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真正セコハン娘たちの顕揚(1) 

She fell... /she smiled... /i smiled... /i don't know why... 

Ned Joe 

森高千里 「17才」 非実力派宣言 (English Subtitles)より



 感動している。もしかしたら千代田線の満員電車の混雑に揉まれて立っていたかもしれないし、喫茶店の窓際でラップトップに向かっていたかもしれないし、いつものように眠れないままベッドに寝転がっていたのかもしれない。あるいは小林秀雄のように神田を歩いていたときということも十分ありえるだろう。「向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」。きっとそんなふうにみんなが感動していた。
 明確な意志をもち決然とした態度で辿り着いた者のほうが少なかっただろう。だから彼らのほとんどが罪悪感なんて覚えてはいないはずで、気がつくといつのまにかそこにいたのだ。私もまたその一人だ。ブラウスのカフスとY字に広がる淡い空色の胸ヨークには、きらめく黒い点状の星々が、さらに肩のあたりには紅葉のような葉の模様があしらわれ、華奢な腰がより細く見えるようにきつく締められた褐色の帯のバックルは宝石細工のように光り輝き、そこからまっすぐ伸びる藍色のロングスカートでくるぶしまで完璧に覆われている。一九八九年八月二十一日のことだった。私はまだ生まれていない。スタンドマイクを両手で握りしめながらこちらに語りかけると、うなだれ、顔にかかった髪をなびかせ、右肩に乗せるように頭をもたげる。そしてカフスのボタンとベルトのバックルをすばやく外す。衣装がぱっと開く。銀色に輝くスパンコールのレオタードが現れる。薄雲のようなレースの袖が肩から二の腕の真ん中までふんわりと広がり、素足を見せるために正面がカットされたスカートをまとっていた。音楽がはじまる。シンセサイザーの前奏に合わせ、腰を振りながらスタンドからマイクを引き抜いて歩み出てくると、なんども腕を高く突き上げ、ステップを踏んで歌いだした。「彼女は転んだ……/彼女は笑った……/私は笑った……/なぜだか分からない」。
 二〇一八年十一月十一日にレーダーマンによって投稿された「森高千里「17才」非実力派宣言(English Subtitles)」はもちろん違法アップロード動画だ。二〇二一年一月九日現在までに2,479,064 回視聴されている。コメントは2118件。いまもまたこれらの数値は増え続けている。英語字幕を施したおかげで半分が英語のコメントだ。「彼女は伝説になるまで簡素な踊りと歌を続けた」。「歌声が澄んでいて美しい。口パクかと思ってけど彼女が転んで笑い声が入った。驚いた」。「彼女は転んだ。が、録音に頼っていないことの証明になった。彼女は驚異的だ」。彼らの文法はあまりの感動に歪んでしまっている。時制の一致はなされず、主語を抜かしたために命令形になっていたり、無意味に現在進行形だったり、過去分詞にしなくてはならないところを名詞にして「I‘m shock」(これでは「私は衝撃だ」になってしまう)と書いてしまったりしている。またロマンス語系の言語も見かけた。グーグル翻訳の自動検出に通すとスペイン語らしい。「彼女はコンサートでも口パクじゃない。転んだとしても美しい」と訳せそうだ。彼らが驚嘆するのは派手な衣装でもなければ、脚線美でもなく、本当に歌っているという一点にある。
 さらにネッド・ジョーはそれ以上のものを体験しているようだ。ある二つの特定の時間と空間と言語のあいだに二人は絡まり合っている。ジョーの快楽はただのナルシスなどでは決してない。記録によれば二〇二〇年十一月にこのコメントを残しているが、そこから三か月のあいだに一五二のグーグルアカウントがグッドボタンを押すことによって賛同を示し、そのほかに四件のリプライが吊り下げられてさえいるからだ。
 まずジュアン・カミロ・グエラ・モレノが二か月前にこのように書き記した。「あれは、あの光景に至る魔法の瞬間であるべきだった」。名前から考えるにおそらくイタリア系なのだろう。主語の「あれ(=that)」というのがよく分からないためにいまいち意図が判然としない。「魔法の瞬間(=magic moment)」というのも森高千里が転んだ三十二年前か、それともネッド・ジョーがなぜかわからないままに笑った三か月前のことなのだろうか。さらにここで用いられている助動詞(=should have)は現実のことではなく、過去でそうしなくてはならなかったという後悔の念を表現している。つまりモレノによればここでは魔法の瞬間が訪れなかったのだ。おそらく彼が言いたかったのは、「こんな魔法のような瞬間を見るために実際にコンサートに行ってみたかった」ということだろう。しかし、それはジョーのコメントを誤解してしまっている。彼の感動は、観客席と舞台という整然と分割された空間では不可能なものだからだ。
 次にオー・オーというアカウントが四週間前に書き込んでいる。オー・オーはいささか事情通のようだ。「JPOPは八〇年代のほうがずっと良質であり、KPOPに霊感を与えた。それまでKPOPというものはなく九〇年中盤にようやく登場したのである。それからKPOPの音楽様式は今日の西洋の流行に合わせて発展を遂げている。一方で今日のJPOPはゼロ年代初頭で停滞しており、そこからたいした変化はしていないようだ。九〇年代とゼロ年代のJPOPとKPOPは似ているけれど。そしてマーケティング戦略は杜撰で、Youtubeの著作権の取り締まりが厳しく、動画が消されてしまうので海外のファンはJPOPのアイドルをYoutube上で見ることが難しく、現在はKPOPほどの人気を得ていない。八〇年代と九〇年代のJPOPのアイドルは現代のアイドルと比べてルックスもいい。どうして、そしてどのようにして、この基準があのように劣化してしまったのだろうか」。冗長ではあるものの彼の英語はとても分かりやすく主張も明確だ。違法アップロード動画そのものを二一世紀の戦略的思考によって肯定し、それを許さない現代の日本のアイドル業界に苦言を呈しているのだ。しかし敢えて訂正を施せば八〇年代にはいまだJPOPというジャンルは存在してはいなかった。まだ美空ひばりが生きていたからだ。かの歌姫が生きているあいだ、それらの曲は異なる名で呼ばれていた。
 ジョエイオ・ティーは三週間前に奇妙な二重性を指摘している。「彼女が笑うだけで事態をやりすごし、プロのアイドルを演じ続けるところに、人間らしさと親しみやすさを覚える」。そしてマ・アンジェリカ・V・ブエンナフェはつい二時間前にこう書きこんだ。「あなたが転んだあと、どうしたら可愛くみえる?」。この二人こそがまさしくネッド・ジョーの詩に共感を寄せている同志たちだというのは間違いがない。人間性を表現しながらもまた画面のまえの世界とは一線を画す特別な本物のアイドルを私たちはいま見ている。

ちなみに一九七一年六月一日「17才」をリリースして、南沙織はアイドルデビューしたのだった。


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