墓標

今日おばあちゃんが私に「夢は持ってるだけでよいものだ」と言った。

「別に夢は叶えるためだけにあるんじゃなくてさ、例えばスチュワーデスになりたいな、スチュワーデスになったらどこの国の人としゃべってみたいなあでいいんだよ。そういうの鹿ちゃんにはないの?あると、豊かになるよ。」

おばあちゃんにいえなかったけど夢ならずっと持っている。

取りつかれて7年たつ。私の夢は女優になることだった。誰にも言ったことはない。別にそのために演技の勉強をしているわけでも、容姿を磨いているわけでも、何かオーディションを受けようとしているわけでもなかった。ただ、もしもの私を用意した時、一番きらきらして見えたのが「女優の私」だったというだけだ。

彼女は天才女優である。一度台本を読んでしまえばすぐにその役の心を推し量り、表すことが出来た。これは何も才能の話だけではなく、毎日のように感情や思ったことを記録し、それを描写と照らし合わせることをしているというのも加担していた。美人というわけでもない。だが愛嬌があり、不思議と魅力的に見える容姿をしていた。恋にはさして興味がなく、役づくりにときめきが必要だから本人は焦りもしているという。アカデミー賞を取り、そのスピーチでも彼女は奢りを見せない。監督やスタッフ、共演者や脚本家、演出家、プロデューサーに感謝を述べ、その作品の魅力、演じた役への愛をそこで述べステージを降りたのだ。その後も仕事を選ぶことはなく、写真集をファンのためにほとんど無料で配る。この経費は彼女が実費で払ったらしい。眠れないほどのスケジュールの中で、それでも笑顔を忘れないけなげな心を持った女の子。誰もが彼女を嫌いになれない、愛される女優。

以上が七年私の頭を支配してきた「女優の私」のあらすじである。ご都合主義が詰まった、本当にありきたりな夢物語。自分でも恥ずかしくて痛々しくて、でもこれが本当になるならそんな幸せなことあるだろうかと思う。絶世の美人や百パーセントの天才であればさすがにどう頑張っても感情移入が出来ないので、微妙な改変は加えてあるものの、ほとんど子供の書いた未来の自分だ。

どうしてこれが、こんなに長いこと私の頭を離れてくれないかというと、こうやって現実から逃げてきたからである。友達がいなかった中学時代、思い出したくもないような黒歴史を自分のせいでやまほどこしらえてきた。たまに優しくしてくれた友達に依存しそうになっては、相手に迷惑をかけて深手の傷を織ったりしていた。いじめられていたわけでもなく、シンデレラストーリーの序盤の部分のように大きな波があったわけでもない。ただ苦しくて、お昼休みにトイレの中で「もう何にも期待しません。楽しいことは起こらなくていいから、とにかく何も起こさないで下さい。」と手を組んで祈っていた。ひどい他力本願だと思う。その時の私は、今とは違う痛々しさを抱えていたのだ。そんな毎日を送っていく中で、5分だか10分だかの休み時間机に突っ伏していた私の頭に突然浮かんだのは、もしもの自分だった。確か初めはその時大好きだったドラマの世界に私が生きていたら、だったはずだ。私は変わり者の集団の中ではまともな方の解剖学者で、その時も天才だった。想像力が貧困なのと自分から離れたキャラクターにするために、もしもの私は大概天才なんちゃらになってしまう。そのドラマにかけていた情熱がどんどんしおれていって、次のドラマ次のドラマを繰り返していくうちに「じゃあ、女優になればいいじゃん」と思った。女優であればどんなドラマでも出ることが出来る。どんなドラマにも出ることが出来るなら、人柄のいい天才女優になるしかない。そうやって私は天才女優の魂をじっくり編むようになった。

ここで止めていれば、まだ人に話せる段階の与太話に出来たと思う。

私は現実に起こった嫌なことも、嬉しいことも全部をその天才女優に押し付けた。番組で過去についてインタビューされた私は笑って答える。「中学生の時、本当にいい思い出がなくって。ほら体育の授業の時に二人組になってって言われるじゃないですか。校庭から校門が見えたので、本気で走って家に帰ったらあっけにとられて成功するんじゃないかって何回もシミュレーションしたんですよ。まじめに授業を受けてきた見返りってここに詰まっているんじゃないかって。」「あ、でも別に完ぺきに一人だったわけじゃなくて、たまに話しかけてくれる子もいたんです。その子とは今でも、年に一回は合うようにしてて。中学の時にその子とバトミントンやったんですけど、隣の知らないおじさんも参戦してきて、めちゃくちゃ笑ったんですよね。」

この妄想でどれだけ救われたか分からない。現実とエピソードの種を切り離せば、傷ついたのは私でないことに出来る。うれしいことがあっても調子に乗りづらくなる。人に期待しなくなる。自分が現実生活で楽しいことよりも、他人を優先できるようになる。都合のいい女に近づいていくと、傷つけてくるような人が減った。腫物に触るみたいに、「ほらあの子はイイコだからさ、かわいそうじゃん。」と棚にあげてくれるようになった。

夢を持っていたから、私は今も生きていることに違いはないだろう。

けど、もう疲れた。

中学の時の環境と7年たった今とでは全く違う。運に恵まれ、いい友人が出来た。好きなものやことにいっぱい出会って、明日が楽しみで仕方のない日もある。「幸せです」と胸を張って言うほどではないかもしれないが、「幸せなのかもしれない」と思うことが出来る日もあるくらいだ。

それなのに逃避に慣れてしまった私の頭は、勝手に女優の私に起こったこととして、嫌なことも楽しいことも消化しようとする。逃げようなんて思っていないのに、勝手にエピソードトークが始まって、勝手に私は女優としてのステップを駆け上がっていく。勘弁してくれ、もう私のこととして処理させてくれと思っても、無意識のうちに妄想は始まってしまうから、頭が痛い。

今から天才女優になれると神だか魔人だかに言われたら、たぶん間違いなく頭をこすりつけてお願いすると思う。あり得ないことであることなんてずっと知っていった。もう私は今の私を幸せにしたい。どうせ傷つくけど期待して、ちょっと夢見て、裏切られても愚痴に変えて生きたい。誰かに怒ったり、誰かにわがままを言ってみたりしてみたい。無謀な片思いがしたい。

今まであってはいけないことだとひた隠しにしてきたたぶん私の夢だったものを、おばあちゃんがあっていいのだと肯定してくれた。もう今が弔い時だと思った。こんな文章を書いている時点で今の私だっていたい人間だけど、痛々しさがワンパターンなら対処法がもう現代にあっていいだろ。この文章は、7年も支えてくれた私の墓標の代わりとする。たまに思い出して感謝して、今に向き合うための装置にしたい。

もう女優をやめたって、なにしたっていいです。今まで押し付けて、ごめんなさい。きれいごとを担当してくれてありがとう。夢あり続けてくれてありがとう。


お疲れさまでした。

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