこから現れたのか佐々木が視界の端からにゅっと浮かび上がってきた。「油断だぜ」と迫ってくる顔がにやけた瞬間、艫綱は急速に転回し、姿勢を低く、地面とほとんど水平に足を突き出して、ゲンちゃんの脇の下をくぐり抜ける。五厘に刈って痩せこけた頭が驚きにそりかえった。「まだまだあ!」と内心は焦りながら声を弾ませた。
 目指しているのはビオトープだ。小学生にとってはちょっとした林のようになっていて、低学年の生徒たちの立ち入りは禁止されている。一旦、そこで体勢を整えることにしたのだ。徒競走や鬼ごっことは異なり、ドロケイには戦略が求められるのである。ただ足が速いだけではだめだ。いつかは〈警察〉に囲まれてしまう。昼休みが短いせいで〈警察〉側の勝率があまりに低く、いつしか勝利を諦めてしまい、ほとんど鬼ごっこと変わらなくなっていった。俺がドロケイの会から離れたのは、ゲームがゲームじゃなくなっていたことも影響していたのだ。林の入り口に辿り着いたとき改めて気がついた。初期メンバーである佐々木もきっとそう思って、ひさしぶりに自分を誘ってくれたんじゃないか。それならこのゲームをただの追いかけっこにしちゃいけない。
 アメンボが糸のような細長い足で滑っている水面には木漏れ日が浮かんでいる。水底にオタマジャクシが引き攣った筋肉のようなぎこちなさで泳いでいる。池の縁石に屈み込んで息を潜めている少女はなんだか重たげに見えた。青白い肌を斑らな陽のひかりに照らされている。全方位から重力が彼女に向かって流れ落ちているようで艫綱は思わず息を呑み込んだ。そのまま少し離れたところに立っていると、こちらを振り返りもせずに「頭を低くしないと見つかっちゃうよ」と彼女は宥めるように囁いた。木の葉が頭上で微かにそよいで、春先のおもしろそうな、笑うようなさざめきが遠くで子供たちの声に静かに寄り添っていた。それは女子たちが授業中に私語するのを半ば眠りながらこそばゆく感じているのと似ていた。後ずさろうとすると、彼女は真っ白な校庭を仰いで、「きみ、トモっていうんでしょ?」と訊ねた。
「うん、そうだけど」
「やっぱり」
「なにが?」
「ゲーム、好きなんだよね」
「え、まあ」
「バイオハザードってやったことある?」
「あるよ」
実際にはなかった。そもそも『バイオハザード』シリーズはCEROがDで統一されており、十七歳以上対象のゲームである。ただ実況動画で何回か見たことはあったし、本格的な3Dアクションゲームの名作として興味もあったが、財布の紐が堅い両親が買い与えてくれるということは万が一にもなかった。それでも意地があった。すべてのゲームをクリアすることができるという自負があった。
「4なら、クリアしたことあるよ。クラウザー戦の砦が難しいんだけど、俺は楽々だった」
「へえ。すごいんだね」
「なんならクリアしてやっても——」
「お願いしようかな」
「おう!」と威勢よく力瘤をつくった。いつのまにか彼女はまた水面に視線を落としている。後ろから丸みを帯びた頬と切長な目の端ばかり見つめてしまっていたことに艫綱は気づいていなかった。昼の柔らかなひかりが重なり合う木の葉たちを縁どって地面に投げかけられた網状の影は木々が揺れるたびにかたちを変える。
 収容された仲間達を救いに朝礼台へ向かうと佐々木が仁王立ちで待っていた。名前の知らない仲間達はなにかを話し合ってはときどき声を出して笑う。佐々木の小さな背中では隠れることはないし、誰かが止めてくれるわけでもなく、風がないせいで汗が内腿を伝っていく感覚がやけに気持ち悪かった。俺たちの戦いはこんなにも孤独でなくてはならないのだろうか。佐々木は自信を湛えた瞳でまっすぐとこちらを見つめている。風が吹くのと同時に走り出す。左からケンタが突進してきた。みんなより一回り太っているが、決して足が遅いわけではない。なんの工夫をしなくてもその突進は脅威的である。本当にあれがぶつかればどうなることだろう。放課後にバスケをしていた別のクラスのやつが背後からケンタの体当たりを受けて、尻餅をつくところをとっさに庇って両手首の骨を折ったという。そのときケンタは悲しみのあまり泣いたそうだ。悪気がないのが恐ろしかった。艫綱がやや大回りに避けたのを見逃さなかったらしく、すかさず軌道を戻そうと左足を軸にして身体をずらすとちょうど正面に佐々木が立っていた。どこかで雀の啼き声が聴こえる。重力に逆らえず地べたに倒れそうになったとき、胸元に小さな手のひらの感触がした。
「やりぃ!」
ゴーン! ゴン、ゴーン!
 昇降口を駆け上ると、踊り場に彼女がいた。「これ」と呟いて、ノートの切れ端を握り込ませてくる。そのあいだに背後についていたゲンちゃんに追い抜かされた。

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『バイオハザード4』の実況といえば、その当時は新感覚冷やし系魔法少女ヒャドによる「biohazard4 日本語吹き替え版」シリーズと、maroriによる「バイオハザード4 実況プレイ垂れ流し」シリーズだった。どちらにも「伝説のはじまり」というタグがついている。現在ヒャドはその名前のまま個人勢Vとなり、細々と活動を続けている。maroriはまれにラジオを行なっていたが、二〇一九年に出産を発表してから事実上活動を休止している。どちらも黎明期の実況主の辿る道としてはよくあるものだろう。
 艫綱はどちらかといえば男性実況主を見ていた。もちろんその当時有名だった水宮浅葱(現在では詩衣雫月)を知ってはいたものの、その他の女性実況主をほとんど見たことがなかった。それは男のほうがゲームが上手いとか、女のトークはつまらないとか、そういった2chでよく言われる偏見を無邪気に間に受けていたというよりも、コメント欄の荒れっぷりが男性実況主のものに比べられないほど激しかったからであり、それに対する女性実況主の反応を見ても、小学生の艫綱にはどう楽しんでいいのかわからなかったからであった。
 鈴木という名字だと知ったのは表札にそうあったからである。小学校の東門を出ると右側に向かう。家とは反対方向だ。ケンタの家を横切る。一つ向こうの道路は国道だったが、こちらまで車が入ってくることはめったにない。小さな公園を抜けて土手の下に出る。浅い河川には似合わないほどの立派な土手は生まれたころから工事が続けられていて、磯の香りがした。隣町の港から流れてくるのだろう。住宅街に戻る。約束は十六時に正門だが、それまでにはまだ一時間もあった。一度帰って動画を見直すこともできたのにそうはしなかった。
 公園のベンチに腰掛けていると斎藤たちが来た。艫綱は見つかるまえに後にした。まだ時刻は十五時二十分だった。なにも考えられずにふらふらと歩いていると神社に差しかかる。ここで一度泊まりのイベントに参加したことがあったのをふと思い出した。どういった目的だったかは覚えていない。知らない上級生達と雑魚寝して、そのときどこまで足を開脚できるかという痩せ我慢大会に巻き込まれ、自分の身体が思っていた以上に柔らかいことを知ったのだった。あれは二年くらいまえのことだっただろうか。もう彼らの名前も顔も思い出せなかった。神社の向かいには大きな屋敷があって、どうやらそこは同じクラスの倉本の家らしかった。彼女とは一度同じ班になったことがある。小学四年生のころから班のなかで交換日記を回すというルールが始められた。彼女の日記も読んだことがある。いつも勉強のことが書いてあり、成績がいいやつの生活とはこういうものなのだな感心した。普段、家に帰るとすぐ玄関にランドセルを脱ぎ捨て、公園か友達の家に遊びにいってしまう自分とは大違いである。倉本はいまも、このいかつい門の向こう、自分の部屋で今日の授業の復習でもしているのだろうか。それともいつもの俺と一緒で実はもう遊びに出かけているかもしれない。根暗なわけじゃないし、友達がいないわけでもない。あいつだって勉強ばかりじゃないはずだ。去年の冬に家族でスケートをしに行ったとき、倉本が滑っているのを見た気がした。あれは確かに倉本だった。背が低くて、決して太っているというではないけれど、手足がぼてっとしていて、髪はいつものように後ろで束ねて襟首のところに入れていたから、スピードを上げるときに頭をまえにつき出すと少しずつ艶々した黒い髪がスケートリンク上に引きずりだされてくる。勝気な目をしているのが眼鏡越しにもわかった。そういえば隣にいた男子は別のクラスの武井じゃなかったっけ。ケイタの友達。一度だけゲームの話をしたことがあった。『大神』が好きだって言ってたな。あの二人そういう関係だったのか。
 有山が告白されたとき、俺も一緒にいた。あれは国道の向こうのタコ公園で、BB弾をぶっぱなして遊んでいた中学生たちを告発しに、小学校にチャリを飛ばした日だった。そういうとき率先して正義の使者になることにしていた。カッパ先生を引き連れて戻ってくると、まだエアガンを握りしめた中学生達がタコを模した遊具を中心にサバイバルに興じており、優しいカッパ先生は彼らのほうに歩み寄ると静かに語りかけた。なにを言ったのかはわからないが、中学生達は逆上することはなく、むしろ笑い合って楽しげに解散していった。ここからが本当の戦いなのではないかと勝手に決め込んでいた俺は拍子抜けしてしまい、カッパ先生にお礼を言うと、少し遠くのほうで、木で編まれた小さな櫓のような遊具に集まっていたみんなのもとに戻った。有山はなにやら神妙な顔をしていた。ポケモンバトルでも見せたことのない神妙さである。安藤はそもそも有山のことが好きだという意志を憚りなく表現していた。バレンタインデーにチョコを渡していたからだ。しかしその日はその思いを、言葉にしていた。しかもみんなの前でである。少なくともケイタとマサとマホと伊藤さんはいたはずだった。たいてい俺たちはサッカーをしにタコ公園に集まっていて、ケイタとマサと一学年上の伊藤さんはその常連で、マホはケイタの幼馴染だった。有山はマサの保育園からの親友でサッカークラブに入っており、安藤は有山を目当てに来ていた。ときどきそこにケンタが入ることもあるけど、佐々木やゲンちゃんとはグループが違った。彼らは松原という同学年の男子のグループに入っていたからだった。一言でいえばワルというやつで、いつもテカテカした黒いジャンパーを羽織り、顔が整っているのに皮膚は荒れているのが余計に大人びて見えた。橋下や大山のようにワルな兄貴や姉貴がいるのとは違い、なにやら悲しいワルなのである。確か神社の近くに松原の家もあった。倉本の屋敷の裏手の地区のどこかだ。一度だけ佐々木に連れられて遊びにいったけれど、そりが合わなかった。喋る言葉に蛇が巻きついてくるような気持ちの悪さを覚えたからだ。松原の家がどのあたりにあったか思い出そうと住宅街の四つ辻に差しかかったところで十六時の合図が流れた。
 レイナと呼ばれていた女子が現れたのは校門に着いてから十分後のことだった。黒にピンクで英字の入ったTシャツにぴったりとしたデニム生地のパンツという服装のことを、ビオトープではほとんど意識していなかった。そもそもそのとき彼女はこちらを向いておらず、実はろくに正面から顔も見ていなかった。だから彼女が約束をしていた一学年上の女子だとはっきりとした自信はなく、もしもあちらから声をかけてくれなければそこに立ったまま、あと数十分のあいだ時間を浪費していたかもしれない。
 モルタルアパートの二階でその表札を見ても、レイナのことを名字でも名前でも呼ぶことができずにいた。というのも彼女はこちらのことを「きみ」と二人称で呼んだからである。
「佐々木からよく聞いてたよ、すごいゲームが上手いって」
「まあそこそこだよ」
玄関戸を開けるとすぐに居間でちゃぶ台の上には焼き魚がラップされて置き手紙に「冷蔵庫にヨーグルトあります」と書いてあった。
 誤算だったのはWii版だったということだ。またゲームの進行がいまだに最初の村だった。ヒャドとmaroriの動画はどちらもGC版である。艫綱が憧れていた「塩と胡椒」という二人組の片割れである塩のWii版実況は二〇一一年を待たなければならないし、どのみちWiiの操作感を動画で会得するのはほとんど不可能に近かった。
「はい、これ」と手渡された白い直方体のコントローラーにはコードがついており、その先端はアナログスティックとトリガーボタンのみが配されている奇妙に未来的な曲線をまとったヌンチャクという付属器具がついていた。『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』をマサの家でプレイさせてもらったときも、このヌンチャクを使ったことがあったが、あまり手応えはなかった。そこにどのようなゲームであるかという差異はあるものの、コントローラーの操作というのは反復によって確実に上達するものであり、だからPSのデュアルショック型のコントローラーならばたいていの操作に対応できた。しかし持っていないWiiの、さらに付属のヌンチャクで「ゼルダ」のように剣を振り回すのではなく、銃の照準を合わせなくてはならないのは至難の業だった。
 それでもなんとか彼女の視線に後押しされてゾンビを蹴散らしていった。ナイフを使うのは熟練でなければ距離感を測れずに空振りしてしまうということは知っていたので弾を節約しながらストーリーを進めるためのキルを確実に取っていった。
「やっぱり上手いね」
「まだ最初だぜ」
 彼女は隣に座り、ときどき麦茶を飲みながら、テレビ画面をじっと見つめていた。ゾンビが撃ち倒されても眉ひとつ動かさない。こちらを見ることもない。無表情のままである。本当にこれでいいんだろうか。そんなことに気を取られているうちに彼が現れた。
 焦茶色のスラックスをサスペンダーで吊り上げて、血に塗れた白いシャツの袖を捲し上げた、頭陀袋を被っている男が家に入ってきた。チェンソーを掲げると、彼女はこちらにすり寄ってきた。デニム生地と畳の摩擦音が聞こえる。しかしそれどころではなかった。なんだこいつと気後れしていると、レオンの肉体は一瞬にして抉りとられていた。「あれ?」という素っ頓狂な声が自分の口から発せられたことに少しのあいだ気がつかなかった。
 その男に何度も解体された。何度も、何度も、何度も。少女は麦茶を飲む。十八時の合図が窓越しにくぐもって聞こえてきた。「そろそろ帰らないと」と言うと、ようやく彼女は笑った。「そっか、ありがとうね」
 レイナと佐々木がそういう関係だと知ったのは中学に入ってからで、なんか悔しかったんだよなあ。あのとき頭陀袋をぶちのめしていたとしても、結局のところなにが変わったというわけでもないのかもしれないけれど、それ以降バイオ4ってやってないんだよ。ちょっとトラウマになっちゃってて。
「それは辛い思い出だわ」
「チェンソーのところで終わってて草」
「簡単やろ」
「かわいそー」
「俺も似たような経験して一度ゲームやらなくなったけど、それでもゲームしてたなんて本当に好きなんだな。応援してます」
「これは明日の枠、バイオやるしかないんじゃね」
「復讐しよう」
「復讐www」
 いまWiiとWii版のバイオ、ポチったわ。明日の深夜からやるからみんな来てね。
「クリア耐久しようぜ」
「これWii代」
「少ないけど二周年おめでとうございます!」
 ありがとう、デルタ太郎さん。一万円も、まじか。中古だからそんなしないよお。ぶぶぶづけさん、ありがとう。値段じゃないからね。嬉しい。今年も頑張ります。じゃあ今日の配信はこんなところで。凸きてくださったみんな、ありがとうございます。いつも見てくれているみんな、いままでありがとう、これからもよろしくね。今日初めて見てくれたみんな、楽しくゲームしてるからよかったらまた来てね。この配信がいいと思ったら高評価とチャンネル登録お願いします! じゃあまた。
 配信終了ボタンを押してイヤホンを耳から外す。午前三時だ。防音室に音はない。普段話さない先輩の同業者との会話に疲弊しながら、とうとう二周年を迎えたんだと自覚した。いつ終わりが来るのだろうか。この日々がまだ当分のあいだ続くはずだ。胸の奥底に蠢いている不安に言い聞かせる。防音室を出てベッドに入った。眠りは遅れてやってくる。
 Wiiとバイオ4は翌日の十八時に届いた。配信は二十時から開始された。同時接続者数が三千と四千を行ったり来たりする。手際よく頭陀袋を吹っ飛ばし、次の日の八時まで配信タイトルに入れていたわけでもないのに耐久をしていた。クラウザー砦を突破したころには、もはや何のためにバイオ4をプレイしていたのか忘れてしまった。そもそも彼女がそんな名字と名前だったのか艫綱には曖昧だったのである。

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